肌がちになりてわろし
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
『――昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし』……と、これで終わりかな。どうだったこーちゃん、暗誦はこれで大丈夫そう? はあ、ようやく覚えられたよ、枕草子。平家物語の「祇園精舎〜」も厄介だけど、こちらもちょっと厳しいねえ。古文の言い回しって、個人的になかなかなじめないんだ。
それにしても、昔の人の感性にはなかなか恐れ入るねえ。「やうやう白くなりゆく山際〜」とかの感じ方、とても僕の頭からひねりだせそうにない。具体と抽象をどのようなバランスで盛り込むかが、文章の出来にダイレクトに影響するしなあ。こういう人たちのセンス、あやかりたいものだよ。
それでも定番の表現だって、いくつか確認できるね。たとえばさっき読んだ「白き灰がちになりてわろし」。灰を白いと表するのは、今でもお約束だろ? 燃え尽きた時、「真っ白になっちまった」っていうし。
色とそれから連想するもの。伝聞、実体験を通じて、多くが僕たちの共通認識となっている。けれど、これはあくまで人間同士の間で成り立つものに過ぎない。僕たちは常に、認識外を警戒する必要があるかもしれない。
そう考えるようになったのも、数年前のある出来事がきっかけでね。こーちゃんも興味があったら聞いてみないかい?
僕たちの住む地域では、一年を通じて雨の降る日が多い。ずっと昔から変わらないことで、雨にまつわる言い伝えもいくつか存在するんだ。
そのうちのひとつに、妙なルールが存在する。「音がほとんど聞こえない小雨の時には、できる限り肌を見せないようにすべし」というものだ。
冬場はみんなが厚着をするから、自然とこれを守れる時が多い。徹底する人の場合だと、雨具は傘よりカッパを優先して羽織ることもあった。
だが暑がりの僕にとって、長袖長ズボン、カッパなどの重装備は不快なことこの上ない。朝に親が用意してくれても、登校する時に、適当なところで脱いでしまうこともしばしば。実際にこのルールを破ったところでさしたる影響もなかったから、内心、なめてかかっていたよ。11月も下旬が近づく、数年前のちょうど今頃になるまではね。
その日、目が覚めてカーテンを開けてみると、外では音もなく雨が降っていた。窓を開けて初めて、屋根を叩く音がようやく耳にとどくような、本当に弱々しい降り。「これはまたカッパをつけるようお達しかな」と、僕は早くも諦めムード。
案の定、部屋に親がやってきて、畳まれた赤いカッパを置いていく。出かける時には、これを着ていくようにと。
赤という色、僕は苦手だ。ランドセルの色は、男が黒で女が赤。僕たちの間では、それが常識だった。ゆえに赤いものをまとうことに、どこか女々(めめ)しさを感じてしまうんだ。
着替え、洗顔、朝ごはん。いつも通りの朝の流れを終え、僕はカッパを着込む。
それも外へ出て数分が経つまでの間だ。見送りをしてくれる親の視界の外へ出たら、真っ先に脱いでやる。この程度の雨なら、雨具なしで突っ走っても問題ないはずだ。
僕は家から視認可能な最初の角を曲がると、歩きながらカッパの前を閉じるボタンをはずし始めた。前を行く、同じ学校へ通う児童と思しき子たちも、カラフルなカッパに身を包んでいる。時折見かけるサラリーマンの人は傘だが、上下ぴっちりのスーツ姿だ。
雨の勢いは本当に弱い。これまでのものならカッパ越しであっても、音や衝撃が内側の僕にも伝わってきていた。それが今回の降水はおとなしいこと限りなく、実はもう止んでいるんじゃないかと思うほど。
カッパの前を開いた。下にあった半袖半ズボン、そこから伸びる僕の四肢が露わになる。すかさず、開いた空間に入り込んでくる心地よい風。「これこれ」と、つい頬がゆるんでしまう。
あとは頭を覆うフード部分。ここにも風を感じれば、気分は爽快。籠っていた狭い殻から解き放たれる開放感が、僕を待っているはずだ。僕はいそいそとカッパの袖から腕を抜き、ぱっとフードを持ち上げる。
「あ、ゴミだ」
フードを取り去った瞬間、すぐ耳元で誰かがつぶやいた。僕と同じくらいの歳と思われたが、そちらを向いても誰もいない。
「ホントだ、ゴミだ」
「きったなーい」
「片付けちゃおう」
「捨てちゃおう」
男女入り混じる声で、次々につぶやき出す。そばに人のいないままに。
なんだ? と思うや、不意に背中を押された。手とかではなく、強い風で。軽々と身体を浮かせるそれをうけ、僕は空中で前へ一回転。背中から地面に叩きつけられた。
