第8話 西郷登場
激高に任せて、高杉は近場にあった大き目の湯飲みを投げようと高く振りかぶる。闘争心溢れ、それが誰の湯飲みか判別つかずにいた。
「高杉さん。その湯飲み、西郷さんのですよ」
振りかぶっていた動きはピタリと止んだ。
高杉や坂本がひと目置く西郷の名で、誰に対しても人当たりがいい沢村は怒りの収まらない高杉を押さえ込む。
止まっている姿勢のまま、歩いて近づいてくる沢村を一瞥した。
周囲にいる部下たちはホッとひと安心する。
ギラギラしている高杉に対して、穏健な仕草を崩さない沢村。
手に持っていた湯飲みをゆっくりとした動作で沢村が取り上げる。その間、高杉は何の抵抗も示さない。
この湯飲みは西郷が一番気に入ったもので、大切に取り扱っていたことは内部で働く誰もが知っていることだった。
ようやく止めることに必死になっていた部下たちもその湯飲みの存在に気づく。
もし割れていたらと驚愕に震えていた。
もちろん知っている高杉も、さすがに投げられずに固まっていた。
「もうその辺にしたら、どうですか?」
「……」
「これだけ暴れたのですから、少しは気が済んだでしょ? もう少し自分の身体を労わってください、高杉さん」
(どいつも、こいつも身体のことばかり)
穏やかなに微笑む顔が余計に高杉の癇に障った。
自分の虚弱体質が実技試験の不合格につながっていたからだ。
「うるさい! ほっとけ。お前が口出すことじゃない」
「ですが……」
「どいつも、こいつも余計なことを言いやがって。関係ないだろうお前には。坂本さんのところでもいっていろ!」
机に散乱していた書類に手当たり次第、当たり散らすように投げ散らかした。
思わず、額に掌を置く沢村。
そして、部下や沢村の顔に直撃していった。
のほほんと傍観者を気取っていた坂本はプライドが高い高杉が気にしていることを口走るからだよと呟く。
笑っている坂本の前に、ひと際体格のいい西郷が姿を現わした。
高杉の部下たちが自分たちでは手に負えない状況と泣きついた結果、事態の収拾を行うために荒れ果てた場所に出向いてきたのである。
「いいのか。高杉を止めなくても?」
現れた西郷は丸坊主で、腹が大きく膨らんでいた。
三十四歳のわりにかなり年上に見られがちな顔をしていた。
温和な顔で、誰からも好かれている。
どうしてここにいるのかと穏やかな西郷を眺めていた。
まさか仕事に追われている西郷が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
「二人のことが、気になったのでな」
二人とは坂本と高杉を指していた。
一緒に扱われるのは心外という顔を滲ませている。
クスクスと子供じみた坂本を笑う西郷。
「同じようなものだろう? 駄々をこねるのは?」
「違います」
眉間にくっきりとしわが寄っている。
ただ、納得がいかないだけと主張した。
「同じことだよ、坂本」
納得していない様子に、さらに笑いが止まらない。
「違いますから」
「そういうことにするか」
「……」
高杉が暴れている件は、馬車馬のように動き回っている西郷の耳にまで届いていた。収まる気配がないので、忙しい仕事をやめてまでも自分の身体のことを気遣えない高杉を止めにきたのだ。
「沖田はすごいな」
「確かにそうですね」
最高点と最年少と言う記録に西郷は感嘆していた。
「できれば、私たちのところにほしかった人材だ」
残念がっている表情が顔からも窺える。
密かに優秀な沖田を手に入れようと西郷たちも動き回っていた。遠巻きに何度も勤王一派に入らないかと打診していた。だが、周囲の期待を裏切り、落ちこぼれ集団と揶揄されている深泉組にあっさりと決めてしまったのだった。
諦めきれずに交渉を続けていたが、その決意を動かすことができなかった。
その後の構想もしっかりとできていた。
S級ライセンスに合格している高杉とコンビを組ませようとしていたのである。
水と油と思われる組み合わせでも、使いようには面白い具合に相乗効果が出ると踏んでいた。
「狙った獲物に逃げられて残念でしたね」
