第37話 武市vs坂本
勤皇一派の拠点の一つであるレンガ屋敷では、途轍もないほどの激震が走っていたのである。
坂本の片腕でもある沢村と、期待されている若手の一人である久坂弦惴が、二人掛かりで、手がつけられないほど、暴れている坂本を押さえ込もうと必死だ。
暴れている坂本に対し、誰も止めようとする人間が少なかった。
誰も坂本が暴れるのは、しょうがないことだと思っていたからである。
それに暴れてもやむなしと抱いていたのだ。
けれど、そのままにして置けるはずもなく、坂本と一番親しくしている二人が、率先して止めに掛かっていた。
押さえ込まれている当の坂本は、目の前で涼しい顔をしている武市を、物凄い形相で睨んでいる。
敵意むき出しの双眸に、視線を合わせるのは面倒だと言う態度を崩さない。
「坂本さん。冷静に話し合いましょう」
「沢村君の言う通りです。ここはひと先ず、落ち着きましょう」
「何を仕出かしたのかわかっているのか!」
「「坂本さん!」」
「聞いているか!」
「「落ち着いてください」」
頭に血が昇りきっている坂本に、聞く耳を持っていない。
それほどまでに、目の前にいる武市に対し、激高していたのである。
いつも激高している高杉に対しては、通常運転だと静観している者が多い中、人当たりがいい坂本が、ここまで怒りを爆発させる姿に、誰しもが戦々恐々となっていた。
坂本をそうまでさせる相手に、誰もが不満を抱くが、上層部の人間なので、誰も口に出すことができなかった。
勤皇一派の中でも、好き勝手する武市の評判は、すこぶる悪かったのである。
噛み付かれている武市は、無断で勤皇一派に属する影の部隊を動かした。その部隊を動かすには、幹部たちの了承が必要だったにもかかわらず、独断で動かしたのだった。
それが勤皇一派の上層部に知れ渡り、このような事態に陥ったのだ。
影の部隊の主な仕事は暗殺だった。
だから、その部隊を動かす際は、幹部たちの承認が必要だった。それをすっ飛ばした武市の行動をよしとはせず、けれど、上層部の人間である武市にものが言えずに、同じような立場であり、武市を知っている坂本が怒って暴れていたのである。
誰もが胸の中ではスカッとしていた。
言葉や態度では示さないが。
深泉組の山南班が発見した水死体は、武市が影の部隊を使って暗殺したのだった。
「無断で使ったことは悪いとは思っていますが、仕事を急いでいたので。だから、事後報告となってしまったのです。それと、あなたに殴られる憶えはないと思いますが?」
殴られたことに対し、理不尽さを滲み出す。
悪気を一切感じられない武市の振舞いに、ますます周囲にいる者たちの眉間のしわが濃くなっていく。
「まだ、これから人と会う約束も、あると言うのに」
やれやれと武市が嘆息を零す。
そんな態度に、坂本を必死に押さえ込んでいる沢村と久坂の表情にも、納得している顔をしていない。
すでに武市は坂本によって、一発頬を殴られていたのである。
「それも、顔を見るなり、殴るとは。随分と暴力的ですね」
うじ虫を見るような目で、青筋を立てている坂本を見据えている。
坂本が嫌うように、武市もまた坂本のことを嫌っていた。
武市の秘書である江藤沙良が、野蛮人と言う眼差しで、暴れている坂本に対して、冷ややかに注いでいる。
武市のグループは、勤皇一派の中でも独自の路線で敬遠されていた。
厚みのある唇で、江藤が声は発せずに呟く。
ケダモノと。
ムッと沢村が睨む。
そんな沢村を気にせず、江藤は自分が持っていたハンカチを、殴られて血が出ている武市に渡した。
心配している江藤は若いながら、その素質を買われ、秘書になり、何人かいる武市の愛人の一人だった。
受け取ったハンカチで、口元から出ている血を拭う。
ハンカチについている血を眺めながら、薄く笑っていた。
極々僅かだが、ハンカチに血がついている。
「これは大問題です。いきなりの暴力沙汰なんて。上層部に取り上げさせて貰います」
余裕な態度に、ますます周囲から反感を買う武市。
周囲がどう思うと、自分のスタンスを崩さない。
自分の道を突き進んでいったのである。
「何が大問題だ。それよりも、お前の勝手な振舞いの方が問題だろうが」
怒りに任せながら、坂本が吐き捨てた。
怒鳴られようとも、武市の冷静さは失われていない。
