第16話 当主の背中
16話 当主の背中
朝の城は、まだ眠っている。
遠くで鶏が鳴き、井戸から水を汲む音がかすかに響く。空は青くて晴れ渡り気持ちよく風に草が揺れて
いた
廊下を渡る風は冷たく、鳥のさえずりの共に
夏の名残をわずかに残していた。
小姓の清之介は、文を抱えたまま、足を止めた。
(……殿は、もう起きておられる政事をやっておられる)
当主となってから、義仲は夜明け前に起きる。亥の刻までひっきりなしに動いている
それが日課になっていた。
だが、清之介は知っている。今より気ままに生きているのと活発に動いていた気がする
昔の殿は、こんな男ではなかった。
◇
当主になる前――
まだ「若殿」と呼ばれていた頃の義仲は、もっと気ままだった。
剣の稽古が終われば、汗を拭いもせず縁側に座り込み、時には身を倒して休み寝てたりしていた
城下の方を見ては言った。
「腹が減ったな。甘いものはないか運動した後の甘いもの格別だからな」
甲賀から献上された菓子“兵糧丸”なる物を口にし、
「これは悪くない程よい甘さ控えめで良いな」と
笑った。
朝も弱く、
清之介が起こしに行くと、布団の中から声が飛んできた。
「まだ早い。敵・誰もも来ておらん」
それでも、戦となれば別人だった。
鎧を着るのは嫌うが、民のために六角のために
前には必ず立つ。
あの頃の殿は、
剣で守れると思っていたのだ。秩序を保つ事が
◇
今。
執務室にはすでに灯りがあり、
義仲は簡素な直垂姿で机に向かっていた。時々難しそうな顔や頷いて納得して駄目と独り言を言うながら
豪奢な調度はない。淡々とした態度で素早く書類仕分けてやっていた
文、地図、算木、硯。
朝餉も質素だ。
麦飯、味噌汁、漬物。
「殿……お口に合いますかおかわりもありますが?」
「十分だ。腹が満ちれば、考えが鈍る少しはおかわりするかな」
冗談めかして言うが、
その目はすでに政の中にある。
清之介は気づいていた。
(殿は、もう“自分のため”に生きていない国のため民のためにしてるな)
官位の話が出てから、
義仲はさらに慎重になった。
従五位下・左衛門佐。
それは名誉であり、
同時に「見られる立場」になるということだ。責任もついて来てるのもあるのだ
朝廷に。
幕府に。
諸大名に。
◇
評定の間の外では、家臣たちが声を潜めていた。
「受ければ、都に縛られるそして自国の事を疎かになって内紛や一揆起きるかもしれん」
「だが、断れば軽く見られる都や諸大名に舐められる特に三好氏や浅井氏とかな」
「三好は……沈黙しているな今だけだ良い頃に嫌がらせや妨害は来るぞ」
進藤賢盛は、腕を組んだまま黙っている。
(若殿なら、ここで静かにせい意見をまとめろと
怒った)
かつての義仲は、
理不尽を嫌い、
言いたいことを言った。よく言えば正義感が強い
悪くて言えば頑固で短期だ
だが今は違う。
すべてを聞き、
すべてを飲み込み、
その上で決める。人の上に立つということや国の上立つのとはそういう事だ
(変わったのではない。育ったのだ)
進藤はそう思っている。
◇
庭では若い家臣たちが槍を磨いていた。
「殿は、昔からああ静かだったか?もう少し怒ったり指示したりしたような」
「いや……もっと荒かった信念が強いからな色々と指示をしてたな」
「だよな。今は、近寄りがたい」
別の者が、ぽつりと言う。
「だが、逃げない」
皆が黙る。
巡回では必ず前に立ち、
戦では必ず退かぬ。
それだけは、昔から変わらない。
◇
夜。
義仲は一人、灯りの下で書付を見つめていた。
朝廷の言葉。
三好の沈黙。
織田の文。
机の上に並ぶそれらは、ただの紙切れではない。
一つ選べば、別の二つが敵に回る。それは六角氏にとっても危険な事で重要な事だ
選ばずとも、時間は味方してはくれない。
(若い頃なら、もう筆を走らせていた)
勝てば道が開けると、信じていた。
剣を振るえば、答えが出ると思っていた。
敵は外にあり、斬れば終わるものだと。
それは綺麗事で簡単には行けないのだと
だが今は――
背後に城がある。
家臣がいる。
畑を耕す民がいる。
それぞれの者達の為に奮闘するのだ
夜更けまで灯りを落とさぬ町がある。
一文字の誤りが、
一人の決断が、
それらすべてを揺らしかねない。
筆を取る指が、止まる。
「……まだだこれからだ六角氏とっても近江のため
にも」
呟きは、誰に聞かせるでもない。
自分自身に向けた、戒めだ。
決める時は来る。それがこの国の未来のために
逃げられぬ時が、必ず来る。
だが――今ではない。
義仲は筆を置き、そっと書付を重ね、
灯りを落とした。心を落ち着けて言い聞かせるのだ
闇の中、廊下を歩く足音が静かに響く。
その背中を、
家臣も、
小姓も、
そして近江という国そのものも――見ている。
当主とは、
前に立つ者ではない。皆の命や思いを請け負って
すべての視線を背負い、その思いを感じて
それでも歩みを止めぬ者の名だ。
第16話では、義仲が「動かないこと」を選ぶ場面を書きました。
戦国ものでは、どうしても戦や決断の派手さに目が行きがちですが、当主という立場に立った人間が本当に苦しむのは、むしろこういう夜なのではないかと思っています。
剣を抜けば敵味方は分かれます。
ですが、筆を取るか取らぬか、その一瞬には正解がありません。
誰の顔も、誰の暮らしも、誰の未来も、すべてが同時に頭に浮かぶ。
義仲は今、まさにその場所に立っています。
家臣や小姓、そして国そのものに見られている、という一文は、
「当主とは孤独である」というより、
「当主とは逃げ場がない存在だ」という意識で入れました。
まだ動かない。
けれど、逃げてもいない。
この曖昧で重い時間こそが、義仲を“当主”にしていくのだと思います。
次話からは、
この沈黙に耐えられない者たちが、少しずつ動き始めます。
静かな水面の下で、流れは確実に速くなっています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




