止まった時の中で
「お願い、時間よ止まって」
「……」
「止まってくれたら何でもするから」
「……」
「それは本当か?」
どこからか、20代後半くらいの男の声がした。
そのすぐ後にカチッと言う小さな音が聞こえ、そして……、時間が止まった。
今日一日何回念じてもできなかったのに。
琴乃の最期の最期で奇跡的に時が止まった、命が繋がった。
線路の方に向き直ると、琴乃のすぐそば数メートルまで電車が迫ってきていた。
俺は唾を飲み込む。
後2秒遅かったら、琴乃は良くて半身不随、いや、きっと死んでいた。
(それにしても、と思う)
周りの雑踏も、喧騒も、そして近づいてくる電車の振動音も消えていた。
駅構内は、今物音一つしない静けさだけが支配していた。
こんな静かな構内は、結衣が経験したどこの田舎の駅にもなかった。静寂というより、そこに音が存在さえしていないようだった。
しかも、その静寂の中、静止している電車は、まるで撮影した電車の写真のように見えた。
「早く助けないと、また動き出すぞ!」
結衣が不思議な光景に見入っているとまた、近くから声がした。どうやらこの声はメガネの右側のフレーム部分から聞こえているらしかった。
今はそんなことはどうでもいい、とにかく琴乃を助けないと。
結衣は、線路の方に慌てて近づいた。
近寄ると危機的状況は、さらにリアルになった。
ホームに頭から落ちそうになっている琴乃の身体は、手を前に突き出して、身体を衝撃から支えようとしている。
「轢かれたら意味ねえじゃん」
それは悲しき条件反射というものだった。
切り取られた写真のように見えた電車の運転席に近寄ると、必死の形相でブレーキレバーを回している運転手の姿があった。
列車はこの距離からブレーキを入れても絶対に止まれない。
ブレーキに変えても30メートルは走り抜けてしまう。
琴乃が助かる確率なんて、本当はあり得ない。
そんな光景に目を奪われていると、また声がした。
「早く助けろよ、本当に動き出すぞ!」
慌てて今起こっている現実に気づき、結衣は、琴乃の身体に手を伸ばした。
本当は目の前に手を向けてくれていたら琴乃にとっては良いのだろうが、今は背に腹は変えられない。
俺は、悪いとは思いながらも腰に手を触れた。
やわらかい。
少女独特の匂いとともに、柔らかい肢体の感触があった。
後ろから抱きつくような格好で、結衣は琴乃の身体を持ち上げる。
体育会系ではない結衣でも、何とか持ち上げられるくらいの重さだった。
本当であれば落下速度がここに足されるため、屈強なレスラーでも持ち上げるのはとても無理だっただろう。時間停止状態だからできたことだった。
「よいっ、しょっと」
結衣は力を入れて、琴乃を持ち上げた。
あまり重くない琴乃の身体は、ホームに持ち上がり、やがて結衣の方に倒れてきた。
抱き合うような形でホームに倒れる。
倒れ込んだ痛みと共に女の子独特の髪の毛の匂いと、やわらかい感触がそこにあった。
「痛ててててっ」
「あっ……」
目を開けると、そこに広がっていたのは、琴乃の少し大きな膨らみだった。
「えーと、うん、あれだ……」
訳の分からないことを言って、結衣の手は片方の膨らみに伸ばそうとする。
「やめろ、あほ。お前は変態か」
伸ばしかけた手が空中で静止した。
もちろん、時間停止ではない、思考停止なのだ。
せっかくのチャンスなのになんだ、この声は……。
「でも、あれ?」
そこで結衣は、はじめてこの不思議な声に意識する。
さっきまでは、琴乃を助けようとだけ思っていたから、気にならなかったのだが、これはなんだ。助けてくれたのだから、味方だよな? それとも味方に見せかけた敵!?
