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いろいろ

月の光と恋心

作者: 檸檬 絵郎

アンリさま主催の秋の恋企画「うれしたのし秋の恋」参加作品です。拙作としては、二作目の参加です。



イメージミュージックは、ドビュッシーの『月の光』


と、させてください。




本編は、

昨日と今日、そして、朱美にとっては遠い昔の出来事に加え、お芝居の世界も混じってきます。



朱美あけみさ……、お前、浮気してるだろ」

「え」


 恋人から突然かけられた嫌疑に、私は顔を強張らせた。


 彼は勘が鋭い。こんな目つきで睨まれたときには、いつだって私には心当たりがあった。彼に疑われたときは、私には必ずやましいところがあった。


 そんなときは、開き直る。「浮気? したよ。だから何」そう言って喧嘩を始める。浮気をしたことは一度もなかったが、もし本当にしたとしたら、そういうことになるのだろう。いつもの喧嘩と同じ。なぜなら、彼に対して嘘が通じるとは思えないから。


 でも……。



「してるだろ、浮気」

「え……」

「ごまかしても無駄だ、顔に出てる。顔だけじゃない、いろんなところに書いてあるよ」

「してないって」


「……昨日」

「え?」

「昨日の夜、十五夜だっただろ。朱美、病院って言ってたけど、本当なの」

「本当だよ」

「なら、病院で誰とお月見してたんだよ」

「え」

「誤魔化そうったって無駄だ」


「……もしかして……」


 彼のぎあてたものが何かわかると、私はおかしくて少し笑ったが、恥ずかしくもなって、下を向いてしまった。









 月が見たい。祖父がそう言ったので、表へ出た。病院裏の小道を、祖父の車椅子を押して歩いていく。


 風に揺れるすすきの穂が、金色に輝いていた。道端には小さな花を集めた萩のが垂れ、控えめに夜の光を受けていた。

 そういえば、今日はちょうど十五夜、中秋の名月だ。私は朝のラジオで聴いた、天気予報士の言葉を思い出した。


「今夜はお月見日和となるでしょう」


 朝から仕事で、オフィスを出たら病院の祖父を見舞うことが決まっていたため、長閑のどかに月を眺めるひまなどないと思っていた。私は不思議な気分だった。




明子あきこ


 祖父が、祖母の名を呼んで言った。


「月の光だよ……」


 祖父の顔をのぞくと、その両の目は、白くやつれた顔のなかにあってしっかりと私を見つめていた。


「ほれ、明子……」









 明子と俊夫としおは、舞台で知り合った。

 俊夫は劇作家を志し、町の仲間と立ち上げた劇団に身を置いていたが、ある年、劇団の巡業公演が決まった矢先に主演俳優が降板する事態となり、やむなく役者を任されることになった。もともと小さな劇団だったため、役者の数は少なく、このときは代役がいなかった。演目は岸田國士の『チロルの秋』で、これは男一人、女二人の役者がいれば足りる芝居だったが、それでもぎりぎり上演できる人数だった。



 役者の経験のなかった俊夫は、演出家から出演を打診されたときにこう答えた。


「相手役を明子に代えろ。そしたら出演してやる」


 明子は数日前に入った見習いの団員で、女優志望ではあったが、これもまた、舞台に立った経験のない者だった。

 演出家は青ざめて、「本気で言ってるのか」といた。俊夫は皮肉な笑いを浮かべ、こう返した。


「お前こそ、本気で言っているのか」



 その場を去るとき、当の明子とすれ違った。驚きに満ちた両の目は濡れているようでもあったが、俊夫は構わず歩いていった。









「正直に話せよ」


 顔を背けた恋人に対して、彼は容赦なく話を促した。


 些細ささいな隠し事がばれたことは何度かあって、そのたびに彼は冷徹な瞳を私に向け、私の方もひるむことなく応戦してきたが、今回は少し様子が違う。彼の声がいつもより高いことに、私は気づいていた。


