第148話
明け方の時間帯に、坂本が、勤皇一派のアジトに、戻ってくる。
足取りは、覚束ない。
フラフラし、あちらこちらに、ぶつかっている。
周囲には、誰もいなかった。
多くの者が、眠っていたのだ。
起きている人間がいても、仕事に、追われていたのである。
仕事に追われ、気づかなかったのだった。
警備している者が、酔っている坂本を発見し、身体を支えようとしていたが、坂本自身が、断っていたのである。
だから、一人で、アジト内を、よたよたと歩いていた。
何軒も、酒場を巡り、たらふく、酒を飲み干していたのである。
店の者に、注意を受けるほどだ。
廊下を歩いている坂本を、渋面になっている沢村が、出迎えていた。
沢村の耳にも、坂本の様子は、報告が上がっていたのだった。
こちらに、帰ってきている報告を受け、沢村が、ここで、待機していたのである。
「大丈夫ですか? 坂本さん」
「沢村か」
フラフラしながら、伏せ気味だった顔を上げた。
その拍子に、足下が、ふらつく。
倒れそうになる坂本。
駆け寄って、沢村が、坂本の身体を、支えている。
「ありがとうな」
「飲み過ぎです」
若干、眉間にしわを寄せつつ、沢村が窘めていた。
乾いた笑いが、坂本から、漏れている。
坂本自身も、かなりの量を飲んでいると、自覚していたのだった。
それでもなお、飲むことを、やめられなかった。
痛々しい姿に、沢村の表情が、微かに、歪んでいた。
「飲んでも、酔えない……」
「……酔っていますよ」
「いや。酔えない」
「……」
「いっこうに、いやな記憶が、消えない」
坂本が、今の気持ちを吐露していた。
周りが止めるほど、煽るように、酒を浴びていたのである。
それでも、坂本の記憶が、消えることがない。
鮮明に、武市が引き起こしただろう、中村の件が、残っていたのだ。
その件を忘れるため、酒を飲み続けていたのだった。
だが、決して、一時も、消えることがなかったのである。
「……」
「どうしたら、いいんだろうな、沢村」
「……」
珍しく、弱音を吐く坂本だ。
そうした姿に、沢村が、何もできない自分に、もどかしさが募っていく。
(坂本さん……)
「どうしたら、記憶が消える?」
弱々しい坂本の双眸に、沢村の困ったような顔が、映り込んでいた。
その姿に、自嘲気味な笑みを、沢村が漏らしている。
「……わかりません」
「……そうか」
「でも、いつもの、坂本さんらしく、ありません」
「……」
「武市さんの愚痴を零し、そして、悶々としても、その後は、仕事に邁進していました。けど、今の坂本さんの姿は……」
「俺らしくないか?」
「はい」
強く、沢村が、断言してみせた。
(情けないな……)
「仕事を、一切しない、ただ、酒を、止め処なく飲んで、それでも、酒を飲むこともやめない。店の者に、止められたなら、次の店に移動し、同じことを繰り返す。坂本さんらしくありません。仕事に戻ってください」
懇願するような、沢村の眼差し。
小さく息を吐く、坂本だった。
何度も断られ、行くところがなくなり、とうとう、勤皇一派のアジトに、戻ってくる経緯があったのだった。
「俺が、いなくっても、西郷さ……」
「西郷さんたちは、いつも以上に、頑張っていますよ。寝る暇を惜しんで」
アジト内が、いつも以上に、慌しい様子が、容易に、想像できたのだった。
そうした現状を、見たくなかったこともあり、外に、出払っていたのである。
親戚で、頼りになる兄貴として尊敬していた武市だった。
何度も、暖かく懐かしい光景が、浮かび上がっていたのだ。
関係ないと言いつつも、誰よりも、行き急ごうとしている武市を、坂本なりに心配していた。
切り捨てたと、言い放っていても、切り捨てることが、簡単に、できなかったのである。
「そうか」
「坂本さん。仕事してください」
「……」
「西郷さんたちだけでは、ざわついている現状を、収めることができません。坂本さんにしか、できないことがあります。だから、お願いです、仕事に戻ってきてください」
西郷たちが、ざわつくアジト内を、懸命に、押さえ込んでいた。
だが、それは、表面上のことでしかない。
奥底では、大丈夫なのかと、疑心暗鬼になる者が、続出していたのだった。
そうした状況に憂いつつ、沢村は、いつ、坂本が戻ってきても、仕事ができるように、仕事を進めていたのである。
「……俺には」
「ここを、辞めるつもりですか?」
確信を突く、沢村の一言。
揺れ動く、坂本の瞳だ。
今回の件を聞き、勤皇一派を、やめようとかと、抱いていたのである。
踏ん切りも、つけることもできず、自分の弱さに嫌気がさし、酒に溺れていたのだった。
「……」
「許しません。決して、ここを、やめることを、僕は、許しません」
揺るぎない眼差しが、彷徨う坂本に、注がれている。
「許しませんよ、坂本さん」
「酷いやつだな」
坂本の表情から、苦笑が、浮かんでいる。
「酷いのは、坂本さんです」
「僕たちは、坂本さんだからこそ、ついていっているんです。そうした僕たちを、放り出して、一人で、逃げるつもりですか?」
真剣な沢村の表情。
「僕は、絶対に、坂本さんを、やめさせません」
「……酔っている状態で、仕事を、させるつもりなのか?」
小さく笑っている、坂本だった。
強張っていた沢村の身体が、辛うじて緩んでいた。
「……では、少し、酔いが覚めてから、仕事してください」
「しょうがないな」
「言っておきますが、随分と、溜まっていますから、ちゃんと、仕事してくださいね」
容赦のない、沢村の言葉。
実際に、多くの坂本の仕事を、肩代わりしていたが、それでも、多くの仕事が、溜まっていたのである。
弱っているだろう坂本を、無理やり、連れ戻すことをしなかった。
少しでもいいから、時間を与えたかったのだった。
「わかったよ」
足下が、覚束ない坂本を支えながら、身体を休めるところがある部屋まで、沢村が、連れ添って歩いていくのだった。
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