第182話
ある程度、目の前にあった仕事に、坂本は終わりが見えかかっていた。
大きく、背伸びをしている。
食べること、飲むこともしないで、物凄い集中力で、仕事をこなしていたのだ。
仕事の処理能力が高いが、めったに、その能力を発揮することがない。
いつの間にか、周囲の人が減っていることに気づく。
近くに席があった者たちも、仕事に戻り、通常の仕事を終わらせ、岐路についていたのだった。
そうした状況にも、目もくれなかったのだ。
「もう、こんな時間か……」
寝静まる頃まで、時間を忘れ、仕事に向き合っていた。
それまで感じてなかった疲れが、急激に、頭や身体を襲ってくる。
「……疲れた」
身体を動かし始める坂本。
視界を捉えているのは、山のように積まれた、書類の山だ。
「竜魔。元気していたか?」
朗らかな表情を浮かべながら、中岡進太朗が近づいてくる。
坂本の友人で、このところ外の仕事が忙しく、アジトに顔を出すことが少なくなっていた。
目を丸くしている坂本。
まさか、戻ってくるとは、思ってもいなかった。
彼の忙しさを、承知していたからだった。
「久しぶりだな。中岡」
気の置ける友人の顔を見て、先ほどの疲れが、あっという間に、どこかに飛んでしまっていたのだ。
近くにあった椅子を動かし、坂本の隣に当たり前のように、中岡が腰掛けている。
「たまには、顔を出せ」
砕けた口調で、不満を述べる坂本だった。
このところ、アジトに顔を出すことが、少なくなっていたのである。
用事がある時は、部下を寄越していた。
「俺だって、たまには帰ってきているぞ。帰ってきても、いないのは、竜魔の方だろう?」
「そうか?」
首を傾げている坂本。
アジトを、頻繁に抜け出している自覚がない。
胡乱げな眼差しを、中岡が注いでいた。
報告の数回に一回は、中岡も、アジトに顔を出していたのだ。
そのたびに、アジトを勝手に、抜け出していたのだった。
「そうだ」
「それは、すまなかった。で、今日は、報告か?」
「いや」
笑っている中岡である。
顔を合わすことができなくとも、中岡自身、一つのところに、止まることが難しい坂本の性格を、把握していたこともあり、しょうがないと片付け、仕事に意識を持っていたのだ。
そのうち、会えるだろうと見越し、大して、気にも留めていない。
それに対し、坂本だけが、会えないことに、大いに不満を募らせていたのだった。
「俺のことか?」
「沢村から、連絡を貰ってな。少し、話を聞いてあげてほしいって」
「……」
チラリと、沢村の顔を過ぎらせ、小さく口角を上げている坂本だ。
仕事をしろと、怒っていた沢村の姿だった。
(仕事しろって、言いながらも……)
まだ、まだ、坂本がする仕事は、残っていたのである。
だが、先ほどまであった、やる気が失せていた。
眼光に映っているのは、中岡の両手にある酒の瓶。
坂本から離れた沢村は、自分では、どうしようもできないと、忙しい中岡を密かに呼んでいたのだ。
沢村から頼まれ、中岡も、仕事のやり繰りをし、こうして訪れていたのである。
「いい部下を、持っているな」
「……そうだな。忙しかったんじゃないのか?」
自分以上に、常日頃忙しいことを、沢村や周りの者から、話を聞いていたのだ。
そうした中、来てくれたことに感謝しつつ、気遣っていたのである。
「まぁな。でも、竜魔の話を聞くぐらいは、時間があるぞ」
「ありがとうな」
「どういたしまして」
懐から二つ湯飲みを出し、豪華に注ぎ淹れる中岡。
事前に、二人分の湯飲みを、用意していたのだった。
「武市さんも、神経が図太いよな」
率直に、中岡が言葉にしていた。
「……あの人は、元々、繊細な人だった。俺の方が、図太かったんだ。ただ、段々と、変わっていって……」
「ま、こういう仕事をしていると、いろいろあるからな……」
苦笑している顔を、中岡が覗かせている。
ここに至るまで、坂本も、中岡も、いろいろな出来事があり、感情を、時には爆発させたり、持て余したりしていたのだ。
ここには、何もないと言う者なんて一人もいない。
「……わかっている。多分、あの人は、大切な仲間を失って、徐々に、変わっていったんだと思う」
(……何人も、死んでいった……。本当に……)
唇を噛み締めている。
その中には、坂本が尊敬していた人や友人が、何人も含まれていた。
