第174話
沖田が、地方から戻ってきても、待機部屋は、いつもの騒々しさで、落ち着くことがなかった。
一見すると、これまでのような雰囲気に、戻ってきたような感じになっていた。
だが、誰の心にも、一抹の不安が、重く、圧し掛かっていたのである。
ただ、誰も、口に出さない。
誰もが、平静を装っていたのだった。
粛々と、事務をこなす、事務三人組だ。
芹沢隊や新見隊が、機能していなくても、事務の仕事は、連日、山のようにあったのである。
芹沢隊や新見隊により、隠されていたものが、未だに、湯水のごとく、出てきていたのだった。
止め処なく、舞い込む仕事。
次から次へと、手際よく、処理していく。
ソファにだらけた状態で、座っている原田。
その前に、事務の三上が、仁王立ちしていたのだ。
「いい加減にしてください。何ですか? このメチャクチャな請求書は」
ジト目で、三上が、締まりのない原田を睨んでいる。
三上の手には、無数の請求書が握られていた。
二つの隊が、残した負の書類だけで、精いっぱいな状況に、陥っているのに、さらに、問題だらけの請求書に、三上の怒りが、爆発していたのである。
手に握られている請求書は、先ほど、井上が出したものだ。
久しぶりに、待機部屋に、原田の姿があった。
原田と井上以外の原田班は、待機部屋にいない。
顔も、出していなかったのだ。
こういう状況に、陥るだろうと、見越していたのである。
少し、離れた自分の机で、仕事をしていた井上が、申し訳なさそうな顔を滲ませていたのだった。
問われても、惚けている原田である。
三上に出した請求書は、危険な区域で飲み食いしたもので、正規で出す訳にもいかなかったので、偽造して出していた。
「ちゃんとしたものを、出してください」
さらに、三上の眼光が、鋭くなっていく。
ジュジュや伊達が、静かに、両者を窺っていた。
仕事の手は、緩まっているが、止まっていない。
事務仕事は、続けていたのだった。
待機部屋にいる者たちは、チラチラと、見ている者や、我冠せずといったように、自分だけの世界に入っている者がいたのである。
ある意味、いつもの光景でもあった。
「出しているぞ」
「原田班長」
声音を強めている三上。
「ダメ?」
「ダメです」
「頼む」
甘えるような原田の声。
三上の態度は、全然、崩れない。
「ダメです」
「沙也ちゃん」
「ダメです」
きっぱりとした姿勢に、原田の眉が、やや下がり気味だ。
「お金がないんだよ」
このところ、危険の区域に入り込み、待機部屋にも、顔を出していなかったが、金が底をついたので、請求書を出し、金を支給して貰おうとしていたのだった。
「酒ばかり飲んで、遊んでいるからでしょ」
「仕事しているぞ」
「仕事にかこつけて、飲んでいるだけです」
痛いところを突かれ、井上が絶句している。
他の者は、さすがと賞賛していた。
「それも、仕事のうちだろう」
口を尖らせている原田。
情報を得るため、ある程度は、そうした行為も、認められていたのである。
ただ、原田や永倉たちは、そうした予算を、遥かに超えて、使っていたのだった。
そして、今回の請求書は、いつもにまして、かなり酷かったのだ。
「原田班長たちの場合は、度が過ぎています」
「いつもは……」
「今回の、この金額は、何ですか?」
いつもの五倍の請求を、行っていたのである。
通常の請求書でも、原田班や永倉班から出てくるものは、酷い状態のものだった。
それ以上の酷さに、三上たちの怒りも、いつも以上に、燃え上がっている。
だから、言ったじゃないですかと言う眼差しを、井上が、原田に向け、送っていたのだった。
勿論、井上の視線に気づいていたが、何も言わない。
怒り心頭の三上。
井上の仕草に、気づいていなかった。
「頑張った証拠」
首を傾げ、眼光鋭い三上を見上げている。
「茶化すのは、やめてください」
語気を強めていた。
鼻息も、荒かったのだ。
「茶化していないよ。真面目に……」
「では、結果を、出してください」
「……結果?」
「はい。成果を出しているのならば、出しますよ。ちゃんと」
僅かに、狼狽えている原田に、三上が圧をかけている。
危険な区域に入り込んでも、目ぼしい情報を得てはいない。
何か情報を得ようとして、酒場を周り、悪循環に陥っていたのだった。
「どうなんですか?」
ジリジリと迫られ、気圧されていく、原田だった。
「出そうとした結果? だから、頼むよ。次は……」
「また、行くつもりですか?」
「勿論」
胸を張る原田。
また、危険区域に入り込むためのお金を、用意するために、待機部屋に、井上と共に帰ってきていたのだった。
三上の頬が、引きつっている。
ジュジュと伊達が、やれやれと首を竦めていた。
待機部屋にいる多くの隊員たちは、口に出さず、バカだと巡らせていたのだった。
一段と、ギアが入った三上の声が、待機部屋に響き渡っていたのである。
そうした中で、黙々と、仕事をしている山南。
盛大な溜息を零していた。
