第76話 離れたくない
暗闇から、うっすらと、空が赤く染まろうとする時刻。
ベッドの上で、虚ろな瞳をしながら、近藤がキセルを吹かせている。
その姿は、何も、衣服を身につけていない。
吐く煙が、黙々と、天井に上がっていく。
ぼんやりと、眺めているだけだ。
その光景を、同じように、何も衣服を身につけていない芹沢が眺めていた。
もう一度、近藤がキセルを吹かせたのだ。
「……大丈夫なのですか?」
心配げな眼差しを注ぎ、近藤が芹沢のことを見上げている。
ここは、都の中心から離れたホテルの一室だった。
この場所で、何度も、芹沢との逢瀬を重ねていた。
誰にも、知られずにだ。
「……ああ。帰りが遅いから、先に寝ているように、言ってある」
何でもないような顔を、覗かせていた。
芹沢の妻のことを、口に出したにもかかわらずだ。
(きっと、奥様は、寝ないで待っているだろうな)
ギシリと、心が痛む。
その脳裏に、何度か逢っている、芹沢の妻の祥愛の姿を掠めていた。
とても気遣いのできる人だった。
ただ、身体が、病弱以外は。
痛むが、この幸せを、まだ手放したくないと思う近藤だった。
「相変わらず、キセルは、した時だけだな」
小さく、笑っている芹沢。
「……普段は、身体に悪いので」
クスクスと、さらに笑い出す。
それに対し、ムッとした顔を、近藤が滲ませていた。
いつでも、どこでも、好きな時に、芹沢はキセルを吹かせていたのである。
ただ唯一、キセルを吹かせない場所があった。
それは、妻がいる前ではだ。
「……あなたが教えたのですよ、これは」
手にしていたキセルを、若干持ち上げる。
美味しそうに吹かせている姿に、興味を憶え、キセルの味を憶えたのだ。
何も知らない近藤に、教え込んだのは芹沢だった。
ふっくらとしている頬が、蠱惑的に笑っている。
「そうだったか?」
わざとらしい否定に、ジト目で眺めていた。
「そうです」
「……隊長、近藤隊長」
深い思考に囚われ、呼びかけにより、現実に舞い戻っていった。
不意に、自分を呼んでいた、眉間にしわを寄せている山南の顔を、虚を突いた顔で凝視していたのである。
「大丈夫ですか? 近藤隊長」
(昔を、思い返しているなんて……。やれやれ山南さんも、随分と、怒っているようだな、きっと、また芹沢隊長が、何か仕出かしたのだろうな)
軽く息を吐き、気持ちを落ち着かせながら、いつもの表情になっていく。
「すいません。それで、何ですか? 山南さん」
連日の上層部へ、頭を下げある行脚は、一応、終わりを見せ、溜まっている事務処理に追われていたのである。
上層部に赴いている際の事務処理は、大まか土方に任せていた。
だが、できない部分もあり、それらの作業に忙殺されていたのだ。
キリがいいところで、息抜きをしていたのである。
そして、安らいでいるひと時に、昔の邂逅をしていた。
顔を顰めている山南を、徐に見上げている。
なかなか、口が開かない。
視線をそのままで、意識だけを山南の背後に傾ける。
重傷を負った井上が、待機部屋に戻り、賑わいを増していた。
(井上も戻って、とりあえず、ひと安心だな。だが、無理をさせないようにしないと。多少、原田たちも気遣いだろうが、夢中になり始めると、忘れてしまうたちだからな)
「……商家を、また潰しましたよ」
山南の呟きに、意識を戻した。
主語がなくても、誰がやったのか、皆目検討がついていた。
苦々しい顔を、滲ませている。
僅かに、近藤の顔も、眉を潜めていたのだった。
けれど、すぐさま、いつもの表情になっている。
「……そうですか」
平坦な声音で、何の感情も、込められていない。
ただ、握り潰そうと、巡らせているだけだ。
「容赦なく、主人や働いている者にも、大きな傷を、負わせたようです」
「そうですか」
それ以外に、答えようがない。
上層部に頭を下げし続け、疲れていたのだ。
普段だったら、詳しい状況や、被害者側の傷の具合も、確かめたはずなのに、そうしたことを口に出せないほど、精神的に追い詰められていた。
被害者の様子を訊ねない姿勢に、山南の心が激しく暴れている。
