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今回も読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!
妙に柔らかくて、少し硬い気もした何かで口の中がいっぱいになる。
上唇と下唇が同じ極同士の磁石を近づけたように、得体のしれないものによって強制的に開けられていた。
まるで互い違うレールで走る列車たちのごとく、上下に一定の距離を保っていたのだ。
硬い。
しかし単純に硬いだけでなく、ふわっとしたところもちゃんとあった。
どんなものかはわからないが、少なくとも食べられるような食感ではなかった。
「あ、あた、あたしっ」
毛玉の少女は相変わらず俺の腹の上に乗っていた。
「あ、あぁああっ、あたしを……っ」
そして少女は手に持っていた何かを俺の口の中に突っ込んだまま、どもっていた。
俺はその少女が伸ばしていた細い腕の部分から俺の口元の方まで、段々と視線を移してみたが。
「ユキねぇのライブ配信のマネージャーにしてくださいっ!」
すると、その終着点には岩に刺さった聖剣のように、スマホが俺の口に見事に刺さっていた。
こいつはミツバチの黄色と黒のパータンを使ったケース付きのスマホを、何の躊躇もなく俺の口に無理やりねじ込んでいたのだ。
古木に止まっているセミの如く全力で俺の肩を掴みながら、毛玉の奥に顔をうずめたままで。
そのせいで、少女の表情は皆目見当もつかなかった。
しかしぶるぶるしてた少女の両手と少しかすれていた声と共に、燃え尽きてしまうほど熱かった少女の息吹は、今は完全にその意味が変わってしまった。
「ダメ……でしょうか」
こいつは非常に利口なやつだ。
望んでいた実況者と深い絆を結びつつ、それを他のファンの人たちに堂々と自慢することもできる絶妙なポジションをねだっている。
きわめて賢くて、物凄く欲張りなやつだ。
「ダメだ」
だが、これだけは決して譲るわけにはいかない。
「な、ななっ、なぜですかっ⁉ あたし、うまくやれる自信ありますよ!」
「そんな問題じゃない。そもそも名も知らない相手に、他のリスナー達を追い出すこともできるそんな大役を「はい、どうぞ」って簡単に託せられるかよ」
「あたしは麻衣! 鳥谷部麻衣と申しますよ!」
「まあ知ったとしても、最初からやらせる気はないけどね」
「ひどい! 鬼! ユキねぇは悪魔ですかっ!」
ライブ配信を始めたのも、およそ八年が経った。
その間に俺は、秀でた多くの女性実況者たちがどのように転落していったのか、それを誰よりも赤裸々に見てきた。
その原因の一つは、度が過ぎた親睦から生み出された。
特にマネージャーと女性実況者とのスキャンダルは、最も最悪な末路を辿った。
その二人だけが被害を受ける程度ならまだましなんだが。
それはリスナーに一番公平しなければいけない実況者が、特定のファンを偏愛したことになってしまう。
いずれ裏切られたのを知って、多くのファンの子たちが再起不能のショックを受けることになるんだ。
実際にそのせいで間違えた選択をした人たちもある故に。
いっそ配信とは無関係な人との出来事なら、ファンの子たちも理解してくれるはずだがな。
とにかくマネージャーを置くことは、その実況者を好きでいたファンダムに対して、彼らのご期待を裏切るような蛮行として発展するかもしれないリスクを背負う行為ってことだ。
「先に言っておく」
「あうぅ……なんですか?」
「マネージャーを置くくらいなら、俺ライブ配信やめるよ」
なので、俺はちゃんと断るためにこいつ、麻衣にそう伝えた。
「はぁ⁉ どっ、どどど、どうして……」
「弊社にて検討した結果、誠に残念ですが、現在マネージャーは募集しておりません」
「他の実行者たちはマネージャーの一人や二人くらい余裕で置いて配信しているじゃないですかっ! それとも……そんなにも頼りなさそうに見えるんですか、あたし」
声が潤んでいる。 俺を襲っていた少女は苦しそうな声で話を続けた。
「たった一度でもいいから、あたしにチャンスをください! 必ずユキねぇに必要とされる完璧なマネージャーになり切って見せますので是非!」
「嫌だって丁重に断ったんだろう。いい加減にしてくれ」
しつこすぎる麻衣のおねだりに、思わず真顔になって冷たく言ってしまう。
予想外の反応に非常に驚いたのか、甘いラズベリーの香りをまとっていた麻衣はあっという間に俺のもとから離れていった。
そのおかげで、今まではよく見えなかった毛玉の奥の表情がしっかりと見えるようになった。
本当にひどい泣き顔だった。
さっきまでは有り余る喜悦に堪えずにやにやしていた少女なのに、今となってはそんな人って最初からなかったみたいに、その表情は跡形もなく消えてしまっていたのだ。
溢れ出す涙をものともせずに、麻衣は俺がいたベッドの上から素早く降りてきて部屋の隅っこまで止まらずに後ずさりした。
