第103話 久坂と沢村
忽然と、沢村が久坂の前に、姿を現したのだった。
勤王一派のアジトの中を、歩いていた井上が、仕事部屋に、籠ったと言う話を聞きつけたからだ。
金庫番の井上が、アジトの中を彷徨っていると、沢村が耳にし、恐々として、見つからないように、逃げ惑っていたのである。
久坂同様に、頭が上がらなかったのだ。
書類も、提出しないで、坂本が、使用している資金源について、追及されると、目に見えてわかっていたからでもあった。
恨めしげな眼差しを、注いでいる久坂だ。
苦笑している沢村だった。
「ごめん」
「早く書類を作成し、提出してくれ」
「そうするよ。ホント、ごめん」
素直に謝るが、まだ、睨まれたままだった。
目を合わせず、ぎこちない笑顔を、沢村が振りまいている。
「……もういい」
「ありがとう、弦惴」
微かに、久坂が強張っていた顔を和らげた。
ホッと息を吐き、久坂の正面に、腰掛ける。
お詫びとして、溜まっている書類に、目を通していくのだった。
そんな沢村の姿を窺ってから、止まっていた仕事を、再開し始めていく。
一人でも多く、手伝いを求めていた。
「総之丞。西郷さんたちが、外に出ている理由、知っているか?」
目を書類に傾けたまま、久坂が気になっていたことを、口にした。
誰も、西郷たちの行く先を、知らない。
そのため、気になって、僅かに、仕事のペースが、落ち込んでいたのである。
「いや。何度か、西郷さんに尋ねたが、秘密だと、言われてしまった」
「そうか……」
(一体、西郷さんたちは、何をしているんだ)
眉を潜めている久坂だ。
疲労を溜め込んでいる姿に、沢村が、困ったなと言う顔をしていた。
二人は、同じような立場でいたが、久坂よりも、外での仕事が多いので、こういった事務作業を、久坂が行っていることが多かったのである。
そういったこともあり、常に久坂に対し、申し訳ないと言う気持ちを、持っていたのだった。
室内で、書類仕事に、追われている久坂とは違い、外での仕事がある沢村。
幾分、内情を、心得ていた部分があったのだった。
(あれは、極秘任務だよな……)
不意に、西郷と大久保が、密かに、岩倉に呼ばれたことを掠めている。
内容を教えて貰えなかったが、幾つかの段取りを、手伝ったのだった。
飛ばしていた意識を、沢村が戻した。
「大丈夫か」
「……大丈夫だと、言いたいが、少しキツい」
珍しく弱音を吐く姿に、僅かに目を見張ってしまう。
どちらかと言えば、久坂は、強がる性格の持ち主だったからだ。
「もう少し、明るい話題とかあれば、気が晴れるのだろうが……。このところ、上手くいっていないからな……。坂本さんの方は、どうなんだ?」
何とも言えない顔を、久坂が滲ませていた。
高杉の計画も失敗し、坂本の計画も、芳しくない。
そして、他の計画に関しても、雲行きが怪しい状態だ。
書類作業が多い分、あらゆる計画について、久坂は精通していた。そのせいもあり、上手くいっていない状況を、痛切に憂いていたのである。
「お願いしているだけど……」
喋りが、鈍くなっている沢村。
現在、坂本の仕事に携わっており、アジトを離れていることの方が、多かった。
沈んでいる顔色。
上手くいっていないことを、痛感させられる。
「まったく、ダメなのか?」
「……感触としては、悪い」
支援者たちに頭を下げ、理解を求めているが、どの支援者たちも、坂本が立てた計画に、首を縦に振って、貰えない。
連日、沢村たちが頭を下げ、理解して貰おうと、足を運んでいたのだ。
「失敗するのか」
苦渋に、顔を歪めている。
「坂本さん次第かな……」
伏し目がちに、沢村が漏らした。
「……このところ、武市さんのことで、荒れているからな」
仕事もせず、酒場に、入り浸りな状態が、続いていたのである。
