混沌-6
俺たちの居る地点の川幅は八〇〇メートルほどしかない。
いくら手漕ぎの筏とはいえ、漕ぎ手が多い分渡りきるのにそう時間は掛からないだろう。
俺は部下に戦闘準備を下令し、戦闘に備えさせた。
「小隊長、ダメでした」
部下たちに配置に就くように命令していると、マイヤーが塹壕に駆け込んできた。
マイヤーは、中隊本部へ伝令に行かせたのだが、思った以上に早く帰ってきた。
「ダメって……なにがあった」
「中隊本部はきれいさっぱり吹き飛んでました。ついでに第一小隊も本部ごと……」
「冗談だろ……」
「疑いたいなら御自分の目で確かめに行ってみて下さい。どっちも軍靴とヘルメットぐらいしか転がってませんけど……」
どうやらさっき電話線が切れた原因は、ソ連軍の砲撃が中隊本部に直撃したかららしい。
ついでに、近くに布陣していた第一小隊も塹壕ごと耕されてしまったようだ。
「じゃあ、俺が最先任か……」
ボソリとつぶやいたが、状況が好転することはない。今は目の前の敵に専念することだ。
俺は、部下二名を残った第三小隊へ中隊本部壊滅と指揮権継承の連絡に向かわせ、それが終わったら大隊本部へ状況報告と増援の依頼をするように命令した。
矢継ぎ早に指示を出しながら、ソ連軍の動きも観察しなければならない。
まさに猫の手も借りたいという状況だった。
「いいか、奴らが上陸する瞬間を狙え!それが一番無防備な状態だ。機銃弾はムダ弾を撃たないように注意しろ。敵は数が多い……必中を期せ!」
塹壕内の部下の近くに行って指示を出しながら、それぞれの準備を急がせた。
土を被っていた機銃を再度点検させ、川に向かって全員の銃口を向けさせる。
俺も持っていたMP40の弾倉を確認してから、槓桿を引いて初弾を装填した。
全員が、ソ連兵が満載された筏を凝視しているが、中には不安そうな表情で見つめている者もいた。
この場にいる全員が何度か戦闘を経験しているが、これほどまでの大軍を相手にしたことは無かったはずだ。
ソ連軍は、いったいどれだけの兵をこの方面に投入したのだろうか。やはりソ連の人海戦術というのは伊達ではないようだ。
「小隊長……そろそろです」
「ああ、分かってる……」
ふと、マイヤーが俺の肩を叩いてきた。
俺も川面を見つめていたので分かるが、念には念を入れたようだ。
俺は深呼吸を一つすると、手を振りかざした。
「攻撃開始!」
俺の叫び声を合図に、こちら側のありとあらゆる火器が火を噴いた。
今まさに上陸しようとしていたソ連兵たちが、俺たちの火線に捉えられてバタバタと薙ぎ倒されていく。
ドニエプル川の川面はソ連兵の死体が幾つも浮かんでいるが、そんなことを気にする暇もないくらいにソ連兵たちは続々と川を渡っていた。
機関銃が銃身も焼けよとばかりに撃ちまくっているが、ソ連兵たちの勢いは留まることを知らない。
俺も持っていた短機関銃をソ連兵に目掛けて撃ちまくっていたが、ソ連兵のあまりの多さに弾薬が無くなりかけていた。
「誰か!弾薬を持ってこい!」
「自分が行きます!」
誰に言うでもなく叫んだ声が手近にいた年若い二等兵に届いたらしく、二等兵は塹壕を飛び出すと野戦補給所のある方向へ走り出していった。
「あいつ……度胸あるな」
「俺たちがソ連兵に殺される前に戻ってくりゃいいんですがね」
思わず二等兵の背中を見送りながら呟くと、俺の横で座って弾倉にバラ弾を詰めていたマイヤーがへそ曲がりな事を言っていた。
俺はマイヤーが弾倉に装填してくれた銃を受け取ると、再び撃ちまくった。
しかし、俺たちが寡兵であるとソ連兵たちも悟ったのか、損害に構わず突進してきていた。
次第に距離が詰まり始め、遂には煙を吐いた手榴弾が目の前に転がり始めてきた。
これ以上距離を詰められたら人数差がありすぎる以上、押し切られてしまう。
「小隊長―っ!残弾が僅かです!」
「いいから、撃ち続けろ!もうすぐ――」
