第17話 近江という国
第17話 近江という国
朝、城下の鐘が鳴る前から、人は動いている。
義仲が城を出たのは、まだ霧が低く垂れている刻だった。この刻は人々達の生活をじっくりと見れる
草の露が馬の蹄に弾け、湿った土の匂いが立ちのぼる。農民は朝明けから作業している
(この匂いが、近江だ)
◇
まず向かったのは、野洲川沿いの田地だった。
水路は昨年よりも整えられ、木杭と石で補強されている。この前の視察の時は脆かったけど良くなったな
伊賀・甲賀から連れてきた者たちが指揮を執り、村の百姓と共に汗を流していた。
「殿、水の流れがよくなりました。稲の育ちも良く前よりも秋の収穫が楽しみです」
庄屋が誇らしげに言う。
「今年は、旱でも洪水でも耐えられそうです村人たちも安心して暮らして行けます殿のおかげで
ございます」
「それは何よりだ村や国が安定して安心して貰うのが俺の仕事だからな」
水は命だ。それが無いと畑や田んぼなどの育って無いし人々も生きていけない
剣よりも、年貢よりも、まず水。
その理解があるかどうかで、国は数年後に姿を
変える。それが六角氏を強くしていくことになる
◇
昼前、市へ入る。
野洲の市は、以前より明らかに大きくなっていた。
仮設の店が並び、常設の蔵も増えている。税を安くして良かった感じだな
近江麻の反物、琵琶湖の小鮒、干した鮎。
鉄器を扱う鍛冶の露店もあり、甲賀流の火縄銃部品が無造作に置かれていた。鉄砲なる物ここから増えて来るだろう。
「殿、鉄は今、堺経由が増えております堺の商人も近江に魅力に感じてきておるのかも」
「尾張か?織田家からも気に入られたらいいのだからな」
「はい。値は少し高いですが、質は良いこういう物
増えたら嬉しいですな」
商いは、正直だ。
誰が強いか、誰が伸びているか、値段に全部出る。それを元に商売になって行くのだ
◇
市の端、茶屋に入る。
麦飯と味噌汁、刻んだ沢庵。
贅沢はないが、欠けてもいない。腹に溜まれば良いのだし、民の生活も知りたいのだから良い。
「戦が少ないと、味が落ち着きますな殿にとっても」
茶屋の主人が言った。
「鍋を振る手も、慌てません落ち着いて料理を作れます」
その言葉に、義仲は何も返さなかった。
だが、胸の奥で小さく頷く。
(それでいい)
◇
午後は街道。
道普請は続いている。
石を敷き、ぬかるみを避けるため溝を切る。
旅人が増え、馬の数も増えた。ここ調子で行くべきか
関所では、通行手形を巡る揉め事が減っている。
「役人が、以前より話を聞いてくれます我々も気持ち良く商い出来ます」
行商がそう漏らした。
「怒鳴られなくなった安心して生きていく事が出来たい」
それだけで、人は動く。
◇
港。
琵琶湖の水面は穏やかで、帆が並ぶ。
湖上交易は近江の血管だ。
北からの木材、東からの米、南からの鉄。
荷の量は、確実に増えている。良い感じだ
少しずつだが増えて来ては良いと
「殿、荷止めは減っております」
「無理に締めていないからなここからもっと頑張って行くぞ」
締めれば一時は楽だ。
だが、国は痩せる。
◇
夕刻。
城へ戻る途中、子どもたちが道を駆けていく。
兵の真似をして木の棒を振り回し、陣形のつもりか、やたらと声だけは勇ましい。
「殿だー!また来たですか!」
誰かが叫び、皆が一斉に振り返った。
慌てて頭を下げる者もいれば、遠慮なく手を振る者もいる。
義仲は馬上から軽く手を上げた。
(この混ざり方が、今の近江だ)
恐れだけでもない。
馴れ合いでもない。
当主という存在が、まだ人の中にある証だった。
城門が近づくと、空気が変わる。
笑い声は遠ざかり、足音が整い、鎧の鳴る音が混じる。
「お帰りにございます」
門番の声は揃っているが、どこか緊張が残っている。
城内は今、穏やかではない。
中庭では兵が槍の稽古をしていた。
掛け声は鋭く、動きも悪くない。
だが、互いの間合いを測る目には、どこか探りがある。
(家中の空気が、そのまま兵に出ている)
廊下を進めば、家臣たちが低い声で言葉を交わしていた。
義仲の姿に気づくと、一斉に口を閉じ、深く頭を下げる。
「……」
声はかけなかった。
今は、軽い言葉一つが意味を持ちすぎる。
政所の前では、老臣が帳面を抱え、若い者に指示を出している。
従順さの裏にある焦りと、従順を装った様子見。
どちらも、当主の目からは隠れない。
(皆、俺を見ている)
期待と、不安と、打算。
その全部が、城の中に漂っている。
義仲は立ち止まり、城内を一度だけ見回した。
(この城は、俺の覚悟を試している)
城下の灯りと、城内の沈黙。
その間に立つのが、当主という存在だ。
義仲は背を伸ばし、歩みを再開した。
迷いを見せぬように。
近江の重みを、背に負ったまま。
◇
城下に灯りがともる。
家々の軒先から漏れる橙の光が、夕闇を押し返していく。
炊煙がゆっくりと立ち上り、味噌と薪の匂いが混じる。
どこかの家からは笑い声が聞こえ、路地の奥では犬が吠えた。
義仲は馬を止め、その光景を黙って眺めていた。
(これが、俺の国か)
戦の準備は進んでいる。
武具蔵には鉄が積まれ、兵の名簿は日々書き換えられている。
家中では官位を巡って思惑が交錯し、誰が味方で、誰が様子見か――まだ定まらない。
外は騒がしい。
京は不安定で、尾張は値踏みをやめず、三好は沈黙を続けている。
だが。
城下の灯りは、そんなことを知らぬ顔で揺れている。
人は飯を炊き、子を叱り、明日の支度をして眠りにつく。
(俺が間違えれば、この灯りは消える)
剣で守れるものより、失えば戻らぬものの方が多い。
その現実が、胸の奥に静かに沈んだ。
それでも。
(だからこそ、背負う)
義仲は手綱を引き、深く息を吐いた。
逃げる理由は、もうどこにもない。
この国は、今日も生きている。
血ではなく、営みで。
それが何よりの答えだった。
第17話 後書き(作者より)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第17話では、あえて大きな事件は起こしていません。
剣も抜かれず、会議も荒れず、劇的な決断もない。
ただ「城下が生きている」「城内が揺れている」という、地味で静かな一話です。
ですが、この物語において――
それこそが、一番大事な場面だと思っています。
義仲はもう、若い頃のように
「勝てばいい」「斬れば解決する」立場ではありません。
城下の灯り一つ、子どもの声一つが、
そのまま自分の判断の重さとして返ってくる場所に立っています。
だからこそ、
城下では人として迎えられ、
城内では当主として測られ、
その両方を同時に背負わされている。
第17話は、
「戦国の主役になる前の一瞬の静けさ」
「嵐の前の、息を整える時間」
そんな話です。
家中の空気が兵に伝わる描写、
言葉をかけない義仲の選択、
どれも派手ではありませんが、
当主という役割の孤独を少しでも感じてもらえたら嬉しいです。
次からは、
この“静かな国”に対して、
外と内、両方から圧がかかってきます。
守るために、どこまで動くのか。
動かないことで、何を失うのか。
義仲の選択が、よりはっきりと問われていきます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




