ユニコーン
深い森の香りがする部屋の中で、柔らかな素肌に手を滑らせる。鏡子さんの肌はくすみがちで乾燥に弱いけど、密着感・連続感を意識したマッサージを施すと、見る見るうちにハリと潤いが増す。デコルテに広がる大胸筋を、ゆっくり指圧するとリンパの流れが良くなり、首筋の血管がドクドク動く様子が目視できる。すると、顔全体にほんのり朱色が広がり、血行が全身に行き渡ったことが確認出来る。既に鏡子さんは寝息を立てていた。
この現象をみると、私は深い達成感を味わう。私の手から人の肌へ、栄養と安息をもたらすことが出来たように思う。もしくは、私に何かが憑依し、私の身体を介してエネルギーを注ぎ込むことが出来た、という感覚を味わう。
「あぁ。今日も眠っちゃった。このオイルの香りと千佳ちゃんのマッサージでコロッといっちゃうわ。」
「肩の凝りが強かったので、いつもより念入りにほぐしました。デコルテはリンパと血管の密集地なので、そこを解すとお顔に血が通います。すると、マッサージの効果をぐんと高めるんですよ。」
「このサロンへ来ると、肌だけじゃなくて身体の中から浄化されるようなの。すごくリラックス出来る。月一回のご褒美ね。」
鏡子さんは施術後にハーブティーとクッキーを口にして、軽やかにサロンを後にした。
本日の業務は終了。一日に四人分のエステを施術すると、心地よい疲れが身体に落ちる。冷蔵庫から白ワインを取りだし、グラスに注ぐ。アルコールを含んだ液体が、じんわりと広がる感覚を味わえるこの瞬間が好きだ。マンションのワンルームでエステサロンを開業して六年。この空間で毎日様々な女性の肌に触れ、血行を促し、凝りを解す。私は、肌の奥に眠る細胞をこの手で呼び覚まし、呼吸を吹き込むこの仕事を天職だと思っている。私の手技を通して、多くの女性に美貌と癒しを与えることが出来る。これほど幸福な事は無い。ワインとピスタチオを口にしながら、サロンルームに掛けられた一枚の絵画を見つめる。そこに描かれている一匹の一角獣。「ユニコーン。」私は呟く。もう何度声に出したことか。見つめるとふと口を突いたように出る言葉。昨夜、ユニコーンは夢に出てこなかった。
この絵画と出会ったのは七年前。サロンを開業する前に、北欧を旅した。日本では認知されていないが、北欧はスパやエステの先進国として知られる。厳しい寒さと、白夜の影響による紫外線の強さは、肌にとって過酷な環境だ。そして古来、肌を守るために、森林の樹皮からとれるオイルが活用された。そして清浄な水。温泉の湧水も然り、北欧は澄んだ水の宝庫として知られる。私は、自然の力を借りた美容法を体験したかった。そこで生きるエステティシャンの手技をこの目で確かめたかった。フィンランド、スウェーデン、ノルウェイの三カ国を周遊し、各国のホテルで、最先端のスパとエステを体験した。岩塩をふんだんに入れたスパで血行を促した後、樹皮のオイルを肌に直接練りこむような、圧の強い手技。これまで経験したことのないような強さで筋肉をほぐした後、顎の下から額に目がけてソフトタッチで引き上げる。メリハリ感のある施術を受けた後の顔は、くすみが取れ、頬の位置がやや上がっているのが目視で確認出来る。短時間でここまで効果が出るエステは初めてだった。同行する現地ガイドのユナさんは丁寧な日本語で教えてくれた。
「北欧のエステは、より肌を強くすることを主眼に置いています。厳しい気候の中でいかに美を守るか。そして、心の浄化。ノルウェイの山間部、原生林が生い茂る深い森の中では、『エインセル』と呼ばれる美の伝道師達がいます。エインセルとは、北欧の神話に出てくる妖精で、ノルウェイ語で『自分自身』という意味も持ちます。肌にマッサージをしながら、念を送り込むことができる、いわばシャーマンのような力を持ちます。古来、エインセルはノルウェイの女性の心の拠り所として存在しています。」
エインセル。その存在に、私は夢中になっていた。
「ユナさん。私、エインセルに会ってみたいです。これからサロンを開業しますが、その前に彼女達の生き方を見たい。ごめんない。急だし、無理な事を言っているのは承知しています。」
「千佳さん。エインセルは、前を進もうとしている女性の味方です。承知しました。今から手配が出来るかどうか、早急に調べます。」
陽の光が届かないような深い森の中に、ひっそりとその小屋は建っていた。白壁には幾重にも蔦や苔が茂り、自然と同化したような佇まいだ。重いドアを開けると、ほの暗い部屋の中で彼女は木彫りのスプーンを作っていた。色白の肌に、グレイがかった瞳。耳の先端はやや尖り気味で、髪は赤毛。無造作なウェーブを一つに束ねている。きめ細かい肌をしているが、微笑むと目尻に深い皺ができ、歳を重ねているのだと分かる。
〈椅子にかけてください。〉エインセルが話すノルウェイ語をユナさんが通訳してくれる。
〈あなたがエステティシャンとして独立したいのだとユナから聞きました。〉エインセルは私の両手を優しく包み込み、ゆっくりと目を閉じる。
〈さっそくマッサージを始めましょう。〉
