第9話 竜さんとトシさん1
西郷と別れた直後、坂本はこっそりと勤王一派の拠点を抜け出して、楽しげに賑わう馴染みの酒場『菊路』に足を運んでいた。身なりがいい客層とは違い、一癖も二癖もある客層が多かった。
店内は三十席しかない。
こぢんまりとした酒場だ。
四人ぐらい腰かけられる席に一人で陣取っていた。すでにかなりの量を飲んで、顔は真っ赤に染まってでき上がっている。
酔っ払っている坂本の席に三人の商売女が座った。
馴染みの女たちだ。
「竜さん、一緒に飲みましょう?」
「ああ。飲め、飲め」
気前よく、自分の酒を勧める。
「ありがとう。大好き、竜さん」
ちゅ。
真っ赤な口紅が坂本の頬に残った。
化粧の濃い女は坂本が手にしている空のお猪口に酒を注ぎ入れた。
「向こうばかり見ないで、私も見てよ」
囁くような甘い声、そして耳元に吐息が漏れた。
水面に揺れる酒を一気に飲み干す。
豪快な飲みっぷりに三人の女は喝采の声を上げる。
「さすが、竜さん。格好いい」
「都一の伊達男」
「ますます男っぷりが上がっているわね」
「お前たちも、飲め」
称賛する女たちに気をよくして自分の酒をさらに勧める。女たちはすでに懐に金がなかった。『菊路』に竜さんが入っていくところを見た人間から話を聞きつけ、そそくさと駆けつけて坂本の隣に腰を下ろしたのだった。
酒をたかりに来たのは知っていたが、じゃんじゃんと酒を飲ませていった。先ほどの憂さをすっきりさせたかった。
グビグビと遠慮なく、おいしそうに酒を飲んでいく女たち。
それを面白そうに眺めているだけだ。
カールかかったハチミツ色の長い髪の女が坂本に話しかける。
「竜さん。どこ行っていたの? このところ顔を見せないで。寂しかったのよ。他の女でも作ったの?」
妬ましい視線と共に軽く腕をつねった。
このところ仕事が忙しく、このあたりに顔を見せていなかった。
「作る訳ないだろう。女はお前たちだけだ」
「嘘ばかり」
憎たらしい人といった熱い瞳で見つめる。
「本当だよ」
この界隈で竜さんを知らない女はいない。
気前よく坂本は酒をおごって分け与えていたし、人柄でも人気が高く、顔を出せば後から後から女が擦り寄ってくる人気があった。
誰も実際の坂本の素性を知らない。
詮索しようとする人間もいなかった。
ここに来る人間は何らかのものを抱えていたからだ。
「本当?」
本当ではないとわかっていても、逞しい瞳や甘い声に呑まれてしまう。
「ナターシャ。嘘じゃない」
酒と坂本に酔っているナターシャの耳を優しく噛む。
小さな喘ぎを漏らした。
「邪魔する」
二人の甘い世界をぶち壊す無粋な男が現れた。
憮然とするナターシャだったが、まったく気にする素振りを見せない坂本。
朗らかな対応で、坂本は応えたのである。
「トシさん。久しぶりだな」
前に立つ男が勤王一派と敵対している深泉組の土方でも動じない。
目の前に立つ土方のいでたちはひと目でわかる白を基調にした制服を脱ぎ去っていた。
二人の間に緊迫する空気がない。
穏やかな風が吹いているのみだ。
「相変わらず、不機嫌だな」
「これが俺の貌だ」
ここでもそっけない表情は顕在していた。
「わりいな。また、今度」
「え!」
「いやよ」
「まだ飲みたい」
嫌がる女たちをどうにか帰して、姿を見せた土方と男二人だけになった。
周りの客たちは二人を見ようとはしない。
それぞれに自分のペースで酒を飲んでいる。
帰る間際、この場を台無しにした土方を睨みつけて帰ったのは言うまでもない。
そんな無遠慮な態度を向けられても、当の土方は悪びれることもなく何事もなかったかのようにやり過ごしていただけだ。
二人は向かい合う形で座った。
厨房から女中が来て、土方の前に酒とお猪口を置いた。
いつもの料理を頼もうとする。
女中の方もわかっているようで、いつも注文する料理を口に出して変更がないか確認を取った。そして、注文内容が伝えるために厨房へ下がっていった。
ここは土方にとっても馴染みの酒場だった。
何の迷いもなく、土方のお猪口に酒を注ぐ。
土方も躊躇いもなく、注がれた酒を一気に煽った。
「久しぶりだね。忙しかったかい?」
「そんなところだ」
相対する二人がしがない酒場で酒を飲み合っているとは誰も思わない。
それも仲良くだ。
以前から二人は一緒に酒を飲んでは語り合っていた。
お互いのことを気に入り、酒の友として一緒に酒を酌み交わしている。
ただの竜さんとトシさんとして。
それぞれに深泉組、勤王一派の任務を離れ、プライベートの時間と割り切って付き合っていた。
仕事の時間となれば、躊躇いなく対峙する覚悟は互いに持っていた。
「仕事が忙しいものも、考えものだ。酒が飲めなくなる」
「確かにだ。のんびりと酒を味わいたいものだ」
二人の共通点は好きな酒をのんびりと飲みたい点でも一致している。
小さく笑って同意している坂本。
静かな双眸は空瓶に気づく。
(随分と荒れていたようだな)
