出逢い・漆黒の青年①
白銀の大地に燃え盛る業火。
あらゆる物を破壊する。
あらゆる者を飲み込んでいく。
あらゆるモノを奪っていく。
力のない自分は見ていることしかできない。
これが悪夢であればどれほど幸福だったことだろう。
ああ──なんて酷い、現実だ。
◇
「なんでこうなるの!」
現在八時四十五分。わたしは女子寮の正面玄関から飛び出した。そして全力疾走する。
昨日はあの奇妙な出来事が気になって全然寝付けなかったのだ。その結果、寝坊してしまった。
朝起きてすぐに時計を確認すると針は八時半を示していた。
そりゃ見間違いだって思いたかった。でも間違いじゃなかった。
まさか解除していたアラームの再設定を忘れていただなんて。
ちなみに普段は七時に起きている。つまり一時間半の寝坊というわけだ。
一限目の授業が始まる時間は九時。残された時間は三十分。
真っ直ぐ走ればなんとか間に合うだろう。代わりに朝食は抜きになってしまうが遅刻するより幾分ましだ。
朝礼? はてさて、何のことやら。
授業の準備は昨日の晩に済ましている。なのでその分の時間を短縮できたことだけは僅かながらの救いだった。
寮から校舎までは一直線でなく途中で一つ直角の曲り角がある。その道に従って走れば十分もかからず到着できるだろう。
だがそれではだめだ。少しだけでもいいから息を整える時間を作りたい。息を切らして教室に入るのは恥ずかしいから。
そこでわたしのとった行動がこれ。
道を脇に逸れて木々の間をすり抜けていくという近道。文字通り目的地まで真っ直ぐ走ることだった。
当然、地面が走りやすく舗装されているなんて都合のいいことはない。あくまで自然のままに残されているため、木の根が剥き出している所もある。
しかし、それらが進行を阻むことはない。前方にそびえる無数の木々も、足下を狂わす木の根も、わたしにとって障害にすらならない。その二つを軽やかに避けながら直進する。
この調子だと思ったより早く着きそうだ。
しかし、このように上手く事が運んでいる時こそ魔の手が襲いかかるのである。
ははは。わたしの進撃を止める者は誰もいない!
そんな感じでたかを括っていた、その瞬間だった。
ゴンッ! と鈍い音が脳内に響く。
「ふぎゃあ!!」
顔面から何かにぶつかったらしくその反動で勢いよく地面に倒れてしまう。
そして条件反射の如く鼻を押さえた。じわじわと襲いかかる鈍痛に涙を抑えることができなかった。
「痛い。痛い。痛い……」
何度もその言葉を繰り返してからやっと痛みが治まった。鼻から手を退けて手のひらを確認すると「ふぅ」と安堵の息をもらす。どうやらわたしの鼻は想像以上に丈夫らしい。
手についているのは涙と大量の鼻水だけ。運がいいのか鼻血が流れてくることはなかったのでした。
「よがっだ、ぢはででにゃい」
立ち上がりお尻に付いてしまった土を払う。そうしてからようやく何にぶつかったのか確認を始める。
すると目の前に「うぅ……」と喉を押さえて咳き込みながら苦しそうに唸る人がいた。
真っ先にわたし目に入った特徴は髪の色。漆黒の髪だった。
昨日レンちゃんが言っていた銀髪ほどではないにせよこの学園、というよりこの帝都では珍しい髪の色だった。
この人も外国の人なのだろうか。俯いているため顔は見えない。この学園の男子用の制服を着ているので男の人であることは間違いないだろう。
喉を押さえているのはわたしの頭の位置が丁度あの男子生徒の首と同じ高さにあったからだろうか。
気遣うような声で「大丈夫ですか?」と声をかける。わたしの声に気が付いた男子生徒は落ち着きを取り戻してからふう、と一息吐いてから顔をあげた。
一瞬、心臓が高鳴った。
胸をギュッと押さえる。
何だろう。この感覚は。
とても綺麗だった、と言えばいいのだろうか。
その人の姿は、目の前の彼の存在は、いずれわたしを狂わせてしまいそうな予感がした。
そんなわたしとはうって変わって彼は驚いたように目を丸くしていた。その表情を見て焦り「あ、ごめんなさい。謝るのが先ですよね」と頭を深く下げた。
対して男子生徒は「いやいや、俺は大丈夫だから謝らなくていい」と言ってくれる。
軽い気持ちではないが、なら良かったと胸を撫で下ろした。しかし、上目遣いで表情を探ってみると彼は怪訝な目でわたしを見ている。
「──それより君は」
声をかけられる。
ああやばい。顔が火照ってきた。赤くなってないか心配だ。
一旦落ち着こう。深呼吸をしよう。こういう時は深呼吸をするのがいいってニコルちゃんが言ってた。大きく三回繰り返す。たぶん変な人だと思われただろうが今はどうでもいい。
「この学園の高等部の生徒です」
こんな返答の仕方で大丈夫だっただろうか?
