第102話 事務処理に追われる久坂
勤王一派の久坂が、頭を痛めている。
次から次へと、降りかかってくる問題に。
周囲にいる部下たちも、慌しげに、室内を動き回っていた。
けれど、その顔色は、優れていない。
大きく、嘆息を吐く。
そして、目の前に、視線を傾けた。
処理しきれない、書類の山が、連なっていたのだ。
一人では、到底、処理できないほどの量である。
通常は、久坂だけが、やるべき仕事ではない。
久坂よりも、上の人間がいないため、書類が運ばれていた。
この現状に、嘆きながらも、少しでも、片づけていたのだ。
そんな真っ暗な久坂の前に、新たな書類が、部下によって置かれていった。
置いた部下も、申し訳なさそうな顔を覗かせ、瞬く間に、暗澹としている久坂から、離れていく。
高杉や武市の行動により、勤皇一派の空気が、悪くなる一方だった。
そんな際に、いつも西郷や大久保たちが、立ち回って貰っていたが、今回は、西郷や大久保が外に出ることが多く、勤皇一派の重苦しい状況が、改善されることが少ない。
「西郷さんたちは、一体、どこにいるんだ?」
ぼやきが、止まらない。
どこにいっているのか、知らされていなかった。
このところ、頻繁に外出することが、多くなっている。
遠い目を、ついついしてしまう。
居残り組にとって、西郷は、唯一の頼みの綱だったのだ。
気配り上手で、頼れる兄貴分な西郷。
仕事などで、行き詰っている者や、失敗し、落ち込んでいる者に声をかけ、彼らが、溜め込んでいる気分を、一掃していたのである。
声をかけて貰った者たちは、気を取り直し、それぞれの仕事に、邁進していた。
そうした西郷が、このところ、よく席を、はずしていたのだ。
部下たちの仕事の効率が、とても悪い。
内部が、曇よりと、沈んでいたのだった。
(西郷さん、どこにいるんですか? 早く、戻ってきてください)
「久坂。また、西郷さんや、大久保さんは、出かけているのか?」
勤皇一派の金庫番の一人でもある井上香琉が、表情が曇っている久坂の前に、飄々とした風貌で姿をみせた。
彼女は、黒ぶちの眼鏡をかけ、いかにも、真面目ないでたちを、醸し出している。
見たままに、仕事もやり手だ。
彼女から、お金を出させるのも、ひと苦労だった。
そして、お金を仕切っている井上に、久坂は頭が上がらない。
肩に掛かるぐらいの綺麗な髪が、揺れている。
「はい。そうみたいです」
立場も、大して変わらないし、年も、一つしか変わらない。
けれど、ついつい井上に対し、敬語になってしまう。
直属の上司さえ、井上に対し、敬語を使っているほどだった。
敬語を使われても、井上の方は、気にする様子がない。
多くの者が、井上に対し、敬語を使うからだ。
「目を通して、貰いたい書類が、あるのだが……」
どこか、思案顔の井上。
不意に、居た堪れない顔している久坂に、視線を巡らす。
「久坂。お願い」
「無理です。他の人に、当たってください」
渋面し、拒絶する久坂を、眇めていた。
僅かに、久坂の身体が、ピクッと、反応していたのだ。
まさかに、蛇に睨まれているような気分だった。
逃げたくても、仕事を放り出すことができない。
注ぐ双眸を、はずさない井上。
とても威圧的だ。
それでも、頑なに、譲れない久坂である。
二人の間で、静かな攻防が、繰り広げられていた。
「桂さんも、坂本さんも、いない」
目を細める井上だった。
「……他の人に、してください」
たじろぎながらも、久坂が、意志を歪めない。
(……これ以上、無理ですね。少しは、成長したものです)
微かに、首を竦め、井上が嘆息を零す。
一、二年前だったら、井上からの睨みに、逆らえなかった。
「しょうがありません。別な人を、探します」
「そうしてください」
ホッと、久坂が、胸を撫で下ろす。
仕切り直した井上が、室内を、ぐるりと見渡した。
いい状態ではない様子に、物憂げな表情を、滲ませていたのだ。
「ところで、闇の四天王の中村が、動いたようですが、知っていますか?」
「今、それで、忙しいところです」
顔を顰めていく久坂。
仕事が増えている原因は、そのことも、関係していたのである。
謹慎しているはずの武市が、また勝手に、闇の四天王の中村を使い、仕事をさせていた。
その処理で、みんなが右往左往していたのだった。
「久坂も、大変だね」
「えぇ。坂本さんも怒って、出て行ってしまいました」
「武市さんが、絡んでいるからね」
ケンカが絶えない二人の姿を、どうしようもないと、井上が思い返している。
勤皇一派の誰もが、この二人に対し、諦めモードなところがあったのだ。
それほど、顔を合わすだけで、ケンカが絶えない。
一方的に、坂本の方から、仕掛けていたのである。
「はい……」
「武市さんの秘密主義や、金遣いの荒さ、どうにかならないか」
溜め込んでいたものを、やや疲れが滲む顔で、井上が吐露した。
資金集めのため、暗殺業務を請け負っている武市ではあるが、それ以上に、お金を使うことも、多かったのである。そして、請け負った金額を、そのまま、すべてを勤皇一派に、入れている訳ではなさそうなところがあったのだ。
勤皇一派に隠れ、密かに動き回っている節が、見え隠れしていたのである。
そのため、何度か、西郷や上層部に、報告を上げているのだが、見逃している様子が見えていたのだった。
お金のことを、きっちりしたい井上。
武市は、どうしても、許しがたい存在の一人でもある。
