成長するホムンクルス
ホムンクルス ~瓶の中の未来 Ⅳ
矢田が、私から郁子を奪った? 私から最愛の人を奪った!?
何かの間違いじゃあないのか。
「なんだ、そのつら。この世の終わりのような顔をして」
矢田は、私の心にトゲを刺しつづける。
「郁子、いい女だよな。おまえなんかにもったいないよな。おまえなんかにな……。だからさ、俺がもらってやったのよ。この俺が」
「冗談だろ……。冗談なんだろう、おい、矢田」
目の前にいる矢田が、郁子の新しい男だと信じることができなかった。
矢田が郁子に好かれるわけがない。
郁子は、矢田を毛嫌いしていた。裕福な家庭に育った矢田は、親の金で、自堕落な生活を繰り返して生きてきたのだ。
「郁子がおまえを? 矢田、いい加減なことを言うな。おまえが郁子に好かれるわけなんてないだろう」
「ほう~ なぜ、そう言える」
「いいか、矢田。よく聴け。郁子は、おまえを嫌っていた。女癖が悪く、金遣いが荒い、いい加減なおまえをな」
「俺がいい加減!? おいおい、ついに本音を吐いたな。おまえはいつも俺のことを、そういう目で見てきたんだよ。いいや、おまえはそういう目でしか、人を見ることができない哀れな男なんだ。学業の成績がどうだとか、いい大学の出身者と友達になっていた方がいいだとか、どうせ就職するなら、社会的に知られている会社に就職した方がいいぞ、だとか……。おまえはそんな飾られたうわべだけで、人や会社を判断する人間なんだ。かわいそうな奴だな。おまえという男は」
矢田は、唾を飛ばしながら、わめいた。矢田の変わりように愕然とした私が、矢田を見つめると…………。
「その眼、その眼が、人を蔑んでいる」
矢田は、私の襟首を掴んだ。
「おまえは、いつも上から人を見下していた。一度、なにもかも失って、底辺に生きる人間の想いを知るがいい……」
なにもかも失って……。それは、どういう意味だ。矢田は、私が内定を取り消されたことも知っているというのだろうか。
「就職がダメになり、恋人には裏切られる。友人なんか、もともといやしない。そうだろう、葛西」
矢田は、私を辱め続けた。
「おまえ……。もしかしたら……」
私は机の上に無造作に置かれている内定取り消しの書類が入ったカバンに、目をやった。
あいつは、この中を見たのか?
「ふっ、優秀なおまえが、内定を取り消されるわけがないだろう。俺が……、この俺が、ちょいと仕組んで、内定を取り消させたのさ」
内定の取り消しは、矢田が仕組んだこと?
「あの会社には、俺のツレがいるんでな。人事担当にもコネがきく、ツレがな」
ツレ!? そいつが仕組んだことなのか?
「くそっー」
私は、矢田に殴り掛かっていった。が、私の拳は宙を切った。矢田は私の腕をとり、私を地に這いつくばらせる。
「そんな状態で、俺に勝てると思うのか。立っているのもやっとなくせに……」
ぼろ屑のような身体では、矢田に勝つことができない。
「惨めだろう、葛西。とことん苦しめばいいさ」
矢田は、私から、手を放した。このまま帰るつもりなのだろうか。襟を正し、埃で薄汚れたズボンを、軽く叩いている。
「さあーてと。言いたいことも言ったし、そろそろおいとましよう。これから郁子ちゃんとデートだしな。そういうことで、後はよろしく」
矢田は、ドアを思い切り閉めて、帰って行った。
私は一人、部屋に残された。
職を失い。恋人と別れ、親友に裏切られた。
もう何も、残っていない……。そんな気がした。
〈おまえには、まだ五体満足な身体がある〉
あの声が、頭の中に響いてきた。
地中に深く埋めたはずの、あの異様なモノの声が……。
私は声の主を求めて、誰もいないはずの部屋を目で探った。
使い込まれたシングルベッドと、簡素な机が一つ。洋服を入れるカラーボックスが二つだけある飾り気のない部屋……。
この部屋のどこに?
〈おまえ、どこを見ている? 僕はここだ〉
声の主は、私の足元にいた。
それは、前観たときより成長していた。雄々しく生育し、ギリシア神話に出てくる神々のような身体つきで、こちらを見上げていた。
〈おまえの苦痛は、おいしかったよ〉
そいつは笑った。
〈約束された将来を失う苦痛。婚約者に捨てられる苦痛。親友を失う苦痛……。おまえのような純粋な若者には、耐え難い惨苦だっただろうな〉
そいつは、呪いの言葉を吐いた。
「きさま、俺に何をした」
こいつが私の目の前に現れてから、私の人生が狂い始めたような気がする。
こいつは、私になにかを仕掛けているのだろうか。
なにか、とんでもないことを……。
〈僕はなにもしていないよ。瓶の中に閉じ込められている僕になにができる? なにができるというんだい。僕は、別になにもしていないんだよ。僕は、おまえの苦痛を養分にしているだけさ〉
「嘘をつけ! この野郎」
私は足元の瓶を掴もうとした。だが、掴めない。瓶がそこにあるのに掴めない。
〈無駄だ。おまえには僕を掴むことはできやしない。言っただろう。僕は、おまえが造った幻だよ〉
「幻だと」
〈僕は幻…………。いや幻想…………。幻想でもあり幻でもある僕は、おまえにとっは真実かもしれないな〉
何だと。分けのわからぬことを」
僕は椅子をそいつに投げつけた。椅子は瓶を突き抜けてゆく。ぶち当たった感触はない。
幻……。こいつは、私が見ている幻……。いや、私はこいつを、瓶のまま掴んだことがある。けっして、幻じゃあなかったはずだ。
なのに、なぜ……。
〈次は原因不明の病が、おまえの両手を蝕んでゆくだろう〉
そいつは言った。
〈両手の次は、眼だ。眼が病にかかる。おまえの視力は朽ち果て、おまえは闇の世界におびえるようになる〉
「なにを、言う!」
私は、瓶の中にいるそいつを何度も何度も掴もうとした。だが、私の手は空しく空を掴むだけで、瓶を掴むことはできない。
〈闇の世界で、おまえを待っているのは、身体が腐ってゆく音だけだ。足のつま先からじょじょに腐り始め、やがてそれは、脚の付け根に達する〉
最初、遭ったとき、そいつは幼児の身体をしていた。私から、約束されていた職を奪い、少年になった。親友が、私を欺き、婚約者が私のところから去ったとき、少年は青年に成長した。
青年に成長したそいつは、たった一つ私に残った、この身体を欲していた。
私のこの身体を……。
「うっ」
頭痛がする。後頭部を圧迫するような痛みが、突然襲ってきた。私は耐えがたい頭痛に、両手で頭を抱え込んだ。
――私は、おまえなんかにやられやしない……。私は、おまえなんかにやられやしない……。私は、おまえなんかにやられやしない……。
私は、その場に倒れ伏してしまった。
= Ⅴに続く =