天蓋付きのベッドの上に、全裸の状態でバスタオル一枚を身体に巻きつけて寝る。天蓋の布地には、美しい刺繍が施されていて、中世のタペストリーのようだ。キャンドルの灯りのみの薄暗い空間で、外の風がカタカタと窓を揺らす音だけが聞こえる。エインセルは両手を、私の足先から膝にかけてさする。その手は、肌に触れるか触れないかのギリギリの距離を保ちながら、私の脚の始点から根元を何往復もする。身体の芯が疼きはじめ、私は困惑した。腰をよじりたくなるのを必死に堪える。腰を動かさないように神経を集中させる。これがエインセルのマッサージ?私は性感を刺激され苦しかった。手は徐々に身体の上部へ行き、臍の下、子宮の上をゆっくり指圧する。エインセルの手に、私の身体の熱が伝わってしまうことを恥じらいながらも、身体の内側の紐が解れていく心地良さを感じ始めていた。土の香り含んだ樹木のオイルが、足先から頭まで隈なく塗られる。掌が波のように身体の上を動くと、私は森の中を泳ぐ魚になり、深い眠りに落ちた。その夢の中で、何故か私はエインセルの手技を受けていることを把握している。湖水のほとりの柔らかな土の上で、エインセルは私の身体を覆う鱗をはがす。土の中の微生物が持つ生きた細胞が身体に送り込まれ、栄養となり血の巡りをよくする。ふと横を見ると、柔らかな白い毛をなびかせた山羊の様な動物が立っている。山羊?よく見ると、両耳の間に一本の尖った角を有している。その動物は寝そべり、私の膝の上に顔を乗せる。やがて乳房の匂いを嗅ぎ、その先端を吸い始めた。
〈チカ〉エインセルが囁く。
〈ユニコーンはいつもあなたの傍にいる。その角は解毒し、精神を浄化する。その
の手で、多くの女性を癒しなさい。何故ならチカはユニコーンに選ばれし者だから〉
目が覚めた時、エインセルの姿は無く、ユナさんがソファの上で私を見つめていた。
「よく眠っていましたね。エインセルは施術が終わると、精神を鎮める為にスパへ行きます。多くのエネルギーを使うのでしょう。それより、千佳さん、鏡でお顔をみてくださいよ。」私は部屋の鏡台の前に立ちすくむ。私の顔。余分な脂肪を削ぎ落としたように顔の輪郭が引き締まっている。肌は透明感を増し、目の下のクマが無くなっている。更に、白眼の充血が無くなり、瞳の印象が強い。唇は赤味を増し、ふっくらとしている。身体は全ての凝りが無くなり、軽い。私はただ、鏡台の前で立ちすくむ。頭の芯が夢の世界から離れず、言葉がスムーズに出てこない。そんな私を察して、ユナさんは微笑みながら私の姿を見つめていた。
帰国前夜、ホテル周辺の雑貨街を散策した。ノルウェイの民芸品が立ち並ぶ中、絵画を中心にコレクトしている店に入る。モチーフはノルウェイの森林風景を中心にしており、ダークブルーやグリーンの中に、アクセントの様に人物が添えられていた。その中の一枚が私の目に留まる。一匹の一角獣が、湖水のほとりで女性の膝に横たわっている。私は目を疑った。茫然としながら「ユニコーン」と呟く。私が見た夢の中と同じ光景。これはただの偶然なのか?夢の中でエインセルはっきりと私に告げた。「ユニコーンはいつもあなたの傍にいる。」
帰国してから数日、私はノルウェイで体験した世界から離れられずにいた。エインセルは間違いなく私の「夢」という回路を通して入ってきたのだ。そしてユニコーン。私はユニコーンという、神話に登場する架空の動物についてインターネットで調べた。非常に獰猛であるが、角には毒を中和する不思議な特性がある。更に、痙攣やてんかんなどの病気を治す力がある。この角の力を求めて、人々は捕獲しようとするが、瞬時に逃げてしまうか、逆に襲いかかられてしまう。そこでユニコーンの特性が鍵になる。ユニコーンは処女の懐に抱かれると大人しくなるという。処女の娘を森へ連れて行き、ユニコーンを誘惑させる。不思議なことに、ユニコーンは乙女に思いを寄せている。その意味から、ユニコーンは貞潔を表すものとした。私の手元にある絵画。あの日、ノルウェイの店で出会った一枚を購入した。毎日、何度も見つめているこの絵画に描かれている女性は処女だろう。私の夢の中に出てきたあのユニコーンは?私は処女ではない。何故私の膝の上に寝そべり、乳房に口づけたのだろう。「チカはユニコーンに選ばれし者」、エインセルはそう告げた。どれだけ考えても答えは出ない。これからエステティシャンとして独立する私に、エインセルが伝えたかったことは、私の手で多くの女性を癒すこと。ユニコーンの角は毒を中和させる。様々なキーワードが私を包み込み、絵画をただ見つめる日々が続いた。
