決別・絶望の淵へ④
寮から旧校舎の大講堂への最短距離、つまり一直線に何の舗装もされていない森を傘もささずに全速力で駆け抜ける。
雨はまだ降り続けている。
大量の雨粒がわたしの顔にぶつかる。
大事に使用してきた制服は水浸し。
ソックスと靴も既に泥まみれ。
はあ……
焦りすぎ。
もっと、落ち着こうよ。
旧校舎の門の前に着いた時、陽は完全に落ち、あたり一面は暗闇の中だった。
目の前は肉眼ではほとんど何も見えない状態。
暗闇の中でも自由に物を見ることができるような便利な力は生憎持ち合わせていないので、素直に懐中電灯に頼らざるを得なかった。
カチッとスイッチを入れる。
瞬間、不思議な光景を目にした。
「あ……あれ?」
旧校舎全体を覆い隠すかのように、何か気味の悪い黒い靄がかかっていた。
それに手を伸ばしてみるが何かに触れた感触はなく、それどころかそこにあるはずの門に触れることができなかった。
これはもしかして結界ではないのか。
空間と空間を隔てる境界。わたしの能力と似ているが、それは全くの別物だ。
それを初めて目にしたわたしには対処法が分からない。こんなことなら以前にアーネストさんから教えてもらっておくべきだった。
でも一体何故?
午前中にはこんなモノはなかった。ならば、わたしが旧校舎をあとにしてから誰かが仕掛けた。あるいは自然に発生したか。
どちらにしたところで、ロイドくんの魔力はこの先に続いているのだ。このまま中に入れなければここまで来た意味がない。
一度旧校舎の回りを調べてみようか。もしかすると、どこかに中に入るヒントがあるかもしれない。
うん、とひとり頷く。
この場をあとにして歩きだそうとした。
その時──
「きゃああああ!」
突如、遠くの方。午前中、ここに来るために通った森林から声にならない叫びが響き渡った。
わたしは何が起こったんだとぎょっとし、疑問に思うと同時にその叫びが聞こえた方向に振り向く。
無数の鳥たちが一斉に羽ばたいていく音がする。
わたしは全力で走り出した。
一体、誰の悲鳴なのだろうか。
わたしにはわからない。
一つの光景が頭に浮かぶ。
わたしの考えうる限り最悪な結末。
また、死神が現れ、被害者がでる。
懐中電灯で地面を照らしながら進む。
旧校舎から森林までの中間付近まで達したところで「──何だ、あれ?」と眉をひそめた。
突然、何かが懐中電灯の光を反射したのだ。それは一つの木の下に落ちている小さな物。しかし、鏡やガラスのように強く反射しているわけではない。
さっきの悲鳴と関係があるのか?
走るのを止めて小さな物を拾い上げる。
橙色のカチューシャだった。
「何でこんなところに……」
それをじっと見つめる。
雨で少し濡れているが、泥などによる汚れは全くない。ついさっき落ちたのだろう。しかし、ちょうど身につければ耳の上あたりにくるであろう部分に、どこかに強くぶつけたかのような傷跡が残っていた。
悲鳴の主が落としていったのだろうか。
おそらくカチューシャが落ちていたそばの木に頭をぶつけて、その勢いでカチューシャがはずれてしまったってところか。
──違う、違う。そうじゃない。
これがどのようにして落ちてしまったかなんてこと、今はどうだっていいんだ。重要なのはこれが誰のものであるかだ。
じゃあ、誰のもの?