それに、もう一人、書類も、報告もなしに、湯水のごとく使う高杉や、坂本、桂のことも、要注意人物でもあったのだ。
そのたびに抗議し、井上は、彼らの元へ、行っていたのである。
だが、対応するのは、彼らではない。
いつも、久坂や桐生、江藤だった。
「そんなに、酷いんですか?」
「酷いものじゃない」
どこか、苦々しい顔を、井上が覗かせている。
「武市さんは、誰よりも、何をしているのか、一切、わからない。探ろうとすれば、同じ人間だろうと、容赦しないで、暗殺する人間を、よこしてくる」
「えっ」
瞠目している久坂だ。
素直すぎる久坂に、小さく笑っている。
「何度、殺されかけたか」
懲りない性格でもあった井上は、何度も、武市を探ろうとしていた。
そのたびに、命を狙われ、危険な目に、あっていたのである。
段々と、眉間にしわが、寄っていく久坂だ。
「……何度も、探ろうとしたんですか」
バケモノを見るような眼差しを、注いでいる。
「当たり前だ」
当然だろうと言う顔を、覗かせていた。
「普通。やめますよ」
「仕事ができない。それに、興味があるだろう? 武市さんたちが、何をやっているかって。久坂は、興味を憶えないのか?」
「……確かに、気になりますが……」
瞳が彷徨っていた。
以前から、気にはなっていたのだ。
ただ、井上ほどの度胸がない。
仕事や、興味も、大切だが、こんなことで、命を落とすのも、いやだと巡らす。
「あの人は、シッポを、掴ませてくれない」
「まだ、諦めて、いないんですか」
「当たり前だ。それに、武市さんの近くに、今は、岡田がいない」
口の端を、上げている井上。
狙うチャンスが、あると踏んでいた。
「だからって……。田中さんが、いるじゃないですか?」
「まあな。でも、岡田より、融通が行くような気がする」
「やめた方が、いいですよ。それでなくもて、武市さんだって、今頃、ピリピリしていると思いますよ」
促している久坂の姿に、真摯さが垣間見え、微笑ましいと抱いていた。
「そうか。もう少し、様子を見るか」
諦めない姿勢に、貪欲だなと、頬が引きつってしまっている。
瞬時に、気持ちを切り替わり、真面目な表情を、久坂に注いできた。
「坂本さんにも、考えて使うように、伝えてくれ」
お金にうるさい井上を、坂本が避けていたのである。
井上に対する対応をすべて、沢村や久坂、部下たちに、一任していた。
そのため、完全に井上に対し、沢村や久坂は、足を向けて、眠れない状態になっていたのだ。
「武市さん同様に、報告もしないで、何に使っているのか、不明なお金が、多過ぎる」
厳しい声音に、久坂が背筋を伸ばす。
ゴクリと、つばを飲み込んだ。
井上に、ノーと言われるのが、一番怖いのだった。
「すみません。後で、書類を提出します」
「そうしてくれ」
「そういえば。深泉組の沖田は、どういった人物なんだ?」
「沖田ですか?」
きょとんと、久坂が首を傾げた。
「随分と、高杉が、コケにされたようじゃないか」
「ああ……」
多くの金を使った割りに、何の成果もなかった件を、出したのだった。
久坂の脳裏には、そのせいで暴れ、そして、倒れた高杉の姿を、掠めていたのである。
今は、静養も兼ねて、支援者の別荘で、身体を癒やしていたのだ。
何度も、西郷たちに頼まれ、お見舞いに、久坂が訪れていたので、高杉の様子については、一番把握していた。
「それに、高杉の様子は、どうなんだ? まだ、暴れているのか?」
「だいぶ、落ち着いてきましたよ。暴れて身体の方も、弱っていましたし」
「暴れるクセ、何とか、ならないのか? そのたびに、備品が壊れる」
辟易した顔を、井上が滲ませている。
壊れたものを、弁償する金などをやり繰りし、工面していたのだった。
「迷惑を、かけています」
「久坂が、悪い訳ではないと、わかっているが、こうも何度も暴れて、備品を壊されると、連帯責任として、資金を減額にするしかないぞ」
減額と耳にし、うっと詰まらせる。
現在、減額されると、非常に困るのだ。
「できるだけ、高杉さんの周囲には、高価なものは、置きません」
「そうしてくれ」
「高杉が、嫉妬している沖田が、気になっている。久坂も、嫉妬するのか、沖田に対して」
「僕は、高杉さんほどでは、ないですが、少ししましね」
「ほぉー」
感心した声を漏らした。
勤皇一派の本部から、井上が離れることが少ない。
書面で、報告が書かれている沖田や、仲間から、漏れ聞こえる沖田の話ぐらいしか、知らなかったのである。
巷を賑わす、深泉組の沖田に、拘る高杉を垣間見て、徐々に沖田と言う人物に、興味を憶えていったのだった。
逡巡している井上に気づかず、喋り出す久坂。
「庶民からも、人気が高いですね。老若男女問わず、凄い人気です」
「随分と、人気だな」
熱く語っている久坂の姿に、目を丸くしている。
そこからも、評判が高いことが、窺えたからだ。
「顔や、頭脳だけではなく、剣の腕前も、半端ないです」
その眼光に、嫉妬や憧れを窺わせた。
「……そうなのか。自分の目で、見てみたい」
「確かに、見てみたいですね」
何気なく久坂も、相槌を打った。
井上の眼光の奥に、興味の炎が、灯ったことに気づかない。
「沖田に関する資料を、見せてくれ」
「いいですよ」
沖田に関することが、ファイリングされたものを考えもなく、手渡したのだった。
それを手に、久坂の下から離れていく。
読んでいただき、ありがとうございます。