プロローグ ~ 第一章
【プロローグ】
ほんの一瞬の妥協であった。
いや、妥協という言葉を使うほど悪いショットチョイスでもなかったと思う。
これは【妥協】というよりは【判断】というほうが正しいほどの選択だった。
週に5度顔を合わせるほど、彼のことをよく知るコーチに聞いたら「安全策を取った」と答えるであろうし、
観戦している人々に聞いても同様な答えが返ってくるであろう。
テニスを始めたての人から見たら、ナイスショットと評されるかもしれない。
しかし、試合中の彼の考えは違う
打つ瞬間までは最善のショットチョイスだと感じているが
打った瞬間からは「妥協した」という自責の念に駆られている。
その本人にしか感じ取れない揺らぎを感じ取る人が、もう一人いる。
ネットを挟んだ23.77m前方にいる男は感じ取っている。
「こいつは今、逃げた」「叩き潰すなら今だ」と男は感じ取っている。
言葉にされずとも、その打球から言葉以上の意思を感じている。
そして、自責の念に駆られている彼は、また痛感することになる。
「これが 違い 何だなと」
これは何者でもない男が、ほんの少しだけ成長する5ヶ月間を描いた物語である。
【第一章違い】
肌を針で指されるような寒さも収まり、徐々に汗ばむ季節を迎えつつある5月。
宮光太郎は自信の半分もあるアイスバス肩までつかりながら、ぼーっと空を眺めている。
「また、肝心な場面で勝てない」
宮光太郎は後悔している。
日修大学で硬式庭球部に所属している宮光太郎の武器は圧倒的な安定感である。
他の部員がインハイ常連校のスポーツ特待生である中、宮だけは普通の県立高から一般入試で入学し、何の前評判もなく大学テニス部に入部したので、その中でレギュラーを勝ち取るにはバランスよくスキルを磨く余裕はなく、何か一点に飛びぬける必要があったのである。
その何か一点は彼にとって「安定感」であった。
「安定感」はテニスというスポーツと相性がいい。
ボールを打ち合い、ミスをしたら相手に得点が入る。そんなテニスの本質を良く捉えた武器を宮光太郎は持っている。
他の部員よりテニスを始めたのが遅く、最短で勝てるようになるにはテニスの本質を捉えた武器が必要だったので、彼がこの武器を選択することは必然であったのかもしれない。
その武器のおかげで、宮は3年生にして初めて部員42人のなかで6席しかないレギュラーの座をつかんだのである。
では何故、宮は今アイスバスに入りながら虚空を眺めて後悔しているのか。
それは、武器が「安定感」であるが故の事である。
宮は3年生の春からレギュラーになった。
レギュラーになり他大学との試合の機会も増え、リーグではいつも残留争いの日修大学に所属する宮はいつも格上の相手と試合をしているのである。
安定感はどんな状況でも平均的な実力を発揮することができるが、裏を返せば実力以上は発揮できないのである。
相手の調子にムラがあるときは勝てても、相手が格上の時は負けてしまう。
相手が格上の時は負けてしまうというのは試合であれば当然の原理であるが、
しかしその当然の原理をスンナリの見込めるほど21歳の宮は物分かり良くなかったのである。
「安定感にプラスして、相手の想像を超える武器が欲しい。」
やっとレギュラーを獲得して今までの苦労に青ざめながらも、すぐにまた苦労をすんなり受け入れるほど、宮光太郎は悩んでいた。
「しゅー!!ごー!! 30分前でーす!!」
体育会特有のイントネーションで掛け声が響いた。
傍から見たら変なイントネーションだが、この環境に3年もいると耳に馴染んでしまっている。辛いランニングも筋トレも振り回しも、全部馴染んでいる。
全部馴染んでもなおまだ足りないのである。
トレーナーから言われているアイスバスの時間は10分なのに、悩みすぎて20分入っていた。冷たさも忘れるくらい、悩んでいたのかと自分に感心した。
「諦めてない当たり、まだ伸びしろだな」
朝8時から始まり17時に終わった対抗戦の片づけ後に、大学の談話室にて軽いミーティングをする。
スコアの確認、選手の感想、トレーナーの感想、課題の共有など。
試合順で意見を出し合い、最後にシングルス6の宮だ。
「競るだけで、勝ててないな。」
シンプルな一言がシングルス2で出場した主将山﨑の口から発せられた。棘のある言い回しだが宮は素直に受け止める。山﨑の口調が厳しいのはいつもの事である。部員の誰もそれに対して過剰な反応はしない。
山崎は主将である責任もありテニスに関わることになるとスイッチが入るのだ。
しかし、酒に弱く打ち上げでは後輩たちに良いようにあしらわれている。これがある意味バランスをとるカギなのかもしれない。
「レギュラーとして出場の3試合目だけど、未だ勝ててないね。3試合とも相手は格上だし、ある意味では仕方のない面もあるけど、自分自身どう捉えてるか本音で話してほしい」
重ねるようにコーチが言う。間を置かず行ったのはフォローの意味もあったのだろう。
宮も間を置かずに答える。考えはアイスバスの中で既にまとめていた。
「今までの試合、自分の実力を出し切った感覚があるので、その点で於いては満足しています。けど勝てていないので手応えとしてはまだ少し模索している感じです。意見頂きたいです。」
アイスバスで考えを纏めたおかげで、お手本通りの回答が出来たと思った。
恐らく試合終了後すぐに言われたなら少しは毒づいていた。
「相手がどうであれ3敗してるのに冷静なこと言えるのが光太郎の良いところであり悪いところだよね。たぶん勝てない原因もそこらへんにあるんじゃないの?」
日修大学シングルス1であり、インカレ選手松田はすこし突き放すような語気でいった。
だが部員は過剰に反応しない、松田はテニスに対して真摯であることを普段の背中から感じ取っている。
「光太郎はキャリアが浅い中で、インハイ選手に勝って手に入れたレギュラーにいるわけじゃん。団体戦はその面では、自分が蹴落とした部員の分も背負って戦うから、光太郎の武器である安定感が強調されすぎて相手からしたら『何してくるかわからない』みたいな怖さが無いんだよね。」
「部員全員、光太郎がどんなショットを選択しようが誰も何も言わないよ?
光太郎はそれだけの努力をしてレギュラーを勝ち取ってるんだから。」
自覚はあった。
過去三試合、全ての試合でスコアでは競っている物の光太郎自身は気づいていた。
終盤になるほど何か足りなさを感じる。
若しくは、相手との『違い』を感じる。
それが何なのかは分からなかったが、明確に気づいていた。
光太郎は松田の言葉を受けて少し目線を落とし、考えた。
数秒考えすぐに口を開いた。無言の時間に耐えられなかったのかもしれない。
「その怖さってどうすれば手に入るんですかね」
本心から脊髄反射の様に出た言葉だった。
しかし松田は厳しさと優しさ半々といった具合で返す。
「レギュラーになったからには自分で考えな」
厳しい言葉とは裏腹に、松田は笑っていた。