ノルウェイの白樺のオイルを取り寄せる。それが最初に行動したことだった。日本では購入するルートが無いので、ノルウェイのサロングッズショップに直接メールのやり取りをし、取り寄せた。届いたオイルの香りを深く吸い込む。そして数滴を掌に流し、両手で揉みこむ。ノルウェイの深い森の香り、エインセルの小屋、天蓋の刺繍…その情景が一瞬で甦り、動悸が早くなった。もっとゆっくり、優しく肌にオイルを馴染ませる。白樺の樹皮のエキスが、肌の細胞にまで行き届き、浄化する。その肌の下の血管が熱を帯び、活性化される。目に見えない身体の内なる変化が、オイルを揉みこむだけで、はっきりと分かる。何故だろう?今までこんなオイルとは出会ったことがなかった。私の身体がこのオイルに対して過剰に反応しているだけだろうか。思わず私は服を脱ぎ、上半身裸になってオイルを塗った。鏡の前に立ち、入念にオイルを塗る。すると、見る見るうちに肌に張りが出て、血色が良くなっていく。デコルテは、鎖骨のフォルムがくっきりと出て、引き締まったようだ。身体がオイルの香りに包まれると、心が落ち着き、眠りを誘うような安堵感が生まれる。魔法のオイルだ。私のサロンはこのオイルを常備しよう。オイルを通して、私のこの手で多くの女性を美しく、浄化させる。大きな力が私の体中から生まれた。
オイルが届いてから、私は夢の中で頻繁にユニコーンと出会うことになった。場所はノルウェイの森の中。私は裸で湖の中で沐浴したり、湖畔で佇んだりしている。しばらくするとユニコーンが現れ、私に近づく。ふさふさのたて髪が私の鼻をくすぐる。私の身体に寄りかかり、唇や乳房に口づけする。私は、温かくて柔らかい感覚を味わう。例えるなら、子宮の中に眠る胎児が、羊水に包まれながら、ふわふわと浮かぶような感覚。ユニコーンを抱きしめると土の香りがして、それが私を一層安心させる。この夢を見た後の朝は、いつもより優しい気持ちになる。ノルウェイの旅行を境に、私には一切の性欲が抜け落ちていた。安定した関係を保つ男性は数年間いなかったが、たまに情事を楽しむような、男友達や年上の飲み仲間は数人いた。私はもともと性欲が強いほうではないが、ふいに抱かれたくなる欲求はある。男性への依存心は無いから、結婚願望も無い。その点で私は多くの男性に求められ、応じていた。今はどの誘いも受け入れたくはない。男性に対して嫌悪感を持ったわけではない。ただ、性的欲求が芽生えないから、肌と肌を触れ合わせるという行為をしたくないのだ。私の身体は、あのエインセルの出会い、手技により、大きく変化してしまった。彼女は私の性感を刺激し、困惑させた後、深い快楽のマッサージを施した。そして、夢の中へ導き、ユニコーンと私を引き合わせた。今では、ユニコーンは使者となり、私の傍にいる。ユニコーンは夢を通して現れ、私に寄り添う。そう、ユニコーンは処女に導かれる。私から性欲が抜けたことは、エインセルの、もしくはユニコーンの仕業なのか。ノルウェイで購入した絵画を見つめながら考えるけど、明確な答えは出ない。そして私の使命は一つ。一日でも早くサロンを開業させ、私の手技を多くの女性に施すこと。旅行後の靄の中にいたような感覚を抜け、夢中になって開業準備に取り掛かった。
専門学校時代に使用していた、練習用のマネキンを十数年ぶりに引っ張り出し、サロンベッドに寝かせる。凝りを解し、肌に効く手技を、一から見つめ直したかった。エインセルのマッサージ然り、北欧のスパで体験したエステは、驚くほどの効果をもたらした。最初に強い圧をかけて顔中の筋肉を解す。デコルテの筋肉も隈なく解す。顔は、凝りが集中する箇所は指圧するが、他はソフトタッチに軽擦。密着感と連続感を常に意識し、顔全体を上に引き上げるように擦る。何度も思い出しては、マネキンに施す。次に、鏡の前の椅子に座り、自分の顔を見ながら、同じように施術する。もっと優しく、いや、ここは三指を使い、筋肉を解すと有効だ。顎は強擦したほうがラインは引き締まる。時間を忘れて顔を触る。私は、一人でも多くの女性を美しくしたい。多くの女性を癒したい。壁に掛けられた絵画を見つめながら、ひたすらマッサージに試行錯誤する日々を過ごした。
私のサロンは「Silent Lake(静かな湖)」という名前で開業した。森の中に存在し、美しい水が自分を鏡のように映し出す。その周りは静寂が包み、心身とも湖の水で浄化されるような空間を目指すことで名付けた。同じマンション内で二室を借り、一つは自宅、もう一つはサロン専用の部屋として使用する。サロンはキャンドルの灯りだけの照明で、BGMも無い。以前、雇われ店長として勤めていたサロンの常連客には、Silent Lakeの宣伝をした。来店した顧客は皆、口を揃えて言う。
「千佳さん、いつからこんな気持ちのいいマッサージをするようになったの?」
「今までと全然違う。オイルが身体に沁みていく感じが分かる。」
「エステ後の肌の張りが見違えるように違う。」
ノルウェイから取り寄せたオイルの香りに、どのお客も癒され、施術の後半には皆寝息を立てる程、深いリラックス効果があることが分かった。「生まれ変わった千佳のエステ」が、常連から口コミで広がり、開業二カ月にして新規顧客が三十名を超えた。私は定休日や、定休時間を設けず、全てお客の要望でサロンを開く。早朝でも深夜でも。その点で、様々な職業の人から評判を呼び、鶴舞駅界隈では「いつでもやってくれる気のきいた隠れ家サロン」として有名になった。私はサロンがある限り、この手を動かし続ける。食事や睡眠は、空いた時間に摂ればよい。必要なものはネットで買える。エステをすることは、私にとって、呼吸をするくらい必要なものとなった。Silent Lakeを開業してから私は、エステティシャンとしての自分の虜になっている。不思議なくらい疲れを感じない。
