第179話
西郷の部屋に、ようやく、西郷と武市の二人だけとなった。
部屋は、坂本が暴れ、散らかったままだ。
片付けようとはしない。
西郷の眼光が、静かに佇んでいる武市に巡らせている。
「あれは、一体、何しに来たのやら……」
「……」
「同じことを、繰り返すなんて、ただのバカでしかないな」
開けっぴろげに、武市が皮肉を漏らしていた。
あれだけの大騒ぎがあったにもかかわらず、終始、平然としていられる武市の思考を、理解できないと、西郷が小さく息を吐いている。
あれだけの大立ち回りが、目の前で繰り広げられていたのに、我冠せずと静観していたのだった。
そうした姿勢に呆れつつも、羨ましいと抱いていた。
坂本の乱入の前も、後も、武市の態度が変わらなかったのだ。
「武市が悪い」
「私ですか?」
心外だと言う顔を、武市が覗かせていた。
(……よく、そんな顔ができるな)
「これまで、何度も、繰り返してきた。私の方としても、もう、飽きたのだが」
やや首を傾げている武市に、僅かにジト目を傾けている。
だが、身構えている武市の風貌は雄々しかった。
先ほどまであった光景は、今まで、幾度も行われており、そのたびに、沢村たちが暴れる坂本を、必死に止めに入っていたのである。
見ている側としては、辟易していたのだった。
「私もですよ」
「なら、坂本を怒らせるな」
「怒らせているつもり……」
「嘘をつけ」
「嘘とは……」
「もういい。話が、進まぬからな」
「そうですね。時間も、ないことですし」
二人して、長く話している時間がなかったのだ。
それぞれ忙しい身でありながら、僅かな時間を割いていた。
それにもかかわらず、坂本の乱入により、大幅な無駄な時間を、費やしてしまったのである。
「西郷さん。手短にお願いしますね」
呆れた眼差しを、西郷が浮かべていたのである。
(……こうなったのは、お前のせいなんだがな)
注がれても、痛くも痒くもないと言う顔だ。
「武市次第だな」
「それは、困りましたね」
言葉では、困ったと言いながらも、その表情に焦りがない。
一気に、室内が、緊迫した空気が広がっていく。
西郷の表情が、一変したからだ。
巡らされる武市は、変わらない。
「あの人と、手を切れ」
真剣な眼差しを、向けている西郷だ。
そして、かなりの圧も加えている。
それに対し、武市は身じろぎもしない。
「辿り着きましたか?」
いきなり、確信を突かれたにもかかわらず、一切の動揺が見えなかった。
むしろ、清々しい顔を、滲ませていたのである。
(……武市のやつ、何を考えている?)
「ああ。ようやくな」
「そうですか」
淡白な返答。
西郷の太い眉が、僅かに動いている。
「……だから、手を切れ」
「お断りします」
「なぜだ?」
「必要だからです」
「武市」
低い声で呼ばれても、ニコッと、武市が微笑んでいたのだ。
ほんの僅か、二人の間に、沈黙が訪れている。
それを破ったのは、西郷の方だった。
「お前は……」
西郷は呆れながら、背凭れに背中を預けていた。
「西郷さん。随分、時間が掛かりましたね」
「……いろいろと、忙しいからな」
やや不貞腐れている西郷。
やることが多過ぎて、多忙を極めていたのである。
その中に置いても、諦めることなく、着実に、時間をかけて、突き止めていったのだ。
何度も失敗し、そして、また、一からやり直してだった。
視線は、武市に傾けられている。
西郷自身も、武市が自分たちに組しないと抱いていたが、少しでも、心を揺さぶりことができるのではと抱き、この場を設けたのだった。
(……動かすことは、できないのか……)
「あなたらしいと言えば、あなたらしいですね」
「褒めているのか?」
ブスッとしている西郷である。
「勿論」
いい笑顔を、武市が覗かせていた。
「いいのか? あの人は、使えなくなったら、すぐに、お前のことを、切り捨てるぞ? 容易にな」
真摯な双眸を巡らせている。
優秀な人材である武市を失うのは、痛手だと抱いていたのだ。
だが、武市が組している人は、そうしたことを、一切考えない人だった。
もういいとなったら、意図も簡単に、切り捨てられる人だったのである。
「わかっていますよ」
「……本当にか?」
心意を探るような、西郷の眼光だ。
「えぇ」
「一切、助けないだろうな」
「でしょうね。私も、それを望みません」
穏やかな顔だった。
「……」
小さく笑っている武市。
「あの人まで、行き着くことができたが、証拠が出なかったでしょう?」
「……ああ。全然、出なかった」
隠す必要もないので、悔しげに、西郷が吐き捨てていた。
ある人物のところまで、行き着いただけだった。
けれど、確定させ、追及するまでの証拠を、得られなかったのだ。
証拠が得られると思っても、瞬く間に、その証拠が消失してしまっていたからだ。
苦水を飲まされ、中途半端なまま、武市を呼び出していたのである。
「……あの人は、そこまでさせる人物なのか?」
「さぁ、どうでしょうか?」
思案している武市。
徐々に、西郷の眉間のしわが多くなっていく。
(では、なぜ、あの人の下で、働くのだ)
「なぜ? つく」
「私が抱く信念に、近づかせてくれる人だからですかね」
考えながら、武市が言葉を紡いでいった。
「……だがら、つくと? どんな人だろうとか?」
「えぇ。勿論です」
揺るぎない眼差しを向けていた。
(……相当な決意だな)
固い決意に、西郷が感服していたのだった。
ほぼ、ほぼ、西郷の中で、説得を諦めてしまっていたのだ。
「西郷さんでは、ダメですね」
「そうか」
「はい。残念でした」
「ああ。残念だ」
「美味しい水のように、泥水を、鮮やかに飲み干してみせますよ」
これまでにないぐらいに、武市がいい顔を滲ませている。
「……いい覚悟だな」
「それは、あなたも、同じでは?」
「……そうだな」
(俺とお前は、似ているな。どこで、違ってしまったんだろうな)
読んでいただき、ありがとうございます。