「そうか」
「どうにか、元気になってほしくって、いろいろと考えているうちに、あーなってしまったんだと思う。わかっているだ、俺だって……」
苦虫を潰した顔を、坂本が滲ませている。
(どうしたら、よかったんだ? 俺は、何をするべきだったんだ……)
そして、ギュッと、拳が握り締められていた。
「中にいると、見えないが、外に出ていると、武市さんと、親しくしている人物が、距離をとり始めているぞ」
心配げな双眸を、傾けていたのだ。
アジトに戻って来ずとも、武市の噂などを耳にし、気に掛けていた。
それと同時に、武市の動向や、周りの動向を、それとなく窺っていたのである。
武市が問題を起こしても、親しくしていた人物が、距離をとることが今まではなかった。
それが、今回は、徐々にではあるが、距離を取り始めていたのだった。
「今更じゃないのか」
少し投げやりな態度をみせていた。
そんな坂本の態度を、捉えている中岡だった。
(本心じゃないくせに)
「……いや。距離をとっていても、僅かに繋がっていたのに、その糸を、次々に切っているんだ」
「……どういうことだ?」
「危険なところまで、入り込んでいるんじゃないのか? 武市さんは」
「……そうなのか?」
「竜魔に、わからないことが、俺に、わかるはずがないだろう。ただ、俺には、そう見えるってだけで」
「……何をやっているんだ? 武市さんは」
不安げな眼光を滲ませている。
「知っているのか? 知らないなら、知らせないと」
落ち着きが、段々と、失っている坂本。
「たぶん。武市さんも知っていて、放置しているんじゃないのか?」
「知っているって?」
(何で、わかっていて、無視しているんだ?)
徐々に、坂本の眉間にしわが寄っていた。
「武市さんは、わかっていて、見ていない振りをしているんだ」
「……何を考えているんだ?」
「わからないって」
中岡が、首を竦めていた。
「……あの人が、考えっていることは、わからない」
「そうだな」
「危険って、どのくらいだ?」
「相当、ヤバいってことだけだな」
中岡も、詳しく押さえている訳ではない。
武市の性格を鑑みながら、探っていたのである。
だから、どうしても、深く探ることが難しかったのだ。
「言っておくが、直接、聞こうと思うなよ。また、同じことの繰り返しだからな」
また、いざことをするぞと、眼光で止めていた。
「……」
「それに、探るのもなしだ。武市さんは、お前の性格を把握しているから、すぐに尻尾を捕まれるぞ」
(わかっている)
「……それじゃ、何もわからないじゃないか、どうすればいい」
坂本は、やや口を尖らせている。
「お前は、動くなってことだ」
(それじゃ、わからないままじゃないか)
「仕事の合間に、探ってみる」
「大丈夫なのか?」
怪訝そうな顔だ。
自分以上の仕事を抱えている中岡。
これ以上の仕事を頼むのは、忍びなかったのだった。
「何とか、やってみるさ。だから、お前やお前の部下を、動かすことだけは、やめろ」
真剣な眼差しを注いでいる。
「……」
「俺が、使っている手駒を、動かしてみる」
「あの人は、手強いぞ」
真摯な双眸を巡らせている。
何度も、自分の友人や部下を、切り捨てている現場を見ていたからだ。
「知っている」
「なら……」
「お前よりも、俺の方が、読まれにくい」
(……確かに、そうかもしれない)
だが、安心ができない。
「俺だって、バカじゃない。深入りはしない。けれど、お前は、どうだ?」
(……深入りするかも)
安易に、坂本の思考を読んでいる中岡だった。
「深入りするだろうな」
「……」
「お前に、真髄している部下もだ。お前のことを慮って、深く探ろうとするだろう」
(……そうかもしれない)
「だから、俺だ。俺は、そんなへまはしない。自分が大事だからな。それに部下も、お前のことを、真髄していないから。ちゃんと見極めができる」
ニコッと笑っている中岡だった。
「……」
「俺に任せろ」
「……わかった」
「じゃ、そういうことで。この話は、終わりだ。他の話を聞かせろ」
「そうだな……」
朝日が上がるまで、トコトン、お喋りを続けていたのだ。
勿論、中岡が持参した酒は、あっという間に、空瓶になっている。
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