上層部による武市の処罰は、今後は必ず承諾を得てから使うようにと言うことだった。大きな処罰が下ることがなかったのである。
その理不尽さに、坂本が怒りを爆発させる要因でもあったのだ。
「振舞い? 言ったはずですが? 事後報告ですが、半数の幹部たちは認めてくれました。私の行動に」
「俺は、納得していない」
「それは、あなたの意見でしょう」
「ああ、そうだ」
押さえている二人を押しのけて、武市に向かって、突っ込んでいこうとするが、押さえ込んでいる二人も必死だった。これ以上坂本が暴れてしまったら、今度は坂本が処罰の対象になってしまう恐れがあったためだ。
「やめてください、坂本さん」
「そうです、坂本さん」
「うるさい、うるさい、うるさい」
逆鱗がいっこうにやまない坂本に、ほとほと脱力してしまいそうになる。
だが、ここで力を緩めることができない。
止めている二人の脳裏を掠めるのは、体力がない高杉の方がラクだなと言う思い、そして、体力が有り余っている坂本の方が、その分だけ厄介だった。
大変ねと言う眼差しを送っている江藤に対し、物言いたい気持ちもある二人だが、先ずは暴れている坂本を落ち着かせることが、先決とグッと我慢している。
「少し冷静になってくださいよ。変なところが、頭でっかちなんだから」
ついつい沢村が愚痴を零した。
そんなことは、剥きになっている坂本の耳に入っていない。
「離せ! こいつに、一発殴らせろ」
「すでに、一発殴っています」
すかさず、沢村が突っ込む。
「もう一発だ」
「ダメです。坂本さん」
「離せ、沢村」
「離しませんよ。殴ることをやめるまでは」
「うるさい。俺は殴ると言ったら、こいつを殴るんだ」
「ダメです」
怒りで我を忘れている坂本が、可愛がっている沢村のことを、鋭い眼光で見る。けれど、怯まずに、坂本に凛とした強い意志を示す。
押さえ込んでいる久坂が、飄々としている武市に話しかける。
だが、押さえ込んでいる力は弱めずにだ。
「武市さん。今回の行動は、勤皇一派に対する裏切り行為だと考えます」
「裏切り?」
微かに、武市の口角が上がっている。
(若いな。何もわかっていない。坂本の傍にいるものは、現実を見ようとはしない)
正論をぶつけてきた久坂に、好戦的に嘲り笑った。
そんな態度にも、久坂は冷静に話を進める。
「お金を貰って、人を切るなんて。私たちが掲げている理想を傷つける行為です」
はっきりと言い募った。
武市の表情は、一切変わらない。
「久坂、もっと言え」
坂本がまくし立てた。
逆に青い、青すぎると、首を竦めている。
山南班が発見した水死体は、商人から商売敵を殺してくれと依頼されて請け負った仕事だった。そういった仕事もこなして、勤皇一派の資金集めなどを行っていた。
汚い真似をする武市を、どうしても坂本は許せなかったのである。
それは、ここにいるほとんどが抱いている思いだった。
「勤皇一派を汚して!」
怒声を上げる坂本。
それは誰もが抱いて、言えない思いだった。
秘書で愛人である江藤が鋭い眼光で睨む。
武市に成り代わり、口を開く。
「お金は降ってくる訳じゃありません。武市さんは、必死に資金集めに奔走しているんじゃありませんか。それをあなた方は……、武市さんを愚弄する前に、湯水のように、お金を使うあなた方に、文句を言う筋合いはありません」
緊迫する空気が流れる。
本質を突かれた。
資金はどこからともなく、湧く訳じゃないからだ。
お金を集める必要性もあった。
「だからと言って、非道な真似をしてもいいのか。な、江藤」
男とお金のことしか、頭にない江藤に向かって、どすのきいた声で坂本が問い質した。
江藤自身、勤皇一派の理想に共感して入った訳じゃない。
武市と言う男と、お金に惹かれて、勤皇一派に入ったに過ぎなかった。
「理想のためにはお金は必要です。坂本さんのように、甘いことだけ言っているだけの人はいいですよね。理想論だけ、解いているだけでしょ。でも、武市さんは違います。その理想を実行するために、必要不可欠な資金を、必死になって、かき集めているのですから。そして、自分が信じている、理想を叶えようとしているのです。あなたにできますか? 資金集め」
「しているだろう」
「微々たる金額です。坂本さんの場合」
尊敬する坂本を、愚弄する江藤のことが面白くない沢村と久坂。