深夜に訪れるお客は、ほぼ水商売に従事する人だ。その中には、まだ二十代前半の若い女性もいる。
「私、エステって初めてなんです。ここのサロンは腕がいいって先輩から聞いて予約しました。」
「まだ若いでしょう。おいくつですか?」「二十一です。」
「年齢に関係なく、肌のお手入れをする心は大切です。その歳なら新陳代謝がいいから、すぐに効果は現れると思います。」
彼女の肌は、若い年齢に関わらず、くすみがちで弾力を失っていた。デコルテを入念にマッサージし、血行を流すとようやくオイルが肌に染み込んだ。眉の横の細い血管がドクドクと流れる様子が目視できる。
「こんな贅沢な時間、初めて。いつも昼夜逆転生活だし。なんだか、幸せ。」
「そう言ってもらえると嬉しいです。女性にはそういう癒しが必要だと思います。」
やがて彼女から寝息が聞こえる。深夜二時。この後は予約が無いから、彼女をそっと寝かしておく。私は簡単な食事を済まし、ソファに横たわる。今日のお客は五人。五人の女性の生きる環境は違い、肌の状態も違う。話を聞かなくても、肌を触ればその人の生活や生き方までもが見えてくる。肌は女性の生き様を映す鏡だ。私はお客の生き方を変えることは出来ないが、肌にエッセンスを与え、自信に繋がる様な梯子になれば良いと思っている。
空にほんのりとオレンジ色が染まる夜明け前の時間に、彼女は目を覚ました。
「ごめんなさい、寝てしまって…」
「大丈夫ですよ。深いリラックス効果があったことが分かり、嬉しいです。いま、フレッシュジュースを作りますので少々お待ちください。」
バナナとオレンジとヨーグルトをミキサーにかけ、彼女に渡す。
「千佳さん、私、すごく身体が軽いです。肌も、つやつやだし。なんだか生まれ変わったみたい。また、必ず来ます。」
彼女はそっとマンションの扉を閉めた。実際、彼女がリピーターになるかどうかは分からない。ただ、彼女にとって、特別な時間を過ごせたのは間違いない。それを提供出来たことに充実感を覚える。
毎日毎日、様々な女性の肌を触る。私の手を通して、肌に息吹を与える。女性が去り、またこの部屋に訪れる。ずっとその繰り返し。私には月日の経過を考える暇のない日々を過ごした。気付けば一年、二年…。ごくたまに友人と食事をする為に外出をするが、ほとんどの時間はサロンか自室で過ごす。それが一番私の身体に馴染む。ずっとずっと独りになりたかったのかもしれない。寂しさではなく安堵感。世間の煩わしさから解放され、ひたすら女性の肌に向き合い、施術をする。サロンルームに掛けられた絵画が私を見守る。何度も何度もユニコーンを見つめる。そしてユニコーンは私に力を与えてくれる。ノルウェイの深く、静かな聖地。あの場所とここのサロンは繋がっているのかもしれない。エインセルが、私を使者としてここへ送り込んだのかもしれない。週に何度も、ユニコーンの夢を見る。その夢が続く限り、私はずっと穏やかな気持ちで女性達にエステの施術を行い続けることが出来るだろう。
静かな霧雨の降る朝、サロンの予約回線の電話が鳴った。朝方の電話は珍しい。私はハーブティーをそっとテーブルに置き、受話器を取った。
「あの、初めて電話をした者です。予約を取りたいのですが。」男性の声だった。このサロンは女性専用だが、男性からの問い合わせが皆無だったので、敢えてそのような宣伝をしていなかった。私は一瞬どのような対応をすべきか戸惑った。だが、いつもと同じような言葉が出た。
「有難うございます。当店は、インターネット等でお知りになりましたか?」
「いえ。人からの紹介です。僕は飲食店で働いておりまして。このサロンの評判をお客さんから聞いたんです。それで、僕も行ってみたいと思いました。」
「そうでしたか。わざわざご連絡頂きありがとうございます。ご希望の日時はお決まりでしょうか?」
「あの、今日とか空いている時間ありませんか?」私は息を飲んだ。
「はい。午前中は空いています。十二時から他のお客様の予約が入っていますので、十時以前ならいつでも大丈夫です。」
「では、今から伺ってもいいですか?四十分くらいでそちらに着きますが。」
あまりに早急なペースで予約が入り、呼吸が乱れた。今は八時二十分。九時スタートのエステになる。
「お客様、お名前とご連絡先をお願いします。」
「佐伯です。電話番号は……」
受話器を置き、深呼吸をする。佐伯さん。振り返れば、ノルウェイ旅行をしてから六年。
男性との関わりは皆無だった。男性と遊ぶことに興味を失くしてしまい、それまでの交友関係を断ってしまった。ろうそくの灯が消えるように、音も無く、自然に。私は「女」の自分を気付かないうちに封印してしまった。ミネラルウォーターを口に含み、エステの準備に取り掛かった。