「誰なんですか? あなたは」
「あー、俺のことかー、そうだな。お前達を見守る救世主と言ったところか?」
本当にふざけた台詞だ。こんな人のことを信用して大丈夫なのだろうか。
でも、この人は琴乃を助けてくれた。
それだけは間違いない。
「それで? その救世主さんは、なぜ琴乃を助けてくれたのですか?」
そうなのだ。どこかにこの男にメリットがあるはずだ。それとも交換条件?
代わりに俺の命を差し出せとか……。
「なんか、お前、俺のこと変に疑ってるだろ」
「……」
「分かった、分かった、教えてやる」
「えーっ、コホン。俺のことは、ぶっちゃけどうでもいいが、そうだな。お前を助けるためにこの時を止めるメガネを作ったと言うのが正解。メガネをすり替えるの大変だったんだぞ。そして、俺がいるのは、お前より10年すこし未来だ。」
「なぜ、俺と琴乃のことを知ってるのですか? そして、何故何の利益もないことにこんな大それたことをするのですか?」
そうなんだ、それこそが1番の謎だった。
時間停止の道具、そんな価値のある物を使うのならば、それに見合う報酬が無いとおかしい。
十数年後は知らないけれど、今の世の中では、この道具はどう考えてもオーバーテクノロジーだ。
よくタイムマシーンなどが出てくる荒唐無稽なSF小説なら、このアイテムのおかげで命を狙われたりする。
そんなリスクを犯して、この声の主は、琴乃を助けたんだろうか。
「何が目的なんですか?」
「信じてくれないのか」
「どーして、信じれると思いますか?」
「……」
「まあ、なんだ。今は俺の正体は言えない。ただ、お前にとって俺の存在は、藁でも掴むの藁だ。そして、その藁はきっとお前を助けてくれる」
「それによ、お前言ったじゃん。止まってくれたら、何でもするからって」
「あっ……」
「何を望んでるのですか?」
「何も、……そうだな少なくとも今は……」
「それによ、今は俺を信じる以外にお前には、選択肢がないだろ。気づけよ、ただの高校生に何ができるって言うんだよ」
確かにそうだ。そして、少なくともこの能力は、琴乃を助けてくれた。
悪魔に魂を売っても助けたいと思った。そのくらいの覚悟があの時にはあった。
なら、別に大したことではないだろう。
そう言えば、と思い俺に力が宿ったという可能性は無いのかも聞いてみた。
「もちろん、ない」
ハッキリと否定された。どうやら、このメガネには時間を止める機能があるらしい。ここから救世主が語ったことを簡単に言うと時間は完全には止まっておらず、ほんの僅か10万分の1程度の速度で動いているらしい。
また、この装置は世界を止めると言うより、所有者の周りの時間だけを極めて速く動かす装置だとの説明もされた。
良く分からないので質問ばかりしていたら、少し怒った声で結衣は止まっていると理解すればいいと言われた。
効果時間はちょうど10分。再接続は1時間後。
それより短い時間で再度使うことはできないようだ。
何度やっても今日できなかったのは、俺が接続を命じてコンタクトをしても、救世主がOKしなければ止まらないそうだ。
「そろそろ動き出すぞ」
「えっ、嘘、ヤバ……」
さっきからずっと琴乃を抱き寄せたままだったことに今更気づいた。
「つまらない解説をする前に、この状況を指摘しろよ」
「それは言わないよ、お前は俺を疑った、そのお返しさ」
自称救世主は、俺の疑いが気に入らなかったのか、あえて今の状況を説明しなかったらしい。
そして今、琴乃を抱き寄せたまま、時間が動き出した。
「えっ、あっ、……わたし、何、どうして、、、あれ結衣くん?」
「なんで?」
やがて、今の状況に気づく琴乃。
少々の沈黙の後。
少女の叫び声がホーム全体に響き渡った。
結局、結衣は警察の職務質問に1時間以上も付き合わされることになった。
「本当に大丈夫、後ろから押した男とかじゃないんですよね」
何度も、何度も警察官が琴乃に聞く。