聞くまでもない。言われるまでもない。
わたしは知っている。これが誰のものかなんて拾い上げた瞬間に判っていた。でも、それを考えてたくなくて、言葉にしたくなくて──
必要のないことを考えてしまった。
考えることを避けてしまった。
この学園の生徒でカチューシャを付けている人はただでさえ少ない。
それに加えて色が橙色。
極めつけに端の方に描かれた小さい花の絵。
該当者はただ一人しか思い当たらない。
急いで懐中電灯で付近の地面を照らす。足跡を見つけた。まだ、雨で消えずにしっかりとした跡を残している。
ついさっきできたものだろう。それは何かと揉めた後、来た道を逃げるように森林の入口に引き返している。
わたしはそれを辿って走り、森林から出る。
そこは整備されたコンクリートの道。
当然、土の地面のように足跡が残っているはずがない。
しかし幸運なことに泥の付着した靴で走っているのだ。僅かに靴から剥がれた泥がどちらの方向に向かったのかを示していた。
おそらく体育館の方向。
体育館の回りの地面はほとんどコンクリートではなく土になっているので足跡が見つかるはず。
わたしは再び走りだした。
残された僅かな手がかりを頼りに、体育館近くにある噴水の広場までたどり着いた。
電灯がうっすらと光を照らすそこに人影が一つ。
やっと追い付いたのだろうか。それに近付く。
わたしに対して背を向ける形になってしまっているが、はっきりとわかる。あれは、間違いない。
「レンちゃん」
そこには空を見上げたレンちゃんがいた。
ただ、その状態のまま動かないでいる。
わたしは走って近付いていく。
「──レンちゃん!」
と叫んだ。
レンちゃんはわたしの声に気が付いたのか、こちらに振り向く。
動きが妙にぎこちなかった。
「あ、ああ──」
微かに聞こえたその声はまるで何かに怯えているようだった。声ははっきりと出ておらず、その顔は恐怖で歪んでいる。目尻には涙を浮かべていた。そして、首を左右に振っている。
こっちに来ちゃだめ。
そう表現しているかのようだった。
わたしはそれに従いそこで立ち止まり、訊く。
「ここで何をして……、え?」
訊くまでもなかった。
息を呑む。
わたしが驚いたのはレンちゃんがここにいたことや彼女の表情、そして行為ではない。
「──そんな」
目を丸くする。
それはレンちゃんの向こう側に浮遊していた。
「──死神だ」
以前に見たものと同個体なのだろうか。もしそうなら情報がある分有利に立ち回れるかもしれない。
とは言え複雑な心境だった。
レンちゃんが死神に襲われそうになっている、ということは彼女は死神の魔術師ではないということを意味してくれている。
しかし、それは同時に死神がまた、今までの人と同じように魂を狩ろうとしていることを意味しているのだ。
その標的はレンちゃん。最悪な状況と言える。
この状況をどうするか考えようとするも、当然、死神がそんな時間を与えてくれるはずがない。
死神は一直線にレンちゃんへと飛びかかる。
レンちゃんは恐怖で足が振るえ動けないようだった。これでは一人で逃げることはできない。なんとしてでもレンちゃんを守らなければ。
そのために今できるであろう案が三つある。
一つはレンちゃんを抱え、一緒にこの場から全力で逃げること。
しかし、その場合おそらく移動する速度が大幅に下がってしまう。死神の移動速度は以前の戦闘から承知している。
少なくともわたしとロイドくんの眼を欺き、瞬時に後ろに回り込むくらいだ。その時点でこれを行うのは危険だった。
二つ目は死神をここで倒すこと。
もし、それが叶うのなら、今まで起こった事件について何かしら手がかりをつかめるかもしれない。加えて二人とも助かる。
しかし、それを成し得るためには死神の相手をロイドくん無しの一人でしなければならない。悔しいけれど今のわたしでは勝つことはおろか、数分の足止めが限度だろう。よって、この案も却下。
それならば最後の一つ。
数分が限度だというその足止めをする。
わたしが囮になってその隙にレンちゃんを逃がした後、自分も戦線から離脱する。
レンちゃんと一緒に逃げることはできないけれど、二人とも無事に帰るためには最も可能性のある案のはずだ。
「──レンちゃん、ここから逃げて!」
手に握っていた懐中電灯を捨て、肩に掛けた鞄の中から二本の短剣を取り出して手にする。そして死神とレンちゃんの間まで瞬時に移動した。
標的をわたしに変えるために。
しかし──
地を蹴り、死神を斬るために踏み込む。
死神は動きを止めることなく進んでくる。
持っている鎌で防御する姿勢すらとらずに。
短剣が死神を切り裂いた。
これで動きを一時的にでも止めることができる。
はずだった。
──それは間違いだった。
「嘘、でしょ……」
死神はわたしの攻撃をすうっと文字通りすり抜ける。短剣はしっかりと当たったはずのなのに、それ切り裂くことはなかった。
わたしは大きな勘違いをしていた。
あの時死神が消えたように見えたのは死神の移動速度が速かったからではない。
今のように自身の姿を煙のように変化させ、消えることができたからなのだ。
攻撃が当たらなかったことで体勢が崩れ、視界から外れた死神の反撃を警戒する。
だが、死神の狙いはわたしではなかった。
そもそも、わたしのことなど最初から眼中になかったのだ。
「いやあああ!」