 浮気となると、さすがの彼も落ち着いてはいられないのかもしれない……。


 そう考えると、少し楽しくなってきた。



「なんだよ、その顔は」

「私、実はね……、デートしてたの」



「はあっ?!」









 劇団を抜けよう。そう考えていた矢先、演出家からの電話があった。


「お前の望み通り、明子に出てもらうことになった」

「は?」

「明子が出たいっていうんだよ」


 寝耳に水だった。

 俊夫にとって、これは望み通りの話ではない。むしろ、その逆だ。


「お前、本気か」

「本気も本気、なんたって、ご本人が本気なんだからな」

「なんじゃそりゃ」

「いや、本当に」



 怒りでおかしくなりそうだった。演出家も演出家だが、明子も明子だ。


 どいつもこいつも芝居をあなどっている。


 今まで劇作で芝居に携わってきた俺はともかくとして、知識も経験もない夢見がちな女優志望などを舞台へ上げてなんになるというのだろう。



 机の上の台本を見る。岸田國士『チロルの秋』


 第一次世界大戦が終わり、二年が経った秋。場所は、チロル・アルプスにある、ホテルの食堂。登場人物は、ホテルの給仕役エリザと、二人の宿泊客、日本人男性アマノと、身の上を話したがらない女性ステラ。アマノはステラにかれ、一晩だけ、恋人のふりをして遊ぶことを提案する。



アマノ   あなたが愛していらっしゃる男が、僕だとします。

ステラ   あなたが愛しておいでになる女が、あたし……?

アマノ   僕とあなたとではない……

 あなたの恋人と、あなた……

 僕の恋人と、僕……

 とが、今、ここにいるわけです。

ステラ  (笑いながら)それから……?



 

 この難しい戯曲を、ステラという役を、新人なんぞにこなせるわけがない。名作への侮辱だ。しかもそれに、自分も加わることになるのは……。それでも俊夫には、明日、いつになく真剣な面持ちで稽古場のを開く自分の姿が見えるような気がした。



「好きなのだ、俺は……」



 そうつぶいたのは、明子のことではない。

 明子のことを想うには、このときの俊夫は真面目すぎた。









「寒かぁないか」


 十月も半ば。すすきの色はすっかり季節に馴染み、穂を揺らす風もすでに冷たい。少し前まではあんなに暖かだったというのに。


「少しね。お祖父ちゃんこそ、寒いんじゃない?」

「……明子」


 祖父は変わらず、私を祖母の名前で呼んだ。当然のように。それから嬉しそうに、皺を寄せて笑った。この人はきっと、私が祖母でないことは、百も承知なのだ。

 月明かりの中、祖父の優しげな瞳に私は見入った。



「若い頃は頑固じゃったが、今はもう、真ん丸になってしもうた……」彼はそう言うと空を見上げ、また目を細めた。「お月さんは変わらず、すべすべしとる」



 夜風が少し強くなり、雲が月を覆い隠した。

 ふたたび現れたときには、それは澄んだ空気の中で、よりいっそうはっきりと輝いているように見えた。









 俊夫はいつになく不機嫌だった。

 明子の芝居は、てんでなっていない。それだけではない。演出家は彼女に対して、なんの駄目出しもしないのだ。



エリザ  明日はあなたがおたち、明後日はアマノさん……。

 そうすると……

 あとは、此のホテルも空っぽ……

     沈黙

ステラ  汽車の時間はわかって。




 冒頭、エリザのセリフに続くステラの一言目。「沈黙」を破って、ここをつのだという意志を伝える。



 ステラは喪服を着ている。

 戦争が終わってから二年の間、たった一人で旅を続けている。



 その深みが、明子のセリフからはまったく感じられない。おそらく、物語の背景を読み解けていないのだろう。これだから新人は……口では威勢よく「やります」と言い、目には涙を浮かべながら……自分は本気なのだと信じて、浅薄な激情に浸って……



「いい加減にしろ!」


 声高に叫び、俊夫は稽古場を出ていった。






 早まったことをした。


 俊夫は悔やんでいた。演出家が、本気で相手役を代えるとは思っていなかったのだ。俊夫の一言によって役を失った女優は、怒って劇団を去っていった。もはや、取り返しのつくはずもない……。安酒の瓶を手に、俊夫はふらふらと市井しせいをさまよい歩いた。


