戦渦-15
ヒルデガルドの本性を垣間見た宇那木と渋谷は、絶対に彼女を怒らせてはいけないと悟った。
そして、今しがた起こった出来事は陸軍とも共有すべき事象であるとも考えていた。
負傷兵が発生した時の戦場での処置が、その後の負傷兵自身の命運を決めると言っても過言ではない。
その事は各国の軍隊でほぼ変わりはないだろうが、前提として日本陸軍は軍医の絶対数が不足していたことが挙げられる。
日本陸軍が編制する師団には、複数の野戦病院が存在する。
これは師団に存在する連隊の数で異なるが、基本的に一個連隊につき一個野戦病院が割り当てられていた。
この野戦病院とは、戦線の後方にあって最前線付近の繃帯所(野戦救護所)及び仮繃帯所で治療が不可能な場合に送られて手術や治療を受けるある程度施設の整った場所である。
問題は、繃帯所に存在する甲軍医と乙軍医と呼ばれる二名の軍医である。
繃帯所は大隊の管轄であるが、甲軍医は衛生下士官と共に繃帯所で応急処置を行う。
これに対して、乙軍医は最前線で負傷兵の火線救護を行うため、被弾して負傷したり戦死したりする可能性が極めて高かった。
しかも、軍医不足のため大隊に甲軍医一名しか配属されない場合も多く、火線救護の多くは中隊所属の二名の衛生兵が行っていたとされる。
搬送は、大隊の予備中隊から担架兵を出していたが、全く足りていなかった。担架兵による搬送能力は精々担架二〇組ほどである。
さらに追い打ちをかけるように、日本軍の場合は上記の野戦病院の収容能力に限界があった。
戦時編制の一個連隊は約三〇〇〇から四〇〇〇名に上るが、野戦病院の最大収容数は約二〇〇名というもので、激戦になるとたちまち機能マヒに陥った。
もし、彼女のような存在が一個中隊……いや、一個大隊に一人でもいたら負傷兵がその場で戦線復帰できる可能性も高まるのだ。
護衛に人数を割いたとしても、お釣りが返って来る。
「ただし、先ほど話したように治癒魔法には様々な条件があります。
簡単なケガならば、さほど条件はありません。ケガをした人物に魔力が必要なだけ残っていれば、治癒魔法は使えます……治癒魔法は、術者の魔力と相手の魔力を使ってケガを回復させるものと考えていただければよろしいかと……。
ただ、ケガをした方に魔力が無い場合は、術者が治癒に使用する魔力を全て負担しなければなりません。
これは術者に相当に負荷が掛かり、治癒魔法を使用する術者が二三人ほどいて骨折や手足の切断を治癒できます。失った手足が無ければ治癒も出来ませんが……」
なんにでも利用できると考えていた『治癒魔法』だが、話を聞けば聞くほど制約が多いことが分かった。魔力や術者など、分からない単語もいくつか出てきていたが、これでも分かりやすいように話してくれているだろう事は、渋谷と宇那木にも分かっていた。
そして、失われた命が戻ることはない。
それは異世界でも事実であり、ゴルトやヒルデガルドとの話でも、確認はできた。
少しだけ期待した渋谷と宇那木だが、すぐにその邪な考えを頭から捨てた。
死者が蘇るなど世の理から外れている……それは死者への冒涜だ。
仮に生き返ったとして、もしそれが民間人ならば喜ぶべき事態かもしれない。肉親や家族が帰って来ることを喜ばない人間はそういないはずだからだ。
しかし、それが戦場にいた兵士ならば、帰ってきた所で再び銃を持たせて戦場へと送り返す事になる。それはあまりにも惨すぎる。
人間を鉄や油のような資源としか見ていない者ならば可能かもしれないが、人間を二回も殺すなど、およそ常識ある人間がすることではないだろう。
渋谷と宇那木が、指揮官としての考え方と人間としての考え方の狭間で戸惑って、重い雰囲気になったのを感じたのか、ヒルデガルドが話し始めた。
「確かに、死と言うものは不可逆的なものです。決して戻すことは出来ない……それは万物の理です。しかし、生が失われる……最後の光とでも言いましょうか?
その光が闇に消えてしまうまでは、私たちの領域です……私は、私の領域内にある生を見捨てたりはしません。絶対に……」
それからしばらくして、宇那木と渋谷は竹の艦長室にいた。
ゴルトとヒルデガルドは、既に退艦してこの場にはいない。
二人は、最後に医務室に向かうと治療した連中に散々礼を言われた後、軽く微笑んでから煙のように消えてしまっていたという話だ。
そして、残された二人の艦長は対面に座りながら沈黙していた。
二人とも一体どうしたらいいのか分からなかったのだ。
魔族側から向けられる分かりやすいほどの厚意……およそ珍客に向けるものではないはずだ。
ましてや自分たちは、武器を持った軍人だ。その事は、彼らにもはっきりとわかっているはずだ。
それなのに、食料の提供を行ったり、負傷者の治療を行ったり……その行為の全てが『魔族救援』の名の下に行われたのだとしたら、自分たちはどこまで魔族という存在を助ければいいのだろうか。
それが、分からなくなってしまったのだ。
「大佐……数日後には、彼らの言うところの『魔王』にお会いになられるのですよね?」
眉間に深い皺を寄せながら、宇那木が渋谷に問いかけた。
渋谷も宇那木に負けず劣らずの皺を眉間に寄せながら頷いた。
「海軍の代表は渋谷大佐です。我々は、その決定に従いますが……」
「……我々は英雄ではない」
「大佐?」
渋谷の言葉に宇那木が訝しんだが、渋谷は立ち上がると舷窓に身を寄せた。
夕陽は、もうほとんど沈んでしまっているが僅かな煌めきが海面に反射していた。
そして、渋谷は宇那木に振り返った。
「我々はただの人間だ……無力でか弱い」
「……」
「だからこそ出来ることもあるのかもしれないがな。魔王という人物に会っても、そう伝える気だ……それを、どう捉えるかは向こう次第だがな」
宇那木は、渋谷の遠い目を見て思い出した。
渋谷大佐は「あ号作戦」の事を言っているのだと。
あのマリアナ沖で、日米機動部隊の大海戦が起きた時、宇那木は海軍兵学校で教官をしていた。
数か月後、部内から情報が入ってきて分かったのは、大敗北だったという事だ。
小沢治三郎長官の考案した敵艦載機の航続距離外から、航続距離の長い味方の艦載機で敵を叩くというアウトレンジ戦法が通用しなかったのだ。
それも無理は無いだろうというのが、当時の兵学校教官の間でまことしやかに囁かれていた。
今もそうだが、当時も戦闘機や艦攻艦爆の搭乗員は、技量未熟であった。
そのため、当初から長距離飛行からの敵艦攻撃は無謀だと言われていた。
その結果、未熟な搭乗員が載る艦載機は、優秀な電探と航空管制に統制されていた敵機のカモにされた。
この作戦自体が、彼我兵力の差を勘案した結果だとも言われている。
しかし、それでもまだ味方艦隊を敵艦隊に接近させる余地はあったはずだとも陰ながら議論され続けている。
結局のところ、乾坤一擲の大作戦は失敗した。
この作戦で多くの艦船、兵員、航空機を喪失し、中部太平洋のほぼ全域が米軍の手に落ちた。
渋谷大佐が乗艦していた軽空母の隼鷹も米艦載機に攻撃され、貴重な兵を失っていた。
恐らく、渋谷大佐はその時に思い知ったのだろう。
強大な力の前に無力だった自分の小ささを……。
推測にしかならないが、宇那木はそう思った。