佐伯さんは九時五分前に訪れた。ジーンズに綿のシャツを羽織り、中には鮮やかなオレンジ色のTシャツが見える。中肉中背で、穏やかな眼差しだが、寝不足なのか、目の下のクマが深く、瞳が充血している。この男性がエステ?ラフなスタイルだし、美容に関心があるようには思えなかった。
「いらっしゃいませ。Silent Lakeにお越し頂き有難うございます。」
「いい香りがするサロンですね。キャンドルの照明だけで、すごく落ち着けそうです。」佐伯さんは、柔和な微笑みを浮かべた。
「急に予約を取る形になってしまい、すみませんでした。僕は飲食店で働いているのですが、昨夜、うちのお客さんが、とても腕のいいエステサロンがあると教えてくれて。僕は肌のお手入れをしっかりやっていないので、すぐに伺いたいと思いました。本当に営業時間の縛りがなくて驚きました。」
「有難うございます。私は、お客様の要望にできる限り応えたいので、定休日や定休時間を設けていません。そのおかげで、沢山のお客様のお肌を施術することが出来ます。早速ですが、佐伯さんの今のお肌の悩みを教えてください。」
「肌のハリが無いです。とにかく敏感肌で。剃刀にも弱いし、乾燥しやすい。」
「分かりました。では、マッサージをしながら、お肌の状態をじっくり見てみますね。」
佐伯さんの肌は、指で押さえるとグイと奥に沈むような、弾力の無さが顕著だった。真皮のコラーゲン線維が不足しているのだろう。疲れ、ストレスが溜まると、人の肌は栄養が行き届かなくなり、ハリが失われる。それに、肌の筋肉の凝りがかなり溜まっている。接客業ゆえだろうか。抑えるとコリコリと音が鳴るくらい、噛み合わせ付近や眉頭の筋肉が凝っていた。そこを強めに圧をかける。
「すごく痛いです。だけど気持ちいい。」「凝りが解れたら、デコルテの血行を促しますね。」
男性の広く、平坦なデコルテを触る。私は女性の身体しかマッサージをしたことが無かった。男性への力加減が分からないので、通常より少しだけ強めにリンパを流す。首筋の太い血管が、生き物のようにドクドク動く。佐伯さんの呼吸が、深く、遅めになってきたので、眠りの入口まで来ていることが分かる。そのリズムが、見たことの無いくらい振幅の大きい呼吸だった。この人はかなり疲れているのだろう。男性で、自分の肌のメンテナンスをしたい人は稀有だ。佐伯さんの素性は知らないが、このサロンで心身とも疲れを取り除くような時間を持ってもらえたら嬉しい。佐伯さんの寝顔を見ながら、私はいつもより念入りにマッサージをする。顔の肌を、優しいタッチで流す。すると、オイルが沁み入るようにどんどん肌の中に吸収される。すごい浸透だ。マッサージを繰り返すと、肌のキメが膨らみ、弾力が増してきたことが分かる。効果がすぐに出ている。強弱を意識した施術を繰り返すと、私は船を漕ぐような感覚を覚える。穏やかな波もあれば、飛沫を上げるような荒い波も訪れる。それらを自分のリズムに巻き込んでいく。人の肌が、自分の掌に吸いつくような感覚。この連帯感は、私に快感をもたらす。気付けば、汗ばむほど夢中になって佐伯さんの肌をマッサージしていた。
佐伯さんは深い眠りについていた。寝顔を見ると、睫毛が長く、鼻筋が高い。唇はやや厚みがあり、中性的な顔立ちをしている。
「佐伯さん、終わりました。」
「すごい。僕は慢性的に眠りが浅いけど、この数十分で、稀に見る程の深い眠りの世界へ行きました。このオイルの香りと、マッサージの心地良さがたまらない…。」
その後も、佐伯さんは鏡を見て、自分のフェイスラインが締り、目の下のクマが薄くなっていることを多いに喜んだ。「僕、このサロン、千佳さんのエステの虜になりました。」飾りの無い言葉で話す佐伯さんは、少年のような無邪気さで喜びを表す。
「佐伯さんの肌はもともとキメが細かいです。なので、定期的なお手入れをすれば、お肌はグンと綺麗になります。その反面、敏感なのでストレスに負けないような強い肌を作る事が大切です。」
「必ずまた来ます。よろしくお願いします。」佐伯さんは丁寧にお辞儀をして帰って行った。
サロンベッドに腰掛け、佐伯さんが記入したカルテに目を通す。
佐伯アキラ。二十九歳。飲食業。
アキラ?本名だろうか。サロンベッドの片づけをすると、佐伯さんが身につけていた香水の香りが残っていた。シトラスに、少しだけ甘いトーンを加えたような香り。私より十一歳年下の青年は、不思議な空気を残していった。
それからちょうど六日後。日曜日の夜に佐伯さんは来店した。
「僕の働いている店、日曜日定休で。休みの日のご褒美で、また来てしまいました。」
「こないだのエステの後、肩の凝りが解れたから、身体が軽かったです。お肌の調子がいいいし。鏡を見ると嬉しくなりました。」佐伯さんはこないだより饒舌に喋る。
「私は、このサロンへ来て頂いた方に、強い素肌と、癒しの時間を提供する事が使命だと思っています。佐伯さんからのお言葉は私の励みになります。」