俺の右側に布陣した機関銃班の声に振り向いた瞬間の事だった。
機関銃の目の前に手榴弾が二三発転がって来るのが見えた。
「伏せ――」
叫ぼうとした刹那、手榴弾が炸裂した。
その瞬間は、自分でも驚くくらいに冷静だった。
吹き飛んだ機関銃班を顧みることなく、今手榴弾を投げ込んだであろうソ連兵を短機関銃の一連射で倒した。
それ以上の事はしなかった……いや、出来なかった。
自分たちの目の前を弾が飛び交い、手榴弾の投げ合いが続いていたのだ。
それから幾時間たっただろうか、いや実際は十数分の出来事かもしれない。
手持ちの弾は僅かになり、上空からは飛行機のエンジンの音が響いてきた。
ソ連軍は御丁寧に襲撃機まで用意していたらしい。
「ここまでか……クソったれめが!」
思わず悪態を吐くと、敵の様子がおかしい事に気が付いた。
目の前にいた敵は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
それどころか今しがた自分たちが乗ってきていた艀に向かって逃げかえっている者もいる。
「おい、マイヤー!敵が退いてるぞ!」
「小隊長、上を!空です!」
俺の問いかけにマイヤーは上空を指さして、俺に空を見ろと言ってくる。
ソ連機がどうしたんだ?そう思って空を見上げようとすると、空から甲高い音が聞こえてきた。
耳馴染みのあるラッパのような音に、俺の体は震えた。
「ジェリコのラッパ……!シュトゥーカだ!」
思わず歓喜の声をあげて空を見上げると、数機のJu87が腹に爆弾を抱えたまま急降下してきていた。
まだ川を渡り続けている艀に向かって、腹から爆弾を落として機首を引き上げた。
機首を引き上げる時に、艀の周りに小さい水柱が林立しているから機銃掃射もしているようだ。
爆弾が落ちた場所ではドでかい水柱が立ち上り、周りで進んでいた艀やボートが数隻まとめて吹き飛ばされた。
川面で再びソ連兵たちが阿鼻叫喚の地獄を繰り広げる中、更なる災厄が襲い掛かってきた。
「あの機体は……?翼の下に機関砲が?」
数機のシュトゥーカが川面を滑るようにして低空飛行をしていく。
双眼鏡でシュトゥーカを見てみると、翼の下に機関砲が取り付けられているようだ。
その機関砲が火を噴くと、射線上にいたボートが粉々に粉砕された。
更に対岸にいたソ連兵の大軍にも爆撃や機銃掃射を繰り返し、ソ連兵たちが右往左往している様子が見て取れた。
「戻りました!」
その時、俺のいる塹壕に弾薬を取りに行っていた二等兵が滑り込んできた。
両手に弾薬箱を抱え、首からは手榴弾の入った箱を抱えて来ていた。
「おお!よく戻った。おい、弾薬が来たぞ!」
「了解!」
マイヤーに弾薬箱を放り投げると、マイヤーは早速開封してからバラ弾を空弾倉に詰め始めた。
俺は、手榴弾の箱を二等兵から受け取ると開封して塹壕の縁に並べていく。
「タイミングが良かったです……」
「どういうことだ?」
重い荷物を持って帰ってきた二等兵が言った事を俺が尋ねると、二等兵はライフルを肩に話し始めた。
走って野戦補給所に向かうと、ちょうど大隊の工兵が通信線を直しているところに出くわしたらしい。
ソ連兵の攻勢が始まった事を説明すると、工兵は通信線をその場で電話機につないで大隊本部に連絡が付くようにしてくれたらしい。
大隊本部に状況を説明すると、偶然にも近くの野戦飛行場に空軍の急降下爆撃隊が補給のために降り立っていたらしく、すぐに支援で出撃することが可能だった。
そこで大隊長が空軍に支援を依頼して、ここまで飛ばすことが出来たらしい。
「そうか……よくやったぞ!」
「ありがとうございます!それと、もう一つ……」
「なんだ?」
言い淀む二等兵に尋ねようとした時、地面が揺れているような感じがした。
ハッと気が付いて、後方を覗き込んで驚いた。
「お前、まさか――」
二等兵に目をやると、ニッコリと年相応に笑った二等兵が元気に答えた。
「戦車隊も呼んできました!!」