彼の目からしたら、いつもの、のん気な光景としか映っていない。
(こんな時に、酒ばかり飲んで……)
素行の悪い原田たちに、苛立ちを隠さない山南だったが、頭の大半を埋めているのは、近頃、巷で起きていた闇討ちの件だった。
気になっていた山南は、深泉組の仕事をしつつ、独自に調査していたのだ。
独自の情報網を使い、事件を洗っているが、いっこうに、情報を得ることが乏しかったのである。
そして、沖田から得た話も、当たっているが、それらしい人物を見かけた者がいない。
全然、成果を得られていなかった。
(……確かに、生きている可能性は、低かったから、しょうがないのか……)
だが、何か引っ掛かるものを憶え、探っていたのだった。
何も得ることできなくても、未だに、引っ掛かりを取ることができず、調査を止めることができなかったのである。
けれど、どこかで、区切りをつける必要があったのだ。
次第に、山南の顔が、曇ってしまっていた。
「山南班長?」
小声で、尾形が声をかけた。
いつになく、山南の太めの眉が寄り、眉間に深めのしわが、でき上がっていたのである。
気遣わせてしまった尾形に、これ以上の仕事を、押し付けることができない。
いろいろと、私用の仕事を頼んでいたのだ。
「……何でもない」
「そうですか」
千葉が勉強に勤しみ、山南たちの話に、気がそれることがない。
藤川や水沢が気づいていたが、素知らぬふりをし、自分たちに与えられた仕事をこなしていたのだった。
不意に、原田たちのやり取りが、山南の視界に入り込んでいた。
もう一度、溜息が出そうになり、堪えている。
「……原田班長たちは、危険な区域に、入り込んでいるみたいです」
さらに、声を小さくし、できるだけ、山南だけに聞こえるように口に出していた。
藤川や水沢の耳にも、届いていたが、僅かに、顔を動かすだけで、何も口に出さない。
一心不乱に、テキストと、睨めっこしている千葉だ。
「見たのか?」
目を見張っている山南だった。
「はい」
情報を探っている際に、尾形は、原田たちが、いつも以上に酷い身なりをし、都にある危険な区域に入り込んでいく姿を、遠巻きに見かけていたのである。
ただ、山南に伝えた方がいいか、どうか迷い、報告が、今になってしまったのだ。
「やつらは、何を考えているんだ……」
苦虫を潰した形相。
尾形が、小さく息をついている。
さらに、原田たちのことを、毛嫌いするだろうと見越し、伝えるかどうか、悩んでいたのだった。
だが、目の前の表情を窺うと、自分の判断が、正解だったとは思えなくなっていく。
(報告しない方が、よかったか?)
「さすがに、どこにいっていたか、言えないようだが」
まだ、攻防を繰り広げている、原田たち。
二人の視線が、注がれていた。
藤川や水沢は視線を巡らせることなく、原田たちの攻防に、聞き耳を立てている。
原田たちは、未だに、どこで、酒を飲んでいたのか、吐露していない。
それでも、お金を出して貰おうと、必死に、頼み込んでいたのである。
「あの分だと、あそこに出入りしても、情報を得られていないようだな」
「そうのようです」
「……情報がないのか、あっても、掴めていないのか」
心が、僅かに、揺らぐ山南。
(……あそこに入れば、得られるか? ……だが……)
喉から手が出るほど、山南自身としては、情報をほしかったのである。
脳裏に掠めているのは、楽しげに、微笑む沖田の姿だった。
自分よりも、何歩も、先にいっているだろうと抱き、嫉妬と羨望が混じった感情が、胸の中で渦巻いていた。
「あそこは、どこの部署も、手が出さないからな」
どこの部署も、危険区域には、手をこまねいていたのだ。
いったん、危険区域に入り込まれれば、手出しができなかったからだ。
ただ、追われる側も、危険区域に入ることに、二の足を踏んだりしていたのだった。
「はい。入り込んだら、生きては戻れないと」
「野生の勘が高い、原田たちなら、大丈夫だが。井上を連れているとは、随分と……」
「さすがに、奥深くまでは、原田班長たちも……」
「わからないぞ。情報を得られていない以上、あれらのことだ……」
「……可能性は」
見つめていた視線を、山南が戻していた。
「……近藤隊長たちに、伝えますか?」
「……いや。いいだろう」
「……わかりました」
奥歯を噛み締めている、山南だ。
都で育った山南としては、危険区域に入り込むのに、躊躇っていたのである。
都で生まれ育った者として、あそこの者と、かかわるなと、教え育ってきたのだった。
だから、このため、危険な区域に入り込んだこともないし、仲間たちに、入り込むなと言っているほどだ。
あそこに、踏み入れれば、もう二度と、まっとうな人間に戻れないと、信じ込まれていたのだった。
だが、その信念が、崩れそうになっていた。
「山南班長……」
尾形が呼びかけたにもかかわらず、自分の思考に、沈んでいたのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。