佐伯さんの肌に触れると、前回よりくすみが取れ、乾燥によるダメージも少ない。ただ、筋肉の凝りは相変わらずで、指圧するとごりごりとした小石にぶつかるようだ。その石は、念入りにマッサージをすれば砕け、肌の丘陵は穏やかになる。
「僕はバーテンダーなんです。カウンター越しに、いつもお客さんの目の前で仕事をしています。僕の立ち振る舞いや表情に至る全てが、お客さんにとって自然に、かつ心地良いものとして映る事がとても大切なんです。これは、とても神経を使います。僕の顔が異様に凝っているのはそうせいかもしれません。」
「バーテンダーなんですね。佐伯さんはいろいろなお酒について知識があるのですね。」
「仕事上は。だけど僕が一番好きなお酒はワインです。葡萄の果実だけで、生き物のように味や香りが変わるあの液体に魅力を感じます。僕は、バーという空間が好きなんです。」そう話しながら、デコルテのマッサージが始まると、佐伯さんは穏やかな寝息を立て始めた。バーテンダー。彼は、バーのカウンターでは白いブラウスに、黒のサロンを腰に巻いているのだろうか。髪をワックスでまとめて。華麗にシェーカーを操りながら微笑む佐伯さん。そういえば、佐伯さんの手元をじっくり見ていなかった。今、バスタオルからはみ出している右手を見つめると、爪は全て短く切りそろえてあり、手の甲は滑らかな表面をしている。普段から頻繁にハンドクリームで手入れをしているのだろう。施術が終わり、ハーブティーを飲みながら、佐伯さんは語る。
「バーという空間。話そうと思っていたら、寝落ちしてしまいました。バーには、独りで来る男性、女性、カップル、様々な人が来ます。その人たちが、日常から離れ、素の自分に向き合える場所。そこで黒子のように働けることが嬉しいです。あとね、お客さんがカクテルの色を見つめながら、片手でグラスを傾けながら持つ仕草。僕、それを見るのが好きなんです。カクテルはグラデーションや飾りを付けることで、表情がガラリと変わります。それと人の表情。色気を感じるシーンです。」私は佐伯さんの話を聞きながら、以前通ったことのあるバーの店内を思い出していた。もう七年以上行っていない。バーの魅力を語る佐伯さんの表情や仕草も、色気がある。少し恥じらうような、遠慮がちな微笑みをたたえて。
「すみません。僕、喋り過ぎですよね。」
「全然気にしないでください。私、佐伯さんの話聞きたいです。私はもう何年もバーに行っていないのですが、あそこは独特な空間だと思います。日常から離れる。それって、生きていくうえで、大切な行為だと思います。仕事も、家庭も、友人も、時には恋人も。そういった縛りから解放されて、自分と向き合えるような空間は、自分の感覚を駆使して、探すべきだと思います。」
「僕にとって、Silent Lakeはそういう場所です。」
私は、息を飲んだ。わずかに佐伯さんから視線をずらした。
「まだ二回しかここを訪れていないのに、大袈裟な表現ですよね。だけど、本当に解放されるんです。そういう意味では、僕の仕事も千佳さんの仕事も、『特別な空間』を作ることで共通しているように感じています。」
佐伯さんが帰った後、しばらく絵画を見つめる。「ユニコーン。」ふと口から洩れた。このサロンを「隠れ家」や「私の癒しの場所」と言ってくれるお客は何人かいる。
素の自分に向き合える場所…
私はSilent Lakeを開業してから、ほぼこの空間で暮らしている。私にとって、解放される場所は、今はどこなのだろう?そんな疑問を考える余地無く過ごしてきた。ユニコーンはいつも私の傍にいて、仕事をする私をずっと見守ってくれている。独立してからは、よりエステの技術が評価され、沢山の顧客がついた。私は、自分のサロンを持つことが出来て、この上ない充実感を得ているのだ。何の不服もない。だけど、ふと思う。私は、自分が作り上げた小惑星のような空間でしか生きていけないのか。エステティシャンという仕事を引き換えに、生身の「千佳」の存在を、どこかに封印してしまったのかもしれない。
佐伯さんは、土曜日の深夜、もしくは日曜日に定期的にサロンへ通うようになった。土曜日はバーが閉店した後だから、いつも深夜2時過ぎになる。回数を重ねるごとに、佐伯さんの肌は弾力を増し、キメの細かさが分かるようになった。そして、佐伯さんの服装にも変化が現れた。最初のうちは、ジーンズにロングTシャツというスタイルだったが、スラックスに綿のシャツやシルク素材のシャツ、その上からカジュアルジャケットを羽織るようになった。頻繁に美容院に通っているのか、前髪を斜めに流したり、オールバックにしたり、ヘアスタイルのアレンジも楽しんでいる。
「今日のジャケットとスプリングセーター、優しい色合いがとてもあっていますね。」
「そうですか。なんだか気候が暖かくなって、春めいたものが着たくなったんです。僕にはちょっと華やかすぎたかと思うけど。」
「全然。よく似合っていますよ。佐伯さん、お肌の状態が良くなってきたので、明るい色の服も着こなせます。健康的な肌は、洋服のカラー選択も増やしてくれるんですよ。」