二人が話している内容は、同じ部屋にいる隊員たちにも、筒抜け状態となっていたのだ。彼らも、主語がなくても、芹沢の仕業であることは認識していたのだった。
そのため、原田班や永倉班では、先日、芹沢に痛めつけられたこともあり、それぞれ顔を顰めている。
安富たちも、渋面しつつも、またですかと呟いていた。
話を耳にしていた沖田も、しょうがないですねと、首を竦めている。
芹沢が問題を起こすのは、日常茶飯事だった。
それを、常に問い質しているのは、山南一人だったのである。
鋭い眼光が、平然としている近藤を、射抜いていた。
「……いつまで、芹沢隊長を、野放しにしておくつもりですか」
低い声音に、必死に自分の感情を抑えようとするのを感じていた。
(……相当、山南さんは、怒っているな)
「別に……」
近藤の言葉を遮る。
「いつも、揉み消しているのは、承知しています。けれど、限度があります」
「……」
何も言い返せない。
実際に、何度も近藤の手により、揉み消してきたからだ。
揉み消しに、上司である小栗指揮官も、加わっていた。
深泉組に、影響がないように数多くの悪行を、備に揉み消していたのだ。
先日、訓練場で、原田班と永倉班が、芹沢から受けた、稽古と名のついた痛めつけは、すでに揉み消されていたのである。二つの班は、それに対し、不平を唱えていないが、芹沢に対してだけは、怨み節を漏らしていたのだった。
「いつまで続ける、おつもりですか?」
「……」
咎めるよう視線に、動じない。
ただ、黙って受けていた。
待機部屋は、静寂に包まれている。
誰もが、興味を持っていたからだ。
二人の話に。
そして、いつも、ここにいる土方の姿がない。
仕事で、席を外していた。
揺るがない、意思が込められた双眸を見つめる。
(……いつまで?)
ふと、自分は、芹沢の尻拭いを、いつまでするのか、抱いたことがないことに気づく。
そんな自分の姿に、微かに口角が上がってしまった。
顔を僅かに伏せていたので、山南は気づかない。
真摯に、近藤が答えるのを、我慢強く待っていたのだ。
(いつまで、するんだろうな……。どう考えても、最後までするだろうな。私はそういった生き物だから……)
今度は、顔を上げていたので、自嘲する笑みが見えてしまった。
怪訝そうな顔を、山南が覗かせている。
笑っていることが、理解できないのだ。
「近藤隊長……?」
「……さぁ、わかりません」
潔く、揉み消していることを認めた。
否定してくると、読んでいたのだ。
だが、答えは、あっさりと認めたのだった。
深い眉間のしわができる。
「ただ、深泉組に、芹沢隊長は、必要な方だと思っています」
「……」
「何か、芹沢隊長なりの行動なのでしょう」
弁明しているが、山南の心に、何一つ響かない。
どう考えても、考えある行動に見えないからだ。
聞き耳を立てている隊員たちにも言えた。
そんな面々に、苦笑しつつも、近藤は意見を曲げようとしない。
「あなたは、芹沢隊長のかつての部下だから、いいように考えたいだけなのだ。旗から見ると、芹沢隊長の行動は、理解に苦しむ」
「……私も、理解に苦しみますよ」
素直に、自分の気持ちを吐露した。
(あの人の考えを読むなんて、きっと誰にもできない。そう言う人だから……)
「だったら、なぜ?」
ジト目で、睨んでいる山南だった。
「ただ、必要だと、思うからです」
「……」
どうしても、近藤の思考を理解できない。
それは聞いている隊員たちも、同じだ。
ただ一人、沖田だけが、僅かに首を傾げ、口の端を上げている。
「……近藤隊長たちは、今後も、揉み消すのですね」
忌々しげな顔で、尋ねた。
「そう……ですね。必要とあらば」
(どう足掻いても、自分は芹沢班長から逃れられない。……いや。したくないのだ。あの人の言葉で言えば。……きっと、冷めた目をされても、離れたくなかった、あの頃の自分のように)
苦笑している姿に、近藤の机を、ガンと一つ拳を叩きつけ、山南が自分の席に戻っていってしまった。
その後ろ姿を、平然とした顔で眺めている。
読んでいただき、ありがとうございます。