いやいや、大丈夫じゃないって。
服装をみれば誰だってわかるじゃん。
「えっと、そういう意味で訊いたんじゃないんだけどな。まあいいか」
と言って先程の怪訝そうな表情は解かれた。続けて彼は言う。
「時間は大丈夫なのか? あと五分で一限目がはじまるぞ」
嘘!?
腕時計を確認すれば示している時間はすでに八時五十五分だった。
「急がなきゃ。えっと……あ、あなたも急がないと」
名前が分からないのであなたで代用。
「俺はいいよ。もう少しここにいる。君は先に行くといい」
と優しく微笑んでそう言った。
ようするにサボりですか。
サボりはいけないんですよ、とは口にはできない。
残念ながらわたしは初対面の人に注意できるほど外交的な性格じゃなかった。
「……そうですか。では、お先に失礼します」
と丁寧にお辞儀をし、走って校舎まで向かった。
教室に着く頃には息が荒くなっているだろう。
走ってきたことがばれてしまうな。
これも仕方がない。諦めが肝心だ。
それにしてもあの人は誰だったんだろう。
ただの不良さんか?
そんな風には見えなかったけど。
次第に心臓の鼓動も元に戻ってきた。
顔の火照りぐあいも収まってくれたようだ。
でもアーネストさん以外の男の人、特に同年代の男子と面と向かって話すのは能力者のあの人を除いてこの学園に来てから初めてな気がする。
「──あれ?」
ふとさっきの出来事を思い返す。
立ち止まり振り返る。
何かがおかしい。
わたしはたしか前を見て走っていたはず。
ならどうして勢いよく正面衝突してしまったのだろう。普通なら条件反射のように急停止や息を呑むくらいしてもよかっただろうに。
「うーん……」
嫌な予感はするけれど、それも気のせいかもしれない。
きっと昨日の死神の話と奇妙な出来事のせいだ、と無理やり納得させた。
結局、昇降口付近に到着したのは授業開始の二分前。間に合ったと言える時間ではなかった。
教室に入るまでに荒くなっている呼吸だけでも整えておきたかったが、それをする暇も与えてくれなさそうだ。近道しようとしたはずが、逆に時間がかかってしまった。
この朝に再度得られた教訓はくしくもあの有名な諺だった。
──急がば回れ。
◇
結局、午前中の授業には全然身が入らなかった。
四限目の授業もあと数分で終わる。
どうかしちゃったのだろうか。
あの男の人に会ってからだ。
気持ちが落ち着かない。
あの人の姿、というよりあの人の纏う雰囲気を思い出したとたん、わたしは別の世界へと連れていかれそうになる。思い出さないようにしても、不意に頭の中に現れる。
先生に気づかれない程度の溜め息の吐く。
するとまるでそれがスイッチだったかのように授業終了のチャイムが鳴った。
チャイムってよく聴くと結構長い時間鳴ってるんだな、と新たな発見に感心していると目の前にレンちゃんとニコルちゃんのいつもの二人が並んで立っていた。
「食堂行こ」
とレンちゃんに言われる。
「……えっ……あ、うん。わかった」
返答するも、二人はお互い顔を見合わせて同時に首を傾げる。
「おまえ、どうかしたのか? もしかして体調が悪かったりとか」
心配そうな顔をして訊くニコルちゃん。
レンちゃんも同じような反応をしている。
「大丈夫。わたしは平気だから」
「それならいいんだけど。具合の悪い時はいつでも言ってね」
「うん。ありがとう」
そんなやり取りのあと食堂へ行くことになった。
ただしわたしを除いて。
『────、──』
まただ。三人で廊下を歩いている時、誰かに呼ばれた気がした。
けれど、昨日の頭の中に直接響きわたる嫌な感じの声とはまた違う。やさしく語りかけられたかのような不思議な感覚。
何気なしに外を見るとまさかの人物が目に入った。
「──あ」
見下ろした先には朝に出会った男子生徒が歩いていたのだ。
髪型とその色からしておそらく間違いないだろう。その男子生徒は校舎から離れて森の中へと入っていった。
その方向に有るのは前から気になっていた古い建物。
「ねえ、あの古い建物って何だっけ?」
と二人に訊いてみる。
「あれは旧校舎だよ。何年も前に使われていたらしいけど。誰も使ってないからそろそろ取り壊されるんじゃないかな」
「そうそう。確か倒壊の恐れがあるから立ち入り禁止だとか。ティアも近づかない方がいいぜ」
「そうなんだ」
あそこはもう誰にも使われていない場所。
古い建物なので倒壊の恐れがある。
今では立ち入り禁止の状態。
なら何の用であの場所に?
先生に見つけられる前に注意をしにいったほうがいいのだろうか。
少し悩む。
「ごめん。二人とも先に行って食べといて」
そう言って二人から逃げ出した。
昨日の件といい、どうやらわたしは隠し事が好きらしい。いつか盛大なつけを払わされそうで考えるのが恐ろしくなった。
とにかくあの男の人ともう一度会って話したい。
どうしても訊きいておきたいことがある。
わたしは全力疾走(一般人モード)で男の人が入っていった森の前までたどり着いた。
ここからまっすぐ進んで大丈夫なのかな?