背後から叫び声が聞こえる。
そして、スパッと空気と共に切り裂かれる音。
もう悲鳴は聞こえない。
おそるおそる振り向けば、そこには仰向けに倒れて動かなくなったレンちゃんと、緑色の鮮やかな光を放つ球体を手にする死神の姿があった。死神は動かず、その球体をゆっくりと吸収していく。
一番恐れていたことが起こってしまった。
「……レン、ちゃん」
動かなくなったレンちゃんのもとへと歩み寄る。
足が崩れ膝を地面につく。
レンちゃんの肩を優しく揺する。
「ねえ、レンちゃん……」
強く揺すった。
「起きてよレンちゃん」
それでも、目が開くことはなかった。
何の抵抗もないそれは壊れた人形のようでもあった。
「返事、してよ……」
レンちゃんをそっと抱きしめた。
目の奥が熱い。
身体全体の震えが収まらない。
上手く呼吸ができない。
呼吸困難になりそうだ。
球体を完全に吸収し終えた死神は再び鎌を構え、今まさにわたしの魂をも奪おうとしている。
レンちゃんと同じように。
わたしは一体どうすれば──
「──そこまでだ」
聞き覚えのある声がした。
同時に死神が声のもとへと飛んでいく。
力なく顔を上げるとその先には見惚れてしまいそうなくらい美しく、それと同時に禍々しい雰囲気を醸し出している銀色の髪をした男がそこに存在していた。
死神はその男の横につき、じっとしたまま動かない。
「まさか、──」
その銀髪の男を、死神を従える魔術師をわたしは知っている。
「ロイドくん、なの?」
何故か髪の色は違ったが間違いない。その声その顔は確かにわたしの知っているロイドくんの物だった。
ロイドくんは雨だというのに傘を差さずに立っている。しかし、その身体が濡れることはなかった。雨がまるでその身体を避けているかのように地面に落ちていく。
「ああ、そうだ。命拾いしたな。もし俺が止めていなければ今頃その女と同じ状態になっていただろう」
と冷静な口調でそう言った。
「ねえ、ロイドくん。そこで何してるの?」
その問いにロイドくんは何も答えず、ただわたしを見下すだけ。
「ロイドくん、危ないよ。早く離れないと死神が」
そんなわたしの言葉にロイドくんは呆れたのか溜め息を吐く。
「おまえは何を言ってるんだ。いい加減に現実を見ろ。おまえが追ってきた死神の魔術師はこの俺だ。そして、人々の魂を奪ってきたのもこの俺だ」
「そんなの嫌だよ。嘘だと言ってよ」
信じたくなかった。
彼はわたしと一緒に死神と闘った。わたしと一緒に死神の魔術師を探した。そして彼は死神からわたしを守ってくれた。
そんなロイドくんをわたしの真の敵だとは思いたくなかった。
わたしの前から消えた時からも、ずっと──
正体を予想できたあとでも、ずっと──
真実から目を逸らそうとしていた。
「嘘じゃないさ。おまえの目に映る光景こそ、おまえの求めていた解答だ」
「それじゃあ、ロイドくんは今までわたしを騙してたってこと?」
「ああ、そう言うことになるな。だが仕方のないことだ」
「仕方がないって何なの? いったい何が目的なの? 何故レンちゃんを襲ったの?」
声は震えていた。この状況に恐怖していた。
自分の愚かさに。あのロイドくんが敵に回ったことに。
そして、レンちゃんを守れなかった弱さに。
それでもわたしは動かなくなったレンちゃんを庇うように抱き締め、必死にロイドくんに対峙する。
「ロイドくんの目的が何なのか知らないけど、魂を奪うのはレンちゃんじゃなくてもよかったでしょ。この時間、わたしとレンちゃんはほとんど同じ場所にいた。それなら、この事件を調べていたわたしでも、ロイドくんのことを知っているわたしでもよかったじゃない」
ロイドくんは静かに首を横に振る。
「それは無理だ」
「どうして?」
「おまえは魔術師ではなく能力者だ。俺の目的を言うつもりは毛頭ないが、一つだけ答えるならば現段階で儀式に異能の力を混ぜるわけにはいかないんだ。魔術とは異なる力が混ざると儀式の準備に影響が出る。それだけは避けたかった。だから死神に襲わせることを止めた。あの広場での闘いで暴走した死神からおまえを庇ったのも同じ理由だ。旧校舎の入口では少し危なかったが、うまく避けてくれて助かったよ」
ロイドくんは口を歪める。
ぐっと歯を噛み締めた。もし、わたしがあの時に死神の手にかけられていたのなら……。いや、ロイドくんの言い様からしてそれは無駄な行為だっただろう。おそらく儀式の遅延が関の山だ。
わたしは何も言い返せなかった。
ロイドくんは続ける。
「それに見ただろ? 旧校舎のあの黒い靄。あれはおまえという邪魔者を起動したばかりの不安定な状態にある儀式場に近付けさせないために張った結界だ。まさか最後に必要な能力者がこの学園の生徒だったなんてな。ここに来て初めて知ったよ。だが、それだけではそこで倒れている女子生徒を襲った理由として納得してくれないだろう」
そこで、と逆に訊ねられた。
「この娘は何故こんな時間にあの場所にいたんだろうな。何故ひとりでここまで来ようとしたんだろうな。おまえも薄々勘づいているはずだ」
それは……
わたしはレンちゃんがこの事件の関係者ではないかと疑ってしまっていた。だから寮に帰って来なかったことで、もしかすると旧校舎で何かしようとしていたのかと。
誰にも行き先を告げずに、ひとりで。
でも違った。死神に襲われた。
じゃあ何故?