支援者の元に、坂本自身が足を運び、説明すれば、緩和される可能性が、高くなっていくと、沢村たちは、思っているのだが、武市とかかわったせいで、機嫌が悪くなり、支援者たちの元に足を向けず、酒場に入り浸りな状態が続いていた。
「偶然、出くわし、ケンカしちゃったからな」
「外でか」
意外そうな双眸を、注いでいる久坂。
頭を抱え込むような仕草を、見せる沢村だった。
坂本と、支援者周りをしている際、沢村も同行し、その現場に居合わせ、必死にケンカを始めた二人を宥めていた。
「ああ。武市さんは、奥さんと一緒にいて、奥さんも、止めに入ってくれた」
武市の妻は、勤皇一派の中でも、良妻賢母として知られていたのである。
今いるアジトにも、武市の妻が訪れ、よく差し入れをしてくれていたのだ。
勤皇一派での、武市の評判が悪いが、その妻は評判がよく、そのおかげもあって、僅かな均衡が保たれていたのだった。
「江藤辺りだったら、放置していたな」
武市の秘書である江藤の顔を、久坂が掠めていた。
鼻につくような江藤の態度を、好ましくないと、抱いていたのだ。
勿論、妻といた武市は、傍に、江藤を置いていない。
「そうだな。坂本さんも、武市さんの奥さんには、頭が上がらないからな」
首を竦め、沢村がおどけて見せている。
「よく、あんな人を、支えているよな」
少し眉間にしわを寄せ、久坂が愚痴を吐露してしまった。
部下たちは、自分たちの仕事に、集中しているので、二人のぼやきを聞いている暇がない。
沢村の存在も、数人の部下たちしか、気づいていない状況だった。
曖昧な顔を、沢村が覗かせている。
不満を口にしつつも、仕事の手を、休めている訳ではなかった。
器用に、書類に目を通し、選別していたのだ。
「……確かに。どこが、いいんだろうか」
逡巡している二人だが、結論が出てこない。
勿体無いほどに、できた嫁だった。
武市の妻は、美人ではないが、とても気立てがよく、夫である武市に、献身に尽くしていたのである。
「二人しかいないのか」
珍しい人間が、アジトに、顔を出していた。
「「桂さん」」
瞠目している二人の響きを気にせず、部下たちが仕事をしている。
鬼気迫るほどの勢いで、部下たちが、仕事をこなしていた。
平坦な顔でいる桂のいでたちは、宅配を装っていたのだ。
((よく、その格好で、ここまで入れたな))
眉を潜め、凝視している二人に対し、何とも思わない。
外からも、内からも、敵が多く、常に、変装して動き回っていた。
そうした光景に、慣れている二人ではあったが、アジト内でも、平気で変装したまま訪れ、警備を担当している者は、一体、何をしているのだろうかと、不審を抱いていたのだった。
不審者が入らないように、レンガ屋敷には、厳重な警備が、敷かれていたのである。
そうした警備を掻い潜り、変装したまま、内部に入り込んでいた。
普段、宅配業者が、ここまで辿り着くことがなかった。
それに、外での仕事がほとんどで、めったなことがない限り、桂がアジトに顔をみせることがない。
勤皇一派でも、桂の顔は、あまり知られていなかったのだ。
そうしたことを踏まえても、不審者として、捕らえれれても、おかしくなかったのだった。
「西郷さんたちは?」
「……外に、出かけています」
「どこに?」
「わかりません」
淡々と喋る桂に、沢村が答えていった。
部下の誰一人として、沢村や久坂の前にいる宅配業者に、ギョッとしている者がない。
膨大な量の仕事に、打ち込んでいたのである。
微かに、困ったような顔を、沢村が滲ませていた。
(部下の意識改革もしないと、ダメだな……)
「……そうか。少し、話があったのだが」
逡巡している桂。
ふと、久坂が首を傾げ、桂を窺っている。
(それにしても、こういった衣装、どこで、手に入れているのだろう?)