「そ、そう……脅迫! これは脅迫ですよ。け、決して単なる脅しなんかじゃないですからね⁉ ユキねぇの正体、皆さんに暴露しますので! だから……だ、だから! それが嫌だったら! さっさとあたしを貴方のマネージャーにしやがってくださいっ!」
麻衣はそう言いながら同時に、よだれでびしょ濡れになっていた自らのスマホを使い、俺にとある動画を見せた。
「マジか」
その動画には、ライブ配信を終えた直後の俺が脱衣している過程が一つも残さず映されていたのだ。
もしこんなものが広まったりでもしたら言い訳どころか、ファンの子たちによって全身が串刺しだらけになってハリネズミのような格好になる方がもっと早いだろう。
「あははっ……どうですか、ユキねぇ? そろそろマネージャーにする気になりました? む、無理やり奪って削除しようとしても無駄ですよ! もうクラウドサーバーにセーブ済みですので!」
だがよ。
「すればいいじゃん」
「へ? あ、は、はいっ! それってつまり、今日からあたしはっ!」
「言いふらしてみろよ、俺の正体」
こっちはもう、とっくの昔から死ぬことなんて覚悟の上だぞ。
「今の発言……本気ですか、ユキねぇ? も、もちろん、あたしやほんの数十万のCP達は非常に喜ぶでしょうがっ! 厳密に言うとユキねぇのリスナー達って、ほぼ七割くらいは男性の方なんですよ? その数だけでもおよそ一千万に至るっていうのに! 本当、比喩なんかじゃなくて潰されちゃうのかもしれませんよ、物理的に」
「多分、そうなるだろうな」
「そうです。まさにその通りですよ! だから、あたしをマネージャーにしてくださるなら何も問題も起こりませんよ! さもないと、あたし……っ!」
「言いふらしたらお前も今後、俺の配信は未来永劫見られなくなるんだろうなぁー」
こうなったら一か八かだ。
今すぐこの詐欺行為のすべてが露わになって、ライブ配信と共に俺の人生も終わりを告げるのが先だろうか。それとも、いつかこいつとのスキャンダルでファンの子たちが取り返しのつかないほど傷ついてしまうんだろうか。
どちらにせよ、このままだと俺のリスナー達が苦しむことになるのは明らかなことだ。
それだけは嫌だ。死んでも嫌だ。
いっそ自ら首をくくって死んでしまう方がましなくらいだ。
俺にとってその人たちは……詐欺師である俺の正体を知らずたくさんの金や応援などの支援を惜しまずに送ってくれた、本当にありがたいながらも申し訳ないと思っている方々なんだ。
そんなファンの子たちを、俺は決して傷つけたくない。
「どうせ俺以外にも見ているライブ配信はたくさんあるだろうし、もう好きにすれば?」
そもそもあの毛玉……麻衣としては俺が男だっていうことが逆に物凄く喜ぶことらしいし。俺の詐欺行為について知ったにもかかわらず、それでも俺のマネージャーになりたいと言ったじゃないか。
しかもこいつは「ユキ」に会うために、過去の数多いライブ配信の映像から一々痕跡をかき集めたんだし。なお、北海度から東京まで来て、その痕跡だけを頼りにしてここまでたどり着くほどに、麻衣は「ユキ」の配信をもれなく見てきたはずだろうから。
そんな彼女だからこそ、俺のライブ配信が消えるのを望ましく思うはずがない。
だから、今は見栄を張る。
「そう、ですか……」
計画通り。
はったりの効果は抜群だ!
絶望したあまりに手から力が抜けたのか、麻衣は自分のスマホと大事にしていた未来計画書までぽろりと落としてしまう。
そのまま、麻衣は毛玉の奥に顔をうずめた。
やっとあきらめてくれたのか。
「こう……なったら」
あ、あれ? 麻衣の様子がなんだか変だ。
毛玉が激しく揺れ動いている。
「……ねぇの気が変わるまで、あたし……何度も刺して刺して刺しまくって……」
ふと窮鼠猫を嚙む、っていうことわざを思い出す。
相変わらず麻衣の表情は全く見えなかったんだけど、その雰囲気だけでも背筋がぞわっとした。
そんな彼女から警戒を怠らないまま、俺はじっくりと様子を探ってみる。
すると、とある恐ろしい事実について気付いてしまう。
先ほどに俺が彼女の提案を断ってたその瞬間から今の今まで、この毛玉は俺と床に刺さっていた包丁を交互に睨んでいた、っていうことに。
「ちょ……まっ! ま、待って! 早まるなっ! わ、分かった。考え直してみるからさ。今後マネージャーが必要な時が来ると、真っ先にお前を呼ぶから、な? も、もしこれでも不満なら……そ、そう、仮! 仮のマネージャーならどう? 俺が納得するだけの実績を見せてくれれば、後で正式なマネージャーになってもらうとかで……な? いいだろう?」
「……本当……?」
「あ、ああ! 約束する」
し、しまった!
こういうのは最初から余地すら与えちゃいけないのに、恐怖心に打ち勝てなかった。
「クスクス。そういうことでしたら「その内」、本当のマネージャーになれますよね」
「うん? 今、何か言った?」
「あ、いいえ、何でもありません。それより指切りしましょう! ほら、針千本のあれですよ、ユキねぇ。もぉー早く!」
しかし、そんな俺の裏事情を知ることもなく、麻衣はニヤニヤしながら再びベッドの上に戻って俺に小指を差し出した。