西郷が思い描く構想を知っていた坂本は棒読みのようなセリフを吐いた。
(もし沖田がここに来ていたら、あれだけじゃ収まらないだろうな。分裂して、やっと備わってきつつある我らの力が半減なってしまう可能性だってある。西郷さんも、随分と思い切ったことを考えるな……)
「どうにかならないか? 坂本。お前の人脈を使って……」
「無理ですよ。そんなこと」
「お前ならできる」
強く断言され、うんざりしてしまう。
「条件を丸呑みするといったら、他のところをすべて切り捨てた男です。たぶん、以前から決めていたのでしょう。あの速さは」
「そう思うか、お前でも」
「はい」
「なかなか面白い男だよな」
「えぇ。いろいろな人間を笑顔で欺いた訳ですから」
執着している仕草から改めて沖田と言う存在がほしかったのかと感じる坂本であった。まさかこれほど入れ込んでいるとは思ってもみなかった。
多少の興味の対象でしかなかった沖田の存在。
坂本の中で、一体どれほどの男なのかと興味の具合が広がっていく。
(沖田宗司か……)
執拗に調べさせていた高杉同様に沖田に関する情報を別ルートで仕入れていた。さすがにすごいと称賛したものの、何を考えているのかわからない言動に得体のしれないものを感じ、どうも好きにはなれずにいた。
(まっすぐな高杉の方が馴染めるな)
こちら側に入ってこないでよかったという面も隠し切れない。
「あの頭脳、とてつもなくいい。あの剣の腕前もそうだし……」
いまだに諦めきれない目をしていた。
(西郷さん、しぶといところもあるからな)
「西郷さんがベタ褒めする沖田に会ってみたいですね」
「何だ。お前の中ではそんなに興味がなかったのか?」
意外と言う顔を見せる。
人当たりがいい坂本が気に入っているものかと思っていたのだ。
それが言葉の端で警戒していることを感じるのだった。
「まぁ。予測の範疇を超える言動が気に入らなかったもので……」
「確かに、何を考えているのか一切読めないところがあるが、考えようには面白いし、楽しみだったのだが? お前はそう思わなかったのか?」
少し間を置いてから坂本の口が開く。
「……面白く、楽しいだろうと思いましたが、……勘のようなもので、……距離を保っていた方が……」
歯切れの悪い答え方をした。
「珍しいな、お前がそう思うなんて」
さらに西郷の中で沖田への関心が増していく。
「会ってみたいと言う気持ちはありしたけどね。高杉とはまったく違うタイプのようですし、自分の目で確かめないと判断は尽きませんから」
豪快に西郷が笑い出した。
「人任せにはせずに、私もひと目、沖田に会ってみたい」
まっすぐに西郷に視線を注ぐ。
「だが、いずれ敵として会うだろうな。それがやや残念だ」
心底残念そうな西郷に坂本は小さく笑う。
「入れ込んでいますね」
「何でだと思う?」
楽しげな眼差しを坂本に投げかけた。
「さぁ?」
「沖田には人を魅了する何かがある」
「確かにそれは言えますね」
「それは坂本、お前にも通じるところだ」
「?」
「似ていると思わないか? そういう面が?」
「西郷さんに褒めていただき光栄ですね。俺に人を魅了するものがあるなんて」
「ないとは言わせないぞ。お前を慕って人が集まってくる。それを大切にしろ、坂本。それがお前の最大の武器であり、宝だ」
「はい」
ありがたい言葉に真摯に返事をした。
「武器はもう一つあるな。誰とでも上手く付き合っていける人徳だ」
「……」
「武市と、もっと上手く渡ってくれないか?」
武市と言う響きに硬直する。
「……」
段々と鋭さが増していく視線。
中枢の幹部である武市の話題で、これまで楽しげに話していた坂本の顔は一変し、不機嫌さが如実に露わになった。面白く、楽しく、生きると言うことを自称しているお気楽な坂本にしては珍しい表情だ。
話題に出された武市は、西郷よりは立場が低く、同じように中枢を担う幹部坂本よりは上の立場に立っている。
二人は親戚筋の間柄にもかかわらず、人間関係は非常に悪かった。それは自分の理想のためなら他人を巻き込んでまで強引な手法を取る武市のやり方が、どうしてもできるだけ平和的解決を強く望む坂本は納得できずにいた。
