第144話
岩倉の屋敷で、働いている者たちは、いつもと、変わらない仕事をしていたのである。
岩倉の部屋には、岩倉や岡田、鷹司の姿があった。
他の者はいない。
中村が死んだ件が、鷹司から、報告されていたのである。
室内は、静寂に包まれていた。
神妙な面持ちで、目の前にいる岩倉を、見つめている鷹司だ。
鷹司自身、この報告を受けた際、フリーズし、すぐに、次の行動に、移せなかったほどだった。
(どうして、こうなった……)
岩倉に報告しつつも、鷹司は、まだ、信じられずにいた。
中村の死は、ここにも、大きな衝撃を与えていたのである。
困ったわねと言う顔を、岩倉が、覗かせていたのだった。
(武市さんは、つくづく、運がない人ね)
内心では、どこか、他人事のように、巡らせていたのである。
岩倉の中では、武市を切ることを、すでに、念頭に置いていたからだ。
武市が、どうなろうと、どうでも、よかったのだった。
ただ、もう少し、もって貰いたいと言う気持ちが、僅かにあるだけで。
(しょうがないわね)
脇に立ち尽くす岡田。
岩倉の双眸が、しっかりと、捉えている。
見つめられていることに、気づかない。
顔面蒼白な、岡田の表情だ。
チラリと、鷹司も、岡田の様子を、窺っていた。
岩倉とは違い、眉を潜めている。
いつまで経っても、敬愛する岩倉に、従おうとしない岡田の姿勢に、苛立っていたのだった。
ようやく、岩倉の視線が、不機嫌になりつつある鷹司に、戻っていく。
「随分と、部下が減ったようだけど、今後、仕事は、どうなるのかしら?」
「若干の遅れは、生じるものかと」
現実に、起こり得ることを、そのまま伝えた。
鷹司の方で、武市サイドに、問い合わせた訳ではない。
問い合わせたとしても、まともな解答を、得られないだろうと、あえて、しなかったのだ。
それと同時に、多くのことも、隠されることもあるので、自分が信頼できる部下たちに、いろいろと働いて貰い、情報を得ていたのである。
「しょうがないわね」
「別な者に?」
平然と、鷹司が、新たな提案をした。
武市の代わりになるべき者を、容易に、作ればよかったのだ。
以前から、鷹司は、抱いていたのである。
失態の続く武市を、見限っていたのだった。
「いいえ、待ちましょう。武市さんのところじゃないと、ダメですから」
「承知しました」
岩倉の意見に、思考していたものを、すぐに消し去っている。
すべてにおいて、鷹司の中では、岩倉の意見が、尊重されていたのだった。
切り捨てることを、決定付けていても、武市のように、使い勝手がいい存在が、岩倉の中で、いなかったのである。
候補がいても、もう少し、時間をかけて、自分の方へ、引き込もうとしていたのだ。
「少し、サポートできる人間も、廻してあげてちょうだい」
「承知しました」
恭しく、頭を下げている鷹司だ。
「西郷さんも、承知しているわね、このことは」
鷹司に、注がれる双眸。
岩倉の瞳に、自分が映っていることに、ついつい、口角が上がってしまう。
「そうかと思います。密かに、武市殿を、見張っていたみたいですから」
「そうね……。さすがに、今回は、謹慎の延長だけで、済まされない問題だものね」
「はい」
「西郷さんも、災難ね。きっと、あちらも、忙しいでしょうね」
自分のところ以上に、勤皇一派の内部が、騒々しいことが、簡単に、想像できたのである。
(麻痺しているのかも、知れないわね。可哀想に)
「そうかと」
ふと、岩倉の眼光が、呆然と、立ち尽くしている岡田に、注がれていた。
そして、武市の危機を知っても、戻らせて欲しいと、懇願してこない姿に、岡田の成長を感じていたのだった。
(……もしかすると、あまりの一大事に、身動きできないのかもしれないわね。もう少し、様子を見てみましょうか)
鷹司に、戻される双眸。
「中村の代わりは、いるのかしら?」
「どうでしょうか。まだ、育てている段階か、それとも、いない可能性の方が、大きいかと」
武市たちと仕事をしていても、暗殺部隊の内情に、詳しくなかった。
岡田自身も、自分たちの部隊のことを多く語らないし、岩倉自身、今まで、所属している岡田から、聞き出そうとしなかったのである。
「そうね。中村の腕前を持つものなんて、早々、いない気がするし……。岡田は、これに関して、何か、知っているのかしら」