こんな時間に?
「──そうか……」
ひとつだけ思い浮かんだ。
「まさか、レンちゃんも事件を調べてたって言うの?」
その言葉に目の前の男はふっと静かに微笑する。
「その通りだ」
「でも、レンちゃんは魔術なんて知らないはず」
「だろうな。この女子生徒自身からは全く魔力を感じなかった。それにおまえの言うことが真実なら魔術の存在自体知らないのだろう。だとすると、なかなかに恐ろしい奴だ。これは俺の失敗でもあるが、彼女は俺の回収し損なった礼装の欠片を見つけ出した。これでまた一つピースが繋がったのだろう。魔術の知識なしでここまでたどり着いたのだから、恐ろしいとしか言い様がない。
ただ、魔術の世界と全く関係のない者だったが故に本来なら彼女のことは放っておいてよかった。しかし彼女は俺の計画にあまりにも近付き過ぎた。放っておけばそのうち魔術の存在、そして街中で騒がれている事件の真相を知られていたかもしれない。だからそうなる前に始末した」
「──ふざけないでッ!」
気がつけばレンちゃんを地面に寝かし、ロイドくんの目の前まで詰め寄り首に短剣を当てていた。
あとは腕を引くだけで──
「怖いことをする。そんなに怒る必要はないだろ。醜い魔術の世界を知る前に、幸せな一般人として昏睡させてやったんだ。ここはむしろ俺に感謝するべきじゃないのか」
この状況でもロイドくんは余裕な口調を崩すことはなかった。
「頭がどうかしている。他にいくらでも方法はあったはずでしょ。今すぐレンちゃんを、皆を元に戻して!」
「それは無理な相談だな。俺は今さらこの計画を中止することはできない」
そう言ってロイドくんは短剣を持つ腕を掴む。それに反応できなかった。
全く自分の意思で動かせない。痛い。思い切り力を入れてもびくともしない。
ロイドくんはわたしの腕を軽々と押し返す。その力で後ろによろけてしまい数歩だけ後退してしまった。
今ならわたしを倒すことなど造作もなかったはずだった。しかし、ロイドくんはそうしなかった。
「今ここでおまえとやり合うつもりはない。あくまで俺はこの使い魔を止めに来たにすぎないんだ。だが、本当に眠っている者たちを助けたいというのなら相手にはなろう。もちろん旧校舎の講堂だ。ただし来れればの話だがな。儀式が始まるまでは待ってやる。その時までは逃げも隠れもしない」
ロイドくんは踵を返し立ち去ろうとする。
「だが、まだ魔力が少し足りないのでな。もしかしたらあと一人は襲うかもな。──そうだな。儀式開始までにお前が来なかった、またはおまえが俺に挑んできたとして、その結果俺が勝利したなら……」
こちらに振り返ったロイドくんの口がにやりと歪む。
「おまえと一緒にいるもう一人の親友ってのを標的にしてやろう」
そう言ってからははは、と微笑するロイドくん。
わたしは初めてロイドくんの微笑みが悪魔のそれに見えた。
はっと息を飲み嫌な汗が流れる。
この場から去っていくロイドくんに「待って!」と叫び、肩を掴もうとするも、手がその肩に触れることはなくただすり抜けるだけだった。死神と同じように。
ロイドくんはついに煙のように消え去った。
何もできなかった。
全身の力が抜け体が崩れ落ちる。
雨の降る電灯の下、残ったのはわたしと動かなくなったレンちゃんだけだった。