顔を合わせるたびに二人は口論が絶えない。
それを仲裁する役割が西郷だった。
重厚な西郷にさすがの武市も逆らえなかった。
手段を選ばない武市と、一本気で正々堂々戦いを望む坂本ではそりが合わない。
「武市さんの行為と見て見ぬ振りをしろと……」
温厚な顔を崩さない西郷に低い声音で噛みついた。
沢村が持ってきたファイルに、武市が起こした問題視されている行為について、処分なしと記載されていたのである。手段を選ばない武市は何度も処分対象として持ち上がっていた。
そのたびに西郷などがかばって問題なしとなっていた。
何度も坂本は抗議したが、手腕を認められている武市が処分されることはなかった。
「いやか?」
「いやです」
「困ったものだ」
「関係ない庶民を巻き込んで、多くの犠牲が出ました……」
語り始めた内容に耳を済ませ、聞き入っている。
「女子供まで亡くなっているんですよ。もっと違ったやり方があったはずです。それなのに何も考えずに強引に……。武市さんのやり方は性急すぎます。もっと時間をかけて、じっくりと見定めてからでも遅くはないはずです」
閉じていた瞳が見開き、納得いっていない坂本を捉えた。
不服のある坂本に同意見だった。
「確かにお前の言う通り、武市は性急すぎる面がある。それは認めよう。それに今回は多くの犠牲が出てしまった。私もそれについては心を痛めている」
重厚な顔に悲傷感が浮かび上がっている。
「なら、あれは甘過ぎ……」
「坂本。武市は私たちにとって必要な人間だ」
揺らがない眼差しで、ピシャリと言い放った。
「……」
「そのことはお前自身、わかっているだろう?」
上司に対しても自分の意見をはっきり言い、物怖じしない態度を西郷は高く買っている面でもあり、好きな部分でもあった。だが、それでは組織が成り立たない。
強情に逆らおうとしている坂本に我慢してくれと目で訴えている。
問題が多い武市は、勤王一派に必要な人間だと坂本も感じる面は確かにあった。
どうしても非情なことを繰り返す武市のやり方が許せなかった。
「……やり方が汚すぎます」
か細い声で反抗した。
「坂本」
「私は納得できません」
互いに曲げられない。
上がくだした答えに納得できずに、武市に対する処分内容がおかしいと坂本は何度も上申書を提出していた。今回の件も坂本は上申書を提出するだろうと西郷は思い、それを思いとどまらせるために足を運んだのだった。
かばうのにも難しいところまで来ていたのである。
優秀な人材武市を西郷は失いたくないと思っていたし、そう思う幹部たちも存在していた。
「私は納得しろとは言っていない。これは決定事項だ、坂本」
ただ、ずっと坂本を凝視している。
「「……」」
思わず坂本はそっぽを向き、この戦線から離脱してしまう。
ふと、西郷の口元が緩んだ。
子供じみた真似をする坂本を気にいっていた。
「どうだ? お前の仕事の方は?」
「……」
硬く口を閉ざしたままだ。
それでも根気よく声をかける。
「沢村たちを困らせていないか?」
「……」
「坂本のことだから、やるところはやっていると思うが?」
「……」
「仕事、順調に進んでいるのか?」
「……はい。地方の情報は集まりつつあります。それに天帝一族の方々も、こちら側に味方するようになっています」
小さく答えるが、目を合わせようとはしない。
「そうか。ご苦労様」
徳川宗家に治世を奪われた天帝一族は表立って、対立することができない。それは徳川宗家から庇護されているからだ。徳川宗家がなくなれば、天帝一族も消滅してしまう運命にあったのである。
その徳川宗家を揺るがす事態が起こりつつあった。
「やっと、重い腰を上げてくれるか。長かったな」
コクリと坂本が頷く。
西郷の言葉には重みがあった。
勤王一派は二百年前から細々と活動してきた組織だった。何度もにが水を飲まされてきた経緯があるのだ。
「この目で見たいものだな。頑張ろうではないか、坂本」
「そうですね」
読んでいただき、ありがとうございます。