「実はね、この年齢にしてお洒落が楽しくなってきました。それは、肌の状態がよくなり、鏡を見る回数が増えたからだと思うのです。」
「素敵。恋をする女性のようです。いつも鏡を見て、もっともっと綺麗になりたいと願うような気持ちと似ていますよね。」そう話すと、佐伯さんは微笑みを返すだけで会話をしなくなった。少し硬直した空気が流れた。
「すみません、私、沢山お喋りしてしまいました。早速エステを始めましょう。」
自分の肌に気を遣う男性。カクテルの色合いや、そのグラスを持つ人の仕草に魅力を感じる男性。春めいた服を着て、恥じらいながらも嬉しそうに喋る男性。私は、佐伯さんの大切な部分に何故気付かなかったのだろう。本当に私は鈍感で馬鹿だ。ここは佐伯さんにとって、自分を解放できる空間であるのに、私は佐伯さんの内面を見つめていなかった。いや、佐伯さんだけじゃない。私はエステティシャンとしての職務を全うするだけで、ここを訪れる人のプライベートを敢えて見ないようにしてきた。そのスタンスを保ってきた。それは、この小惑星で生きていく為に必要な行為なのだ。様々な気持ちが倒錯する中、全神経を集中して佐伯さんの肌をマッサージした。いつも眠りに落ちる佐伯さんだけど、今日はその呼吸は訪れなかった。
「今日も気持ち良かったです。肩や首の凝りが酷かったので、すごく軽くなりました。千佳さんのゴッドハンドは最高です。」
「ありがとうございます。確かに凝りが酷かったので、いつもより念入りに解しました。」
いつもと変わらない笑顔。佐伯さんはジャスミンティーを飲みながら、優しげな眼で私を見つめる。
「さっきは、会話の途中ですみませんでした。千佳さんに伝えたいことがあって。もう気付いているかもしれないけど、僕はゲイです。隠すつもりはなかったんですけど、何だか言いそびれてしまって。千佳さんが偏見を持つ方では無いのは分かっているつもりです。だけど、僕がカミングアウトすることで、このサロンに流れる神聖な空気が変わってしまうのが怖くて…。」
「そんな。私こそ、ごめんなさい。さっきは佐伯さんを傷付ける発言をしてしまいました。私は、偏見は微塵もありません。そしてこのサロンの空気はずっと変わりません。佐伯さんにとって、『解放できる空間』であるよう、私はここを守り続けます。」自分でも、大袈裟な表現をしていると理解している。ただ、口から言葉がどんどん溢れ出す。
「私は、ずっと自分の殻に閉じこもっていて。この仕事に全う出来るよう、そういう風に仕向けているかもしれません。だから、佐伯さんのからの情報を得ても、ただエステに没頭するだけでした。こうやってお話をすることは私にとって、大切な一歩だと思います。」
「そんなに硬くならないでください。千佳さんは、いろいろな会話が出来る人だと思いますよ。僕の勝手な印象ですけど、千佳さんは頑なに自分を『こうあるべきだ』と言い聞かせているような気がします。もっとニュートラルで、柔らかい部分を持っている女性だと思います。僕、言い過ぎですよね。ごめんなさい。」
「ううん、全然。佐伯さんの言う通り。私は……」
その後、私は言葉が出なくなってしまった。泣いてはいない。ただ、台詞を乗せて音として発せなくなってしまった。佐伯さんは私の様子を察して、静かに席を立った。
「また来週の日曜日、同じ時間に来ます。」
その夜、いつもの夢を見た。ノルウェイの森の中。私は湖のほとりに佇み、深呼吸をする。やがてユニコーンが現れ、私の横にやってきてしゃがむ。柔らかいたて髪が鼻に触れてくすぐったい。ユニコーンを撫でてやると、ふと固い金属が手にあたる。ユニコーンはいびつな形をした鍵を加えていた。「なあに、これ?」すると、ユニコーンはくわえていた鍵を私の手元に落とし、大きな瞳で私を見つめる。ユニコーンは体を私に摺り寄せたあと、立ちあがり、森の中へ消えて行った。私は鍵を握り締めて森の中を彷徨う。深い森の世界では太陽の光も届かない。足元を見ていないと、樹木の根っこに足を取られてしまう。やがて、見覚えのある白い壁の小さな小屋を見つける。エインセルの小屋だ。彼女は中にいるのだろうか?会って話がしたい。私はあれからエステティシャンとして成功したこと。あなたが、私を導いてくれたから。そう伝えたい。扉に手をかけたが、鍵がかかっている。ノックをしても誰も出てこない。無人か?ふと手にしている鍵の存在に気付く。もしかして…だけど、きっとこの鍵で扉は開くだろう。私はほぼ確信している。ユニコーンは使者として、この鍵を渡しに来た。鍵は鍵穴の中でゆっくり回転し、重い扉がギィと唸りながら開いた。小屋の中はがらんどうだった。天蓋のベッドも、ソファも何もない。何もない空間を、静寂な空気が支配していた。一歩、小屋の中に足を踏み入れる。私に虚無感が襲ってくる時、夢の世界は終わった。
「思春期を迎えても、女の子に興味を持てなかった。でも、スポーツをしている男の先輩を見ても、心は動かない。僕はずっと宙ぶらりんで、出来損ないの人間だと思って生きてきた。生まれつきの孤独。この感覚は誰に説明しても理解してもらえないから、親にも話さなかった。」
