第178話
勤皇一派の西郷の部屋には、西郷と、西郷から呼び出され、久しぶりに、勤皇一派のアジトに、顔を出している武市の姿があったのである。
そして、そこに、無理やりに、入り込んだ坂本がいたのだった。
物凄い剣幕で、西郷に詰め寄っている坂本。
二人が話そうとした途端、突如、坂本が乱入していたのだ。
武市が来たと言う話を耳にするまで、黙々と、溜まっていた仕事を、真面目に取り組んでいたのだった。
抜け出すこともなくだ。
突如、乱入してきた坂本に、西郷が下がるように命じても、下がろうとはしない。
下がらせようとする沢村たちを押しのけ、捲くし立て、西郷の部屋は、瞬く間に、騒然となっていたのである。
開け放たれたドアには、幾人もの、見学者の姿も。
室内は、大混乱している状況だった。
収拾がつく様子もない。
西郷が溜息を吐いている。
見た目では、どっしりと構えているように、映っていたのだった。
けれど、西郷は、遠い目をしていたのだ。
(……つい最近も、見たばかりだな……。武市のことになると、普段以上に、鼻が利くな……)
同じような光景が、何度も繰り返されていた。
こうした騒動を、繰り返さないため、密かに、呼んだはずなのに、どういう訳か、すぐに武市の存在を嗅ぎ分けている坂本だった。
自分に噛み付いている坂本を、冷静に双眸で、西郷が観察している。
(……この鼻を、別なところに活かせたなら……)
そうとは知らず、坂本は、いろいろと騒いでいたのである。
西郷の部屋の外でも、どうしたらいいのかと、部下たちがあたふたとしていた。
その中で、武市は、冷ややかな眼差しを、文句が止まらない坂本に注いでいたのだ。
そうした行為も、坂本を逆撫でしていたのだった。
下がらせることを、西郷が諦めていた。
止めに入っていた沢村たちを下がらせ、三人だけにしたのである。
それが一番いいと、抱いたからだった。
机を挟んで、西郷の目の前には、これまでにないぐらいに、睨んでくる坂本の姿があった。
まるで、今にも、飛び掛ってきそうな勢いも漂わせている。
静かな西郷。
怒りが収まらない坂本から、視線をそらそうとしない。
そうした中で、武市がソファで寛いでいた。
お茶も、用意されていない現状。
それどころでは、なかったのだ。
ただ、ただ、武市が首を竦めている。
ドアの外では、お茶を運んできた者が、どうしたらいいのかと、右往左往していたのだった。
西郷が命じる前に、坂本たちが押し寄せ、お茶を出すところではなかった。
ある程度、落ち着きを見計らった坂本から、チラリと、一人で和やかに座っている武市に、ジト目になっていたのだ。
それに対し、涼しげに、ニコッと笑っている武市だった。
「……」
坂本が暴れたせいで、西郷の机や周辺は乱れている。
(……誰が、この現状を、作り出したと思っているんだ……)
どこまでも、他人事の武市。
嘆息を吐きながら、西郷が、近くのものだけ、簡単に片付けていった。
「坂本。せっかく、揃っていたものを、崩すな」
一応、注意を口に出していた。
無意味でもだ。
「そんなことよりも、どうして、武市さんが、ここにいるんですか?」
「私が、呼んだからだ」
「呼ぶ必要は、ないはずです」
乱暴に、坂本が吐き捨てていた。
謹慎処分は、解かれていなかったのだ。
謹慎先を知らない坂本は、言いたいことがあっても、必死に堪えていたのだった。
そして、坂本に場所を知られれば、突撃されると巡らせ、西郷たちも決して、武市の謹慎場所を言わなかったのである。
「坂本になくっても、私にはある」
冷静な口調の西郷だった。
「それは、何ですか」
眼光鋭い視線を、坂本が注いでいる。
「謹慎中にもかかわらず、仕事をしていた件だ」
隠してもしょうがないと、西郷が口にしていた。
けれど、しっかりと坂本の耳にも、その件は入っていたのである。
真面目に仕事しつつも、武市に対し、大きな憤りを膨らませていたのだった。
「呼ばずに、身動きが取れないように、見張りをたて、動けないようにして置けばいいでしょう。いつも、いつも、甘い処分だから、この人が、付け上がるんです」
剣幕が凄い坂本だ。
それに対し、西郷もたじろぐことはない。
落ち着いた様子で、受け止めていたのである。
(甘い処分か……)
常に、問題を起こす武市に対しては、甘い処分が下されていたのだ。