「何」
「その点、武市さんは多額な金額を集めています」
「汚いお金だ」
「えぇ。汚いですよ。ですが、何がおかしいですか」
自ら汚いと認める江藤。
「薬を売って、集めるお金も汚いと思うのですが」
「……」
「綺麗なお金なんて、早々ないものですよ。結局のところ、坂本さんが集めているお金だって、向こう側としたら、何かしらの見返りを期待しているのですから」
「……」
「そうじゃありませんか、坂本さん」
小バカにするように、江藤が小さく笑っている。
相手側も何かしらの見返りを期待していると言うのは、坂本自身もわかっていた。
唸りながらも、言い返せない坂本。
「江藤さん。あなたと言うこともわかりますが、その言い方は坂本さんに対して、失礼じゃありませんか」
江藤の言動に黙って聞いていた沢村が、腹に据えかね、とうとう口を開くのだ。
「失礼……ですか? 真実を述べただけだと思うのですが? それがいけませんでしたか?」
首を傾げ、挑戦的な眼差しを沢村に投げかけた。
可愛らしい顔に似つかぬ、眉間に深いしわが刻まれる。
「元をただせば、武市さんがあんな真似をしなければ、こんなことにはならなかったと思うのですが?」
「そうですか。でも、あんな真似をしたから、莫大な資金が入ってきたのではないのですか? これから思い存分、活動できると思うのですが?」
にこやかに言い切る江藤。
それがますます憎らしく感じる沢村。
「活動ができても、ついてきてくれる人がいなければ、成り立ちません」
「今度は人ですか?」
「えぇ。人です。あんな真似をしていたら、多くの人は私たちについてきてくれません」
「つくように、すればいいのです」
「どうやってです」
「力ずくでも」
「江藤さん!」
妖しげな視線を江藤が注いだ。
沢村の反論に、言い返し、態度を改めようとはしない。
ミイラ取りがミイラになったように、沢村は江藤に対し、徐々に腹を立てていった。
「沢村。お前が腹を立てて、どうする?」
闘志を燃やしている姿に、久坂が呆れながら窘めた。
「黙ってください。久坂」
「落ち着け、沢村」
止まりそうもない沢村に、頭を抱え込みたくなる事態になっていく。
(自分たちが何をしているのか、わかっているのか? まずは暴れている坂本さんを止めることだろう。お前まで、参戦して、どうするつもりだ)
「いいえ。きっちり江藤さんとは話をつけます」
「そう。それは楽しみね」
「沢村」
憔悴した目で、いきり立つ沢村を見つめる。
その傍らでは、鋭利な眼光で、微かに笑みを零している武市を坂本が睨んでいた。
アンティークな調度品で飾られ、落ち着きの趣がある部屋を演出してあるにもかかわらず、悶々とした険悪なムードが部屋中に流れていたのである。
その暗雲が立ち込める空気を、一新させようと、久坂が武市に打開策を持ちかける。
「武市さん」
「何かね、久坂」
「とりあえず、江藤さんを黙らせてください」
ひとまず久坂の意見を飲むことにし、蠱惑的な笑みを漏らし、この状況を面白がっている江藤を黙るように命じる。すると、瞬く間に武市の後ろへ下がっていった。
それを見計らってから、熱を帯びている沢村に、黙るようにと目配せする。
「……」
頬が僅かに朱に染まっている。
ようやく、自分のことを振り返って、止めに入ったはずが、自らも触発されて、剥きになっていたことに気づいたのだった。
「久坂。すいません」
「わからばいい」
大元をたたなければ、第二、第三の沢村が出るに違いないと、久坂は思いもよらぬ行動に出る。
持っていたハンカチを、唐突に坂本の口の中へ押し込んだのだ。
足りないとばかりに、沢村にもハンカチを出させ、それも口の中へ詰め込んだのだった。
突拍子もない行動に、誰もが唖然としている。
口を塞がれた坂本を、哀れな眼差しで沢村が眺めていた。
ひと仕事終えたと言う表情の久坂に、武市が声をかける。
「久坂。面白いことしますね」
「こうでもしないと、黙りませんから」
「とても尊敬している先輩にしませんよ」
「そうですか。奇抜な坂本さんに、私も看過されたんでしょう」
目をパチパチさせ、沢村はもがく坂本を静観しているだけだ。
「*+×#&」
何か、抗議し叫んでいるが、一切何を言っているのかわからない。
(何する、久坂。口に入っているものを取れ!)
