第181話
西郷の部屋で暴れていた坂本は、自分の机に戻っても、仕事の手は、完全に止まっていたのである。
誰も、指摘することができない。
身体全体から、刺々しいオーラを放出しているからだ。
誰一人として、そんな坂本を、遠巻きに窺っていた。
そうした視線に気づきながらも、高ぶっている感情を宥めることができない。
悪循環だと抱きつつも、どうすることもできなかったのだ。
ブスッとした表情で、机に突っ伏している。
「坂本さん。どうぞ」
柔和な笑顔と共に、沢村が飲み物を坂本の前に置いた。
沢村が現れたことで、周りは、安堵の表情を漂わせていたのだった。
西郷の部屋から出てきた沢村は、こうしたことを見越し、いろいろと周りに根回ししていたのである。
「酒か?」
「いいえ。水です」
「酒にしろ」
「仕事中ですよ」
ニコッと笑いつつ、有無を言わせない顔を、沢村が覗かせている。
だが、坂本も、容易に譲れない。
「酒だ」
「ダメですよ。勝手に、仕事を離れて、西郷さんの部屋に、行っちゃったのは、誰ですか? さっさと、仕事をしてくださいな」
仕事が、尽きることがないのだ。
どこからともなく、湧いてくるのだった。
そうした仕事を、すべて放り出し、西郷の部屋にいってしまった坂本としては、沢村に何も言い返すことができない。
「この辺を片づけるの、結構、大変でしたよ。せっかく、効率よくできるように、並べて置いたのに……」
注がれる、沢村の双眸。
それに対し、坂本は、合わせようとしなかった。
自分の席から飛び出した後の坂本の席は、机に置かれているものすべてが、見事に散乱していたのである。
戻ってきた際には、すべて元通りになっていたのだった。
「……」
水の入ったコップを、不貞腐れている坂本の前に置いた。
「水でも飲んで、頭を切り替えてください」
「……」
「仕事は、次から次にと、入ってくるんですから」
「こんな時に、仕事をさせるなんて、お前は、酷いな」
仕事が、できる気分ではない。
胸の奥は、激しく波打っていたのだ。
「これまで、仕事を放り出していた坂本さんが、悪いんです」
笑顔の中の瞳は、決して笑っていない沢村。
膨大な量の仕事が、滞っていたのである。
坂本だけの責任ではないが、その一因はあると巡らせていたのだった。
「……」
渋々、仕事に向き合う坂本だ。
そうした姿に、沢村が首を竦めていた。
「いつの間にか、武市さんは、帰ったようですよ」
「そうか」
ぶっきらぼうに、口に出していた。
「知っていますか? 随分と、武市さんの立場が、悪くなっているようです」
「当たり前だ。あんなことをしておいて」
「そうですが……。以前は、どこか、甘さが見受けられましたけど……」
言葉を濁す沢村だ。
違和感を憶え、沢村に顔を傾けていた。
「何かあるのか?」
「あまり、いい噂を聞きません」
「前からだろう」
胡乱げな坂本。
「そうなんですけど……」
情報を掴んでいる訳ではない。
今までとは違う、上層部の空気感を、ただ嗅ぎ取っていたのである。
「……何かを、感じるのか?」
歯切れが悪い沢村の様子。
徐々に、坂本の心が、ざわつき始めている。
沢村の何かを感じる嗅覚を、坂本は信じていたのだった。
「はい。上の空気が、少し違ってきたって、感じです」
(どういうことだ? 確か、今回の処分も、甘かったはずだ。何か、他にもあるのか……。一体、それは何だ……)
深い思考に入っていく坂本に、声をかけようとはしない。
黙って、見守っていたのである。
「探ってくれるか?」
「いいですよ。その代わり、仕事は、ちゃんとしてくださいね」
「わかっている」
幾分、仕事をする気になっていく坂本だ。
(当分は、ここを離れないで、窺ってみるか)
「それと、勝手に抜け出すのも、なしですよ」
「わかっている」
「なら、いいです」
仕事を頼まれた沢村。
坂本のところから、離れていった。
「ありがとうな。沢村」
小さく笑っている坂本である。
本当なら、追加の仕事を持ってきても、おかしくはなかった。
だが、沢村が持ってきたものは、声を張り上げていた喉を、潤すための水だけだった。
沢村の気持ちを無駄にしないため、目の前にある仕事に打ち込む。
一心不乱に、書類に目を通していき、溜まっている仕事を、次々に片付けていく。
驚異的な早さに、目を見張っている周りの者たちだった。
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