「……いないと、思う」
微かに、震えている声音だ。
意外な顔を、岩倉が、覗かせていた。
岡田が、話を聞いていない可能性も、視野に入れていたからだ。
窮地に、陥っている武市のことも、心配だが、それに以上に、瞠目していたのは、仲間としては、嫌っていた相手だったが、中村の実力を、誰よりも、把握している身としては、中村が仕留められたことに、衝撃が激しかったのである。
岩倉や鷹司は、まさか、中村のことで、激震が走っていたとは、思ってもいなかったのだった。
「中村は、誰を、相手にしていたんだ?」
岡田の漏らした言葉。
鷹司の眉間のしわが、深くなっていた。
言葉遣いが、なっていないからだ。
「それは呟きか、それとも、私に、聞いているのか?」
刺々しい鷹司である。
うっと、言葉を詰まらせている岡田だった。
「鷹司」
しょうがないねと、岩倉が、嫌悪を表している鷹司を、窘めていた。
「……すいません」
「答えて、あげてちょうだい」
「……わかっていない。何せ、相手側は、誰一人、やられた形跡がない。そうしたことから、導き出される可能性を、考えると……」
「一人と、言うことか?」
鷹司からの言葉で、導かれる答えに、愕然としている岡田だった。
「そうなるな」
そっけない鷹司である。
「本当に、一人の者にやられたのか?」
「そうだと答えているが?」
「信じられない。あの中村だ」
「その中村が、やられたんだ」
「……」
「なぜ、もっと、早く育てないんだ」
イラつく鷹司に、岩倉が、首を竦めていた。
次世代に繋ぐ、人材を育てないあり方に、以前から、鷹司は、不満を持っていたのである。
もっと早くから、育成していれば、こうした事態が起こっても、すぐに、対応できたはずだからだった。
「……無理なことを言うな」
口答えをした岡田に、半眼している。
(俺に、反論しただと……)
臆すことなく、まっすぐに、鷹司に視線を注いでいた。
「性格に難があるが、あれほどの逸材を、早々、育てることなんて、難しいんだ」
安易な鷹司の思考に、僅かに、岡田が、敵意を向けていたのだ。
殺伐とした空気が、立ち込め始めている。
一触即発な雰囲気になりつつあった。
そこに、割って入っていったのが、岩倉だった。
「岡田の言う通りね」
岩倉の言葉に、黙り込む鷹司。
だが、岡田の口は、瞑らない。
「その中村を、やったやつは、相当な腕の持ち主だ」
「そのようね」
「これは、大問題になる」
確信を、得ている声音。
ようやく、ことの重大性を、逡巡し始める鷹司だった。
早急に、中村の次を育てればいいと、踏んでいたのである。
そのことが、難しいことに加え、中村以上の腕前の持ち主がいることにより、自分たちの計画が、遅れることに、言い知れぬ不安を、膨らませていたのだった。
「とにかく、誰が、中村を仕留めたのか、知りたいわね。そして、その目的は、何なのかを。調べられる? 鷹司」
難しい課題に、一瞬だけ、躊躇う鷹司だった。
だが、瞬時に、気持ちを切り替える。
「……調べます」
「ありがとう」
ニコッと、微笑む岩倉。
鷹司が、見惚れていた。
「ねぇ、依蔵。もし、その相手と、対峙した際は、あなた、勝てる自信がある?」
「……良くって、相打ちだ……です」
「負ける可能性もある?」
コクリと、頷く岡田。
中村と戦えと、命じられば、勝てる可能性も、低かったのだ。
良くって、相打ちだと、岡田自身、抱いていたのである。
中村の実力は、筋金入りだった。
「芹沢たちを、仕留めた者かしら?」
「いや。あの件は、どう考えても、複数だ。違う気がする」
「その中の者かも、しれないわよ」
食い入るように、岩倉が、逡巡している岡田を眺めている。
「……違う」
「随分と、自信があるのね」
「中村を、仕留められる腕前だ。だったら、芹沢の件だって、必ず、一人でやるはずだ」
「なるほど」
不意に、思案している岩倉。
鷹司も、岡田も、口を閉じた。
「……味方にできるなら、したい人物ね」
「敵に回すと、厄介かも……です」
「そうね。武市さんのところでも、それと、西郷さんのところも、誰に、仕留められたのか、早急に、調べるでしょうね」
「どこよりも、早く、突き止めます」
「まぁ、頼もしいこと」
読んでいただき、ありがとうございます。