混沌-5
ふと空を見上げる……。
鉛色の雲が辺り一面を覆い、ただでさえ凍えそうな冬の寒さの中で、俺は太陽の光を浴びることが出来ずに塹壕にこもっていた。
ドニエプル川の西岸に退避する命令が司令部から来て、俺たちはヘルソンの北約五キロ地点に陣地を構築して防御態勢を敷いていた。
目の前に広がるドニエプル川の対岸では、イワンたちが渡河しようと筏をせっせと作っているようだ。
無数のソ連兵が蠢く対岸を双眼鏡で監視していると、塹壕に誰かが飛び込んできた。
「ふーっ……小隊長殿、火ぃ無いですか?」
「マイヤー、お前は上官に対する礼儀を知らんのか?」
「知らなかったら勝手にポケットを探ってますよ」
咥え煙草をしながらおどけて笑う上等兵のマイヤーに半ば呆れつつも、俺はポケットからマッチを取り出して投げ渡す。
危なげなく受け取ったマイヤーは、「へへっ」と笑うと塹壕の中にしゃがみ込んで早速煙草に火を点けた。
そして一息吸って煙を吐き出すと、俺と並んで塹壕の縁に顔を出していた。
「あんまり頭を上げるなよ……イワンどもの狙撃兵は腕がいい」
「関係ないですよ……こんなクソったれな寒さだったら、頭に一発喰らって天に召された方が幾分かマシです」
「お前の事なんか心配してないさ……俺が撃たれたくないだけだ」
「かーっ!小隊長殿は部下の命の心配はしてくださらないんで?」
「特にお前の心配はな」
お互い軽口を叩きながらも、その双眸は鋭く対岸を見つめていた。
口調が普段から御立派なマイヤーも、実のところソ連軍の動向は気になっているようだった。
「小隊の準備はどうだ?」
「別に……なんの問題もありません。あえて言うならば機銃用の弾薬が心許ないぐらいですかね」
「……補給所には行ったのか?」
「ええ、もちろん。門前払いを喰らいましたがね……イワン共からかっぱらいますか」
「笑えねぇな」
「小隊長なら行けるんじゃないですか?」
マイヤーの言葉が気になり、隣にいる彼を見るとマイヤーは俺の袖を指さしていた。
そこにはカフタイトルが縫い付けてあって、「ブランデンブルク」の文字が刺繍されていた。
マイヤーは自分の顎にある無精ひげを撫でながらニヤニヤとしていた。
「国防軍の中じゃ最精鋭とも言われた部隊にいたんでしょう?それがなんだってこんな辺鄙な所に?」
「別に……ただの異動だ」
「へぇ……まぁ下士官も大変ですね」
「そうだな……そろそろ口を噤め」
俺が凄んでみせると、マイヤーは肩をすくませて塹壕の中に引っ込んだ。
我ながら貧乏くじを引かされたと思っているが、今の東部戦線の戦況ではどこも変わりないだろう。
それもこれも去年、この辺りのソ連軍支配地域の長距離偵察を実施した時から始まっていた。
俺がいたブランデンブルク師団は、マイヤーの言った通り国防軍内部でもエリート部隊で通っていた。
だが、それも俺が配属された頃……一九四二年までだった。
今では、装備優良部隊として前線の間隙を埋める所謂『火消し』としての任務が多くなっている。
その火消し任務で、部隊はバルト方面へ移動することになっていたが、以前から南方軍集団の下で長距離偵察を行っていた事に目を付けられた部隊の一部が編成替えで移動する羽目になっていたのだ。
師団は優秀な人員が減ることに抗議していたが、序列で上の軍集団に言われては従わないわけにはいかず、やむなく人員を他師団に人員を提供することになったのだ。
「小隊長……アーレント小隊長!」
俺を呼ぶマイヤーの声にハッとする。
いつの間にか現実逃避して思い出に浸っていたようだ。
「なんだマイヤー?火が消えたか?」
「そんな事言ってる場合ですか!目の前!」
双眼鏡を握っていたまま固まっていた俺は、改めて双眼鏡を覗きなおす。
ついさっきまでソ連兵が蠢ていた対岸は、まるで水を打ったように静まり返っている。
「おい、イワン共はどこに行った?」
「分かりません……ただ、さっきから静かだから覗いてみたら居なくなってたんです」
「本部に通信を――」
俺が近くに置いてあった野戦電話の受話器を取ろうとした時だった。
木枯らしのような音が聞こえたと思った瞬間、地面が揺れた。
「砲撃だーっ!退避―っ!!」
ソ連軍の砲撃を告げる誰かの叫び声が聞こえてきたが、激しくなる砲撃の音にすぐにかき消されてしまった。
俺やマイヤー、他にも数人が塹壕に潜んでいたが咄嗟に底深くに這いつくばった。
「イワン共ですか!?」
「他に誰がいる!!電話を貸せ!」
マイヤーが砲撃のせいで近くにすっ飛んでいった受話器をこちらに投げてくる。
俺は、電話のハンドルを回して、相手を呼び出した。
《こちら中隊本部》
《第五監視地点の第二小隊です!ソ連軍の砲撃が始まりました!》
《こちらでも確認している……嫌がらせ砲撃だろう》
《そんな……この砲声が聞こえないんですか!》
《わめくな小隊長。すぐに――》
その時、風切り音が一段と大きく聞こえたと思った瞬間、すぐ近くで砲弾が炸裂した。
思わず頭を抱えて身を屈めたが、すぐに受話器を握りなおした。
しかし、何度呼びかけても受話器の向こうから返事は無かった。恐らく砲撃で電話線が切れたのだろう。
「小隊長、連絡は?!」
「電話線が切れた!頭を下げていろ!耐えるんだ」
用が無くなった野戦電話を投げ捨てると、マイヤーの近くに這いずっていった。
俺の返答を聞いて、マイヤーの顔には諦めの表情が満ち始めていた。
何分経っただろうか。長くて数分だったのだろうが、数時間にも感じられた砲撃が終わり始めた。
塹壕の底に這いつくばって耐えていたので、背中には周辺の土がかなりの量降り積もっていた。
爆発音のせいで頭がガンガンするが、ヨロヨロと立ち上がって、ヘルメットを被りなおした。
「全員、生きてるか?」
俺の問いに、それぞれが手を上げたり返事したりで返してくる。
どうやら、一先ずは無事なようだ。
「いいか、装備を確認しろ。機銃は特に念入りに確認し……て……」
部下に指示を出していると、ふと土煙の切れ間からドニエプル川が見えた時、何か黒い点が蠢いているのが見えた。
目を凝らして土煙の向こう側を覗こうとした時、背後から風が吹いてきて目の前の土煙を晴らしてくれた。
向こう側を見た瞬間、目の前の信じられない光景に俺は絶叫していた。
「敵襲!イワン共が渡河してるぞ!!」
目の前を流れるドニエプル川には無数の筏が浮かべられ、その上にはソ連兵たちが目一杯乗っていた。
あの砲撃は、嫌がらせ砲撃なんかじゃないと思っていたが、やはりそうだった。
一九四三年十月、ドニエプル川下流。
俺たちは、数十万のソ連軍と対峙した。