アキラからの告白を聞いてから、私達は内面的な話をするようになった。お互いを名前で呼び合い、敬語もいつしか消えた。アキラの孤独を知れば知るほど、私の掌は彼の肌の上でより繊細に動き、彼をもっと気持ちよく、もっと解放させたいと願うようになった。
「二十代になってから、SNSで知り合った男性とその場限りの遊びするようになったけど…今はもうしない。二十代最後の誕生日、自分の顔を見てハッとした。なんて酷い肌をしているんだろうって。肌はその人の生活を映す鏡。迷う暇もなく、このサロンに予約を入れたときは、自分を変えるキッカケがあるかもしれないって、本気で思った。神様はちゃんと見ていてくれたのかな。」
「アキラ君は最初ここに来た時と今では全然違うよ。肌もそうだけど、顔の表情も、喋り方も、ずっと明るくなった。」
「僕は自分を見つめ直して、いつか好きな人が出来るといいなって思ってる。」
人を好きになる。私はこの先の人生でそんな感情が生まれることがあるのだろうか。私の感情の扉は、鍵で閉ざされてしまった。
「いいね、そういう気持ち。好きな人がいるだけで、綺麗になりたいって思うし、自分も見つめるきっかけになるよね。」
「千佳さんに恋人がいないのが不思議だよ。美人だし、仕事も出来る。自立していて、女性が欲しいものを全て持っている人じゃないかって思うくらい。」
「うーん。なんかね『欲』そのものが欠落しているの、私。今の暮らしに全く不服は無い。」
「千佳さんがそう思うのであれば、いいと思う。自分自身の問題だから。だけどね、千佳さんの魅力は、もっと奥底に隠れているような気がするよ。その『欲』は、欠落したのではなくて、眠っているだけなんじゃないかな?」
最近は絵画を見ても、ユニコーンは夢に現れなくなってしまった。あの、エインセルの小屋を見つけた夢を見たときから。ユニコーンがいなくなると心に空洞が出来た。私はアキラに自分の話をしていない。ノルウェイを旅して不思議な体験をしたこと。それを境に、エステティシャンとして邁進できたが、引き換えにあらゆる「欲」を封印してしまったこと。この話は誰にもしていないし、したところで理解をしてもらえないと思う。アキラは?アキラには話をしてもいいような気がする。だけど、まだその気持ちは固まらない。あのエインセルの小屋は私の心を表わしていて、空洞のままだ。私は、アキラのように生まれ持っての苦労は一つも無いし、ひどく傷付いた過去も無い。だけど、感情に鍵をかけてしまった。どうしてだろう?この七年間、友人からの誘いを一方的に断り、今は会う人間がほとんどいない。私は孤独になりたかったのか?
朝、目が覚めて顔を洗い、服を着る。午前中にエステの予約が入っていないから、軽くメイクをして鶴舞公園まで散歩をする。ふと歩きたくなった。公園に辿り着くと、鳩に餌をやる老人に出会う。ベンチに座り小説を読む青年がいる。ベビーカーを押しながらお喋りする若いお母さんたち。ランニングをする学生の集団。時間が、動いている。公園の欅の幹にもたれ、木漏れ日の中で深呼吸をする。そして、シンプルなことに気付いた。
私は、誰かと話がしたかったんだ----
あまりに自然に、舞い降りた答えに驚いた。この七年、何故私はここまで自分を追い込んだのだろう?あの夢は、私の心の空洞を表していたのではない。エインセルやユニコーンがいなくなっても、大丈夫。自分で心の拠り所を見つけるために踏み出さなくてはいけないというサインだったのだ。Silent Lakeは軌道に乗った。そして、わたしの心を解放する時期が来たことをユニコーンが教えてくれた。「この鍵を持って。そして、心の扉を開けて。」
アキラ。それを気付かせてきれたのはあなたかもしれない。アキラも私も不完全な人間。それでも出会い、絆を結ぶことで、何かが生まれる。この感情が恋なのか友情なのか、全く分からない。だけど今は、アキラに話がしたい。
エステが終わり、アキラは伸びをする、寝癖のついた髪を整え、シャツに腕を通す。
「最近ね、お客さんからも肌が綺麗になったねって言われるようになったんだ。『そうですか?』って軽く受け応えるだけなんだけど、内心大喜び。人に気付いて貰えると嬉しくて嬉しくて。」
「それはアキラ君の努力の賜物だよ。こうやってエステに定期的に通うことが実を結んだ結果。私はアキラ君のお手伝いが出来て何より嬉しい。」
「なんだかね、今日はすごく気分がいいんだ。春本番で桜が咲いたからかな。単純だけど、そういう景色をみると気持ちが高揚する。」
「実はね、この部屋のベランダから、美しい桜が見えるの。」
サロンルームのカーテンを開く。誰かが一緒の時に、カーテンを開けたのは初めてだった。
日曜日の柔らかな日差しが降り注ぐ中、窓一面に、鶴舞公園から八幡山古墳まで広がる桜並木が眼下に広がった。アキラから歓喜の溜息がこぼれる。
「桜色をした、美味しいロゼワインがあるの。この景色を眺めながら一緒に飲まない?」
アキラの表情がほころび、お互い目が合うと、屈託なく笑い合った。