「これで、少しは静かになりました」
感心する眼差しで、涼しい顔の久坂を見ている。
誰も考え付かない方法で、坂本を黙らせた久坂に賞賛の嵐だ。
「武市さんと話をしたかったので。坂本さんには少々我慢していただきます」
「少々ですか」
クスクスと、武市が愉快そうに笑っている。
そんな仕草に、いい気分はしない。
尊敬する先輩に対し、久坂自身、こんな手荒な真似をしたくなかった。
こうでもしないと、ゆっくりと話せないと思って、使った手段に過ぎない。
まっすぐに視線の先は、優秀な手腕を発揮する武市を捉えている。けれど、まだ坂本が暴れているので、押さえ込んでいる手を緩めなかった。
「今回のこと、私たちは許せません。影の部隊を使う際は、幹部の了承が必要なのは幹部である武市さんも、ご存知のはず。なぜ、その規律を守らなかったのですか? まず、それについての解答をお願いします」
真摯に久坂が問い出してくるので、それに対する返礼として、真摯に答えていく。
「仕事が急だったので、了承を得る時間がなかったと言うのが本音ですね。今回の仕事は何せ多額だったので、どうしても断りたくなかったのです。この金額が入れば、いろいろと動けますので。そう思いませんか?」
正当化している武市の態度に、口を塞がれても、暴れて自分を突き通す坂本だった。
軽く息を吐きながら、久坂が口を開く。
「確かに。これまで保留となっていたことも動かすことができますね」
「でしょう」
「ですが、私たちは暗殺団を組織している訳ではありません」
頭が固いと、武市が肩を竦める。
「国の組織を変えようとしているのに、まだ、青臭いことを言うのですか。国を変えようとすれば、死人が出るのは当たり前です。そうして、時代が作られてきたのです。影の部隊は暗殺を生業としているところですよ。昔からね。そうした部隊があったからこそ、私たちの活動ができたのではないでしょうか」
正論を言う武市に、負けじに久坂も言葉をくり出していく。
「……確かに。敵を討ってきました。ですが、今回の件に関しては、まったく関係ない人です」
「確かに。ですが、支援してくれる人が、その人がいると、少し邪魔と言うのですから、お手伝いしただけですよ」
「でも、するべきではなかった」
「意見が合いませんね」
「そこまでだ」
ひと際大きな声音で、武市と久坂の話し合いに割り込む。
一斉に声の主に視線を傾けると、仁王像のような西郷が立っていたのだ。
「西郷さん」
驚く久坂を尻目に、西郷が武市に近づいていく。
「二人とも、そこまでだ」
ずっと二人のやり取りを眺め、静観していたのである。
静かに歩いているが、西郷には存在感があった。
西郷の登場によって、久坂の高まりつつあった熱が沈下していく。
冷静になっていく中で、自分の行動を分析し、まだまだだなと行動を改めていた。
西郷が冷静に戻った久坂に視線を注ぐ。
「久坂。面白いやり方で、坂本を黙らせたな。今度、私も使ってみよう」
いたずらっぽい顔で、ハンカチを口に入れられている奇妙な坂本に視線を促した。
(こんな目は二度とごめんだ! 西郷さん、やったら許さないからな)
拒否感を滲ませる坂本に、誰もがクスクスと笑っている。
「やめてください、西郷さん」
ばつが悪そうな表情を、久坂が浮かべている。
肩を軽く叩き、後は任せろとばかりに豪快に西郷が笑った。
コクリと頷く久坂。
沢村に視線を移すと、久坂同様に頷いてみせた。
「武市。私の部屋に」
目で先に行けと目配せし、促した。そして、気性の荒い暴れ馬のような坂本に話しかける。
「命令だ。お前はここでおとなしくしていろ」
納得できない坂本が、呻き声で抗議する。
目を丸くし、おどけるような仕草で西郷が口にする。
「何を言っているのか、わからん。……これは本当にいい案だ。坂本を黙らせるには、口に詰め物を押し込む。うん。上手い手だ」
呻き声の抗議の声がやまない。
どちらかと言えば、さらに怒っているような感じだ。
誰も坂本の呻き声を、聞き分けられるようになっていたのである。
「江藤、お前も残れ」
「ま……」
「江藤」
「……わかりました」
しかめ面の西郷に、それ以上の抗議ができるはずもなく、渋々と言った顔で了承した。
そして、最後にもう一度、西郷は坂本に視線を投げかける。
「我慢しろ。高杉みたいに、暴れるな。悪酔いしない程度に、酒は飲んでもいいぞ。じゃ、な」
呻き声を上げる坂本を無視し、武市と共に自分の部屋へと戻っていたのである。
読んでいただき、ありがとうございます。