 これから俺は……。





 橋の上に、女性が立っていた。見覚えのある顔……明子だ。

 外套に身を包み、月明かりに照らされた彼女の顔は真剣そうにも見え、しかしまた、うつろなようにも思えた。




 対象をしっかり見据みすえたい、

 けれど、どう見ればいいのかわからない。


 信じたい、

 でも、その実体が何かをいまだ知らない。



 あまりに強く真面目で、

 あまりにもろく、はかない……。





「おいっ」



 明子の足が今にも崩れそうな気がして、俊夫は思わず駆け寄り、その身体を支えた。


 このときまで、俊夫は、人間の情熱というようなものを、わりに、甘く見ていたのだ……









 ーー 俊夫さん……


 ーー ……アマノだ。


 ーー ……え……


 ーー 俺とお前とではない。アマノとステラだ。いや……、

  ステラの恋人とステラ、アマノの恋人とアマノ……

  とが、今、ここにいるわけだ。


 ーー 私の

 ーー 違う。

  ……いいか、ステラ。喪服を着た、ステラ。俺を……、アマノを愛する人に見立てて、思いをぶつけるんだ。強く、強く、そう……、強く……


 ーー 俊夫さん

 ーー 違う。俺は……

  俺を俺だと思うな。

  ……そうだ、もっと強く、もっと……俺を……













 明るく穏やかな光の中に、二人はいた。風に吹かれて……


 ……冷たい。でも、暖かい……。



「あのときもちょうど、こんくらいの時季じゃったのう、明子」

「ええ、本当に」

「旅まわりは、最高じゃった。それでお前は、いちやく時の人になってしもうて……大変じゃったのう、明子……」



 祖父の顔がゆがんで見えるのは、彼の涙のせいか。私自身の目が潤んでいるのか。それとも……。



「あの印象的な月の光が、わしとお前を引き合わせてくだされた。わしとお前の情熱を、重ね合わせてくだされた。……そうして今……、今、また……、わしは、夢を見さしてもろうとる……」



 私は慌ててハンカチを取り出し、祖父に差し出す。


 祖父は笑って、受け取ってくれた。「こりゃ、ありがたい、明子……」




 ハンカチは、祖父が握っている。

 私は、ぼやけた両目に月の光を目一杯めいっぱい溢れさせて、それから祖父のそでを取り、顔をうずめた。

















 そんな話を聞かされた。

 聞かされたというか、聞き出したというか……。



 今夜は曇っていて、月は見えない。


「朱美のやつ……」


 そう言いながらも彼は、心のどこかで、今夜も月の現れるのを待っていた……。










以下に示した二箇所は、岸田國士の戯曲『チロルの秋』からの引用です。

青空文庫を参照しました。

原文旧仮名です。





アマノ   あなたが愛していらっしゃる男が、僕だとします。

ステラ   あなたが愛しておいでになる女が、あたし……?

アマノ   僕とあなたとではない……

 あなたの恋人と、あなた……

 僕の恋人と、僕……

 とが、今、ここにいるわけです。

ステラ  (笑いながら)それから……?




エリザ  明日はあなたがおたち、明後日はアマノさん……。

 そうすると……

 あとは、此のホテルも空っぽ……

     沈黙

ステラ  汽車の時間はわかって。

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― 新着の感想 ―
[一言] ドビュッシーのベルガマスク組曲「月の光」が確かに聴こえてくるようでした。 幻想的で、叙情的で……。 この作品は、私にとっては、恋愛もの・ヒューマンドラマというより純文学に値する作品だと感じま…
[良い点] 劇中劇、を演じている敏夫と明子。の、回想。 『チロルの秋』という演目を演じた二人と、亡き恋人を孫に重ね合わせる祖父の姿。朱美の恋人が浮気を嗅ぎ取るくらいには、二人は確かに強く恋人同士を演じ…
[一言] 幻想的な雰囲気ですね。確かに「月の光」が頭の中に流れてきました。 「月の光」はドビュッシーの中でも特に好きな一曲です。ベルガマスク組曲を通して聴くとなおのこと引き立ちます。 もし文学に印象主…
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