他の仲間たちは、そうした処遇に納得できない者が多くいることは、西郷たちも認識していたのである。
だが、武市の功績を踏まえると、甘くなってしまうのだった。
室内の温度は、その場所により様々だ。
それは、三者三様の表情をしているからだった。
我冠せずといった表情に、激昂している表情と、冷静な表情だ。
「武市の場合に、それでも、仕事をしそうだな」
思わず、西郷が本音を吐露していた。
「しますよ」
二人の話に、武市が入り込んだ。
背後にいる涼しげな武市を、半眼している坂本である。
そうした姿勢でいる武市に、西郷は、少しは殊勝な態度が取れないのかと、半ば呆れていたのだった。
そうすれば、少しは違うはずだと。
これまでのことを、少しでも、改めない武市が悪いと、西郷は、常々抱いていたのだ。
「次から、次へと……」
詰め寄って行きそうな坂本。
動こうとしない武市の前で、立ち止まっていた。
辛うじて、スレスレの自制を、辛うじて、働かせていたのだった。
「どうすれば、あなたは、おとなしくなるんだ?」
「おとなしく? 私は、与えられた仕事を、真摯にしているだけだ」
首を傾げ、眼光鋭い坂本を見上げている。
人を、逆撫でしているかのような双眸だ。
「あなたって人は……。仲間を無駄に殺させておいて」
奥歯を噛み締めていた。
中村の嗜好は、好きではなかったが、大切な仲間の一人でもあったのだ。
そうした仲間たちを、容易く、使い捨てる武市のことを理解できないでいたのだった。
「こうした仕事をしていれば、いずれ、死ぬこともあるはず。坂本、お前には、ないのか? その覚悟は?」
「あるに決まっているだろう。だが、あなたのやっていることは、私たちの野望にとっては、無駄なことだ。それで、死なせることはなかったはずだと、言っているんです」
噛み付く坂本。
武市の表情は、穏やかなものだ。
「野望を遂げるには、多額の金は必要だ。前にも、言ったはずだが? お前は、もう忘れてしまったのか?」
「……確かに、必要だ。だが、別な方法があるはずだ」
「それだけではなりぬ。生ぬるいぞ。これも言ったかな?」
「武市さん!」
坂本が声を張り上げていた。
西郷の顔も、武市の顔も、動くことはない。
ただ、坂本を見据えていたのだ。
「足りぬと、上が見ているから、私に対する罰が、甘いんだ」
怒り狂っている坂本に対し、武市の声音は、冷静そのものだった。
「わかっているんだろう?」
「……」
「正論だけでは、ダメだ。これも言ったような」
「……」
悔しげに、坂本が顔を歪ませている。
「お前は、いつも甘いな。だから、抜け出せない。そこまでに、なってしまっているんだ。わかっていないのか? お前のやり方では、いつまで経っても、ことが進まぬぞ。私も、同じことを言って、疲れてしまっているぞ。早々に、理解して貰いたいものだ」
「……」
「私を、諭すつもりなら、もっと大きな仕事をしろ。そして、何度も言わせるな。私を止めたいならば、私よりも、大きくなるんだな。お前にできるのか? 小さい子供だって、一度言えば、理解しているはずなのに……。やれやれ」
嘲笑している武市。
そして、もう一度、坂本を視界に捉えている。
「負け犬の遠吠えにしか、聞こえないぞ」
「……あなたって人は」
怒りに任せ、武市の胸倉を掴んでいる。
掴まれている武市の表情は、変わらない。
「私を殴るのか? 別に、構わない。だが、私は、止まらない」
「……」
「さぁ。殴れ。気が済むまでな」
「……」
「そこまでだ」
僅かに声を張り上げ、西郷が二人を止めていた。
二人の口は、結んだままだ。
「武市。挑発するな。坂本まで、謹慎になったら、仕事がなりゆかぬ」
「わかりました」
「坂本。武市の挑発に乗って、どうする。ここは引け」
黙ったままで、胸倉を離そうとはしない。
「坂本!」
太い声が、部屋中に響き渡っていた。
「坂本!」
もう一度、西郷が呼んだ。
坂本は唇を噛み締め、掴んでいた胸倉をようやくはずした。
一瞥もしないで、そそくさと、部屋から出て行ってしまったのである。
軽く、武市が首を竦め、西郷は盛大な嘆息を吐いていたのだった。
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