身体を起こす間もなく、もう一吹き。寝転んだままの姿勢で、またも僕の身体は吹き飛んだ。周囲のブロック塀より高く舞い上がった僕の身体は、やがて空中で静止してしまう。もう雨は降っていなかった。
もはや灰色の空しか目に映さぬ、仰向けの僕。身体を動かそうとしたけど、ちょっと身体をひねったところで、ぐっと何かに抑えられた。上下左右、いずれにも同じことをされ、僕はほどなく動けなくなる。どうにか瞳だけは動かせたけど、角度には限界がある。
もし浮かんでいるとしたら、どれほどの高さなのか見当がつかない。周囲には建物の上部や、木のてっぺんすらも視界に入って来ないんだ。広がる雲がスライドし続けているところからして、運ばれているのに違いはないだろう。
何分ほど経っただろうか。ふと動きが止まると、これまであった背中の支えが、ぱっと消えた。心の準備ができていない僕は、本能的に手足をばたつかせて叫ぶのがせいぜい。返事はないままずんずん落ち、やがて思いのほか、柔らかい感覚のするものの上に投げ出されたんだ。
じんとしびれる身体。胃の底から出かけた空気が、喉でいったん詰まった後、大きなゲップとなって吐き出される。顔を動かしてみると、もう先ほどのような抑えられる感触はない。だが、横を向いた僕は「ひっ」と息を呑むことになる。
ほんの10センチほどの距離に、人の顔があった。僕と同じく横になったまま、顔だけをこちらに向けている。それほど近い距離にあるのに、口や鼻から漏れるはずの息の気配が、まったく感じられない。
まばたきを拒み続けるまなこ。半開きになった口の端から垂れるひと筋のよだれ。くわえて、離れていても何となく鳥肌が立ってくる肌寒さ……。
死んでいるんじゃ、と思ったところで、出し抜けに両足へ痛みが走った。思わず声を出してしまい、見ると僕の膝から下の辺りに、同じくらいの年頃の男の子が横たわっていたんだ。もちろんここに降ってきた時、彼はいなかった。
僕は改めて自分を受け止めてくれた、背後のものへと目を向ける。そこには僕と同じ肌の色を持つ、突っ伏した大人の姿があったんだ。僕が降り立ったのは、その人の背中。タンクトップ一枚という薄着で、僕の倍以上はあろうかという手と足を、惜しげもなくさらしている。
そして臭う。汗の臭さじゃない。生ごみを捨てに行く時、手に持つことになるゴミ袋。あの鼻の穴を「きゅっ」と閉じてしまいたくなる、あの臭いだ。心なしか、僕のくっついている背中も、いくらかべとついた感覚がある。
離れないといけない、と身を起こしかける僕へ追い討ち。今度はお腹の上へ、十字にクロスする格好で、人が落ちてきた。まともに受けた腹からは熱いものが喉へせり上がってきて、途上にある肋骨たちを痛みが駆け上る。先に足へもらったものとは比べ物にならない衝撃で、声を出さなきゃ逃がせそうにない。
――なんだよ、なんなんだよこれ! どうして……。
ついに僕はわんわん泣き始めた。どうしてこんなところで寝かされ、どうして次々に、痛い目を見なくちゃいけないのか。理不尽で渦巻く、心の流れ。それに押されて涙がとめどなくあふれ出てきた。
辺りもはばからず、号泣する僕。乗っかってしまった人、横に並ぶ人、上から降ってきた人。そのいずれも答えてくれない。痛む箇所と同じ、いやそれ以上に僕は身体中が熱くなるのを感じていたよ。
「――おい、違うよ。こいつ、赤くなった。ゴミじゃないよ」
「ホントだホントだ、まっかっか」
「取りのけようぜ。こいつがいたら、他のゴミに飛び火しちゃう」
さらわれた時と同じ、男女混じる声が、またすぐそばから響いてくる。ほどなく鉢巻きをきつく締めたように、僕の頭がキリリと痛み、持ち上げられていった。
先ほど潰された手足には感覚が戻らない。僕はだらりと四肢を垂らしたまま、また宙へ浮かんでいく。落ちた時とは違う、頭を上にした宙づりの姿勢。足元がよく見える。
そこで初めて、僕が放り込まれていたのがすり鉢状の穴で、中にぎっちりと人の肌の色をしたものが詰まっていたんだ。それはまるで、流し台のゴミ受けを連想させる景色だった。
しばらく昇った後、また前触れなく放り出される僕。今度の背中は固くてごつごつしたものに受け止められた。
身体が動く。見ると、横たわっているのはアスファルト。僕を挟む家並みは、あの吹き飛ばされた場所のものだ。雨はもう降っていなかったよ。
痛みが残る手足をぎこちなく動かして、どうにか学校にはたどり着く。けれど背中には、あのべとつきと臭いがかすかに残っていたらしく、友達には一日中、変な顔をされたよ。
それから僕は雨の日は、赤いカッパをしっかり着込むことにしている。
人の肌をゴミの色と判断するあいつら。また何かの拍子に、あそこへ放り込まれちゃたまったものじゃないからね。