「西郷さんが、戻って来ましたら、桂さんに、知らせましょうか?」
「無理だろう。私自身、一つの場所に、長いができない」
「連絡を、待っている間もですか?」
何とも言えない表情な沢村を、真面目な顔で、桂が捉えていた。
連絡がなかなか取れないことでも、桂は有名でもあったのだ。
桂に、連絡をするには、至難の業だった。
「そうだ。いつ、刺客に狙われるか、わからないからな」
「もう少し、穏便にことが、進みませんか?」
「無理だ」
潔すぎる態度に、何も言い返せない。
「しょうがない。私が来たことだけ、西郷さんに伝えてくれ」
「……承知しました」
ようやく沢村が、言葉を紡ぎだした。
「坂本は?」
「坂本さんは……」
坂本と武市のことを、掻い摘んで喋った。
黙ったまま、桂が聞いている。
「そんな状況でして、拗ねていません」
小さく沢村が、笑っていたのだ。
ふーと、息を吐く桂だった。
あまり顔を出さなくても、二人が犬猿の仲だと言うことは、把握していたのである。
「そうか。あの二人にも、困ったものだ」
しょうがないと、桂が首を竦めている。
「えぇ」
話が終わり、仕事の手伝いに戻っていく沢村。
西郷や上層部に、持っていく書類の束が、いつの間にか溜まっていた。
桂と沢村が喋っている間も、二人の話を耳にしながら、書類を分けていたのだった。
「総之丞。これらを、上に持っていってくれないか?」
「わかった」
まだ、立っている桂に頭を下げ、沢村が席を立っていった。
沢村の背中が、見えなくなってから、桂が、真面目に仕事をこなしている久坂に、視線を下ろす。
双眸は、何を抱いているのかもわからない。
ただ、仕事をしている久坂を、写していた。
「久坂」
促され、少し目を見張ってしまっていたのだ。
もう、その場から、離れているものだと、思い込んでいた。
油断していた自分に、猛省している久坂だった。
「何でしょうか、桂さん」
「仕事を、頼みたい」
突然の依頼に、頼まれた久坂が、絶句していた。
余計なことを、桂は口にしない。
「……仕事ですか?」
首を傾げ、何を考えているか、読ませない桂を見上げている。
胡乱げな表情を、久坂が漂わせていた。
「そうだ。近衛軍の上層部に、潜入してほしい」
「潜入ですか……」
瞠目し、信じられないと言う顔を、覗かせている。
突如、外の仕事が、舞い込んでくるなんて、予想もしていなかった。
頼むとしても、外の仕事を、ほとんどしたことがない久坂ではなく、最近、外の仕事が多くなっている沢村に、頼む者がすべてだった。
意外過ぎることで、なかなか頭が働かない。
けれど、目の前の桂から、視線を剥がさなかった。
「それと、バラ屋敷にも入り込んで、情報収集を頼みたい」
ごくりと、久坂が唾を飲む。
「……私で、いいんですか?」
恐る恐ると言う声音だ。
「ああ。ただ、とても危険な仕事だ。西郷さんや坂本は、反対するかもしれない。だから、内密で、この仕事を頼みたい」
「……」
外での仕事をしている沢村に対し、憧れや嫉妬があった。
早く、外での仕事を、任されたいと。
徐々に、身体が強張っていく。
沸々と、闘志見漲っていくような感覚に、襲われていた。
「できないか?」
燃え盛る焔を宿した眼光を、平静な桂に注いでいる。
「……できます。やらせてください」
「頼むぞ」
「はい」
残る用件を伝え、久坂の前から、立ち去っていく桂。
大量に片づける書類を前に、意力が、止めどなく溢れていった。
「まず、これを片づけなければ」
先ほど以上に、書類作業に打ち込んでいったのだ。
読んでいただき、ありがとうございます。