琴乃が一言でも同意したら俺は変質者として警察のリストに末永く残ることとなっただろう。
そのことについては、彼女ははっきりと否定した。
後ろの男は中年の男だったそうな。
不自然さに気づいた琴乃は、声などかけられないように、単語帳に目を落とし、ずっと下を向いていたらしい。まさか押してくるとは思いもしなかった、と。
結衣が随分と後ろに立っていたことも、知っていたらしい。
だから気づいた時、自分が抱かれたような格好だったことに驚きと不思議さと不安で一杯だったらしい。
「私、確か線路に落とされたよね」
「見えたのよ、真横に電車が来るのが、止まらない、と目を瞑ったら」
「そしたら、助かってたの」
「これ国語だったら0点だよね、そんなことあるわけないって」
「結衣くん、何か隠してることない?」
と言いながら、結衣の方を見る。20センチ程度の距離に琴乃の顔があった。
俺はそのあどけない視線にドキリとした。
「隠していると言うより、これ伝えていいのか、どうなのか?」
さっきから救世主は、全く喋らない。そのため判断をするが難しかった。
だから……、
「また説明するよ」
と言った。
「またって何よ、教えてよ、気になるから」
ちなみにさっき、琴乃を押したサングラスの男は結衣が気づいた時には、いつのまにかホームにはいなかった。
捕まえることができなかったこと、しかも顔も確認できなかったことを悔しんでいると。
「ありがとう、なぜ助かったのか分からないけど、助けてくれて」
と少し涙を浮かべながら、にっこりと笑った。
「すみません、お怪我はないですか」
警察の職務質問が終わると、駅員が近づいてきた。
「ありがとうございます、でも何とも無いですよ」
琴乃が身体に異常がないことを伝えたが、それでも駅員は、もし後日何かあったらいけませんから、と病院に行くことを促す。
いいですから、と何度か断った後、万一何かあったら、と言われると、流石に琴乃も無下に断ることもできなかった。
結局、救急車を呼ばれ、結衣と共に乗り込んだ。
反復するサイレンが鳴り響き、病院へと走りだす。
結局、病院での診断は何もなかった。
もちろん当然だ。
押された身体は元の場所に戻され、倒れた時は俺がクッションになってたんだから。
「結局、傷も何もなかったね」
琴乃は結衣の方を向きながら、不思議そうな視線を向けた。
「話して大丈夫なのか?」
掛けたメガネに小声で囁くように伝える。
「大丈夫だ、彼女も当事者なのだから」
「とりあえず、お前の部屋に連れて来い、今起こってることを教えてやる」
病院からの帰り道、結衣は独り言のように、もう一度聞いた。
「今起こっているって、犯人は見つからなかったが時間の問題だろ。もう解決したと言ってもいいんじゃ無いか」
「いや、これからが本番だ。奴を逃したのは正直どうでも良かった。奴を捕まえても、捕まえなくても災いは彼女に降りかかる」
「……!!」
「とりあえず、俺がそこら辺はレクチャーしてやるから、琴乃と一緒にお前の部屋に行け」
「そこで、現状とこれからのことをレクチャーしてやる」
「琴乃、今度こそは絶対に助けてやる」
「今度こそは?」
「あっ、これはお前には関係のないことだ。お前は俺の言う通りやっていけばいい」
「それより、こんなところで独り言を話してると怪しまれるぞ、とりあえず家に帰ろう」
家に向かって並んで歩く結衣と琴乃。
その向こうで連絡を取る女がいた。
結衣は気づいていないが、サングラスに顔を隠した20代後半くらいの女で携帯に耳を近づけ、小声で話していた。
「琴乃は、事故に遭いませんでした」
「はい、……、なぜかはわかりませんが、助かったみたいです」
「どんな手を使ったのかわかりませんが、最初の試練は乗り越えたようです」
「はい、今後も監視体制に入りますので……」
夕暮れから夜に近づく帳がやがて落ち、闇が迫ってきていた。
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