坂本の空のお猪口に自分の酒を注いだ。
「派手に飲んでいたな。そんなに飲んで大丈夫なのか? まだ、仕事があるのだろう?」
「あったけど、可愛い子に放り出してきた」
「……」
無邪気に笑ってみせた。
仕事を丸投げして、坂本は沢村に任せてきてしまう。
それもまだ、西郷と沢村が高杉を止めている間にだ。
「いい身分だな」
「そっちこそ、優秀な子が入ったじゃないか」
勤王一派でも話題だった沖田を持ち出した。
露骨に土方の表情が歪む。
間髪おかずに話をさらに進める。
「末恐ろしい感じだね。吉と出るか、凶と出るか」
「そうだな。竜さんの言う通りかもしれない」
否定しない態度に目を細める。
「へぇー。認めちゃうんだ」
「……」
愛嬌のある微笑みを浮かべている沖田の姿を思い起こす。
いつからか不明だが、土方はその愛嬌のある顔がとても恐ろしい気がしていた。けれど、問い質す真似はしなかった。仕事で追われていたこともあったが、各地を転々とする弟もそれなりの経験を積んで変わるだろうと安易に考えていた。
「でも、俺。嫌いじゃない、あの子」
ふと、声に促されるまま顔を上げる。
「すごい逸材だよ。どう料理するんだろう、楽しみだね」
「そうか。楽しみか……」
「ああ。楽しみだよ」
味方としては不安要素だが、敵としては飽きずに楽しめると坂本の心は踊っている。
(高杉を笑っていられないな。あいつだって、沖田を倒そうと練っているだろうし、先を譲ってやろう。身体のことも考えずに暴れたのだから)
口角が上がっている姿に土方は何を想像しているのか見当がついた。
相対する立場の土方にも、プライドの高い高杉が負けた悔しさから暴れていることが連想できたのである。独自に勤王一派を調べていたいので、中枢を担う幾人かの人物像はそれなりにでき上がっていた。
「高杉、大変だったのだろう?」
「まぁね。何であそこまで、プライドが高いのかね」
小さく笑っていると、注文した料理が運ばれてくる。
焼き鳥、豆腐、三種の刺身の盛り合わせ、トマトのスライスだ。
注文した土方よりも、何の了承もなく勝手に焼き鳥を食べてしまう。
そんな遠慮がない坂本を仕事場とは違い、眉間にしわを寄せずに見ていられる。
豆腐を箸で入れるサイズにカットし、土方は食べる。
「甘辛で、ここのたれが一番だ」
促されるように焼き鳥に手を伸ばす土方。
「ああ」
「そっちにこういう店を好む連中がいるけど、紹介してやらないのかい?」
誰を指しているのかすぐに顔が浮かぶ。
面倒を常に起こす原田たちだ。
「うるさいぞ」
笑っている坂本に顔を上げた。
「だろうね。いろいろと噂入ってくるよ」
「そっちこそ。高杉を誘って、ガス抜きでもしてやったら、どうだ?」
「ごめんだね。あいつとは趣味趣向が合わない」
だろうなと心の中で土方は相槌を打った。
「それにあいつはこういう店を毛嫌いするさ」
さらにそうだなと相槌を繰り返す。
「高級料亭とかじゃないと行かないさ」
「そうか」
高級料亭で熱く意見を交わしている光景が目に浮かぶ。
「あいつにも困ったものだ。感情のまま、自分の身体のことは気遣わずに手当たり次第、物を投げ散らして。周りの被害は甚大さ。どうして、あー言うふうに暴れるのかね……」
愚痴を零している間、聞き役に回っている土方は女中を呼び、ネギマやつくね、手羽先など追加注文をした。話をしていても、坂本は器用に料理を食べていく。
延々と零していた坂本が一息つけたところで、ようやく土方の口が開かれる。
「気が済んだか」
「すっきりしたよ。トシさんが来てくれて助かった」
自分が納得するまで話さないと気が済まないことを承知していた。
だから、最後まで黙って愚痴を聞いていたのである。
「トシさんのように最後まで聞いてくれるやついないよ」
ここでも土方は面倒見の良さを発揮している。
「トシさんの存在は貴重だよ。いつまでもこうしていたいものだね」
「続けばな」
そっけなく答えた。
そんな土方にクスッと笑う。
「それにトシさんだから、こんな話ができるんだ」
「暇人は竜さんだけのようだな」
口角だけが不敵に笑っている坂本。
プライベートも仕事も忘れず、それとなく内情を土方は探っている。
それを坂本も承知している。
「そのようだよ。みんなせっせと汗水流して、働いているよ。そっちも同じだろう?」
逆に坂本も警邏軍の動きを尋ねた。
「そのようだな」
簡潔に答えた。
「私たち以外は忙しくしているようだ。バラ園で働いている人たちも忙しそうだしな。どこもかしこも忙しいと見えるな」
バラ園とは天帝一族のことを指し示していた。
耳にした途端、さすが情報が早いなと土方の情報網に驚嘆している。天帝一族側の人間と接触しているのは勤王一派でも上層部しか知らない事実だった。
「美しいバラには棘があるから、互いに気をつけないと」
「そうだな。竜さん」
その後、何時間も二人は酒を飲み続けていた。
読んでいただき、ありがとうございます。