会える保証はないけれど、すこしでも可能性があるのならこの先に行きたい。
これがたとえ日常と非日常の境界線を越えることになったとしても。
◇
入っていった場所から旧校舎までの道のりはもはや人工物とは言えない場所だった。
昼間だと言うのに生い茂る木の葉により陽の光は遮られる。まるで自分がさっきまでいた所とは別の切り離された世界に来たかのようだった。
数分歩いたところで立ち止まる。
正確に言うと立ち止まらざるをえなかった。
わたしの目の前に突然、人影が現れたのだ。
学園指定の制服。肩口まで伸びた漆黒。今朝出会ったあの男子生徒だ。
うっすらと見えるその表情を視認する。それは無表情にも見えて、それでいてわたしを睨んでいるようにも見えた。それは会えたという喜び以上に不安を煽らせる。
「ひさしぶり…ですね……」
半日ぶりでひさしぶりと言うのもどうかと思う。
そう言うも目の前の男は反応しない。
明らかに朝に出会った時とは何かが違った。
すると男はわたしに向けて腕を伸ばす。その手には何かが握られていた。
目を凝らしてその何かを確認しようとする。
棒状のような物。平べったく、先は尖っている。
風により作られた木漏れ日がそれにあたり光を反射される。
ここからある代物が連想された。
それは刃物、だった。
「──!」
はっと息を飲む時間すら与えてはくれなかった。
次の瞬間、その男は襲いかかってきたのだ。
人間とは思えないほどの速さで間合いを詰めてくる。
繰り出された刃物の一振り。相手は迷わず首を狙ってくる。
予想外の出来事にすぐ反応できず足が動かない。
上半身を後ろに大きく反らすことで相手の一撃をなんとか避ける。
脅しだけに使ってくれればよかったのだけれど。どうやら脅しとしてでも何でもなくわたしを殺すための凶器だったらしい。
でも何のためにわたしを襲う? 今朝ぶつかったから?
それが理由であるとすればあの時すでに襲われているはず。直接訊いてみる他に方法はないだろう。訊きたいことが一つ増えてしまった。
動くようになった脚を使い、横に跳び相手の間合いから離れようとする。
だが男は簡単に逃がしてはくれない。瞬時に追い付き刃物を突き出す。
わたしはそれをなんなくかわす。攻撃がくると分かっていればあの程度であれば避けることは容易かった。
しかし、ここで一つ忘れていることがあった。この場所は大量の木々に多い尽くされている。元々人が通ることを想定されていないため、ろくに整備もされていない。
わたしは周りの状態の、特に足下に関しての確認をおろそかにしていた。
不運にもよけた先の地面には剥き出しになった木の根があった。
踵がそれに引っ掛かり体勢を後ろに崩してしまう。
「──うあっ!」
男はそれを好機とすかさず刃物を振り下ろす。体勢が崩れてうまく避けれそうにない。
それなら、と倒れる先にあった木に背中を当てて身体を支える。
崩れかける寸前のところで体勢を無理やり保ったのだ。そのまま男の振り下ろす腕をつかむ。
腕の力には自信がある方だと自負している。少なくともこの学園にいる同年代の男子との腕相撲では負けないくらいには。だからなんとか防げると思った。
しかし、相手は予想を遥かに越える強さを加えてくる。
つかんでおくのも数秒が限界だった。
そこで自身の力を一気に抜き、相手の体勢を逆に崩させることにした。
その方法はうまくいき男は体勢を崩し膝を折る。思いきり振り下ろされた刃物はさっきまでわたしがもたれていた木に刺さって抜けなくなっていた。
その一瞬の隙に相手の後ろに回り込む。
「ごめんなさい!」
たぶん謝るだけでは済まされないであろう強烈な回し蹴りを放つ。
直撃する。その爆音にも聞き違えるほどの音を放つ衝撃が確かに入った。
これで終わったはずだ。殺さずに無力化できたはずだ。そう希望した。
──しかし、男は倒れなかった。
通用しなかったのだ。わたしの動きを見ていないにも関わらず、薙ぎ払おうとする足を片手で受け止めていた。
「──!?」
すぐさま離れようとするも、つかまれた足はがっちり固定されてびくともしない。
男は立ち上がると同時にわたしの足を持ち上げる。
それに逆らうことができず、ついに完全に体勢を崩され仰向けに地面へと倒れしまった。
そして逃げる間も無く身体を押さえつけられ、片手で口をふさがれる。男のもう片方の手には刃物があった。
立ち上がる時に刃物を木から抜いていたらしい。刃物の刺さっていた場所には刺された跡しか残っていなかった。
殺られる。そう思った。
だが何故か男はそこから先の行動に移そうとしなかった。
その代わりに聞こえる微かな男の声。
「──おまえじゃないのか?」
口から手を離し、刃物は男の制服の内側にしまわれる。腹部にかけられていた重圧がとかれる。
すると、あろう事か手を差し伸べてきた。
「すまなかった。今までのことは謝るよ」
「…………はい?」
このとんでもない出来事を期にわたしと彼は少しの間だけ共に行動することになった。
わたしと彼の出逢い方は本当に最悪といっても過言ではなかった。