地下世界の暗躍者達 - あるいは被害者達 -
薄暗い廊下を一人の男が歩いていた。
場所はひかり市の市政的な中心であるところの市庁舎。
その地下、普通に市庁舎に努めている市の公務員達は存在すら知らない奥深く。
窓のない地下の廊下。予算節約のためか、かなり開いた間隔で設置されている白熱灯に照らされた通路は暗い。
どこからか湿気が入っているのか湿度が高く、そのくせ暖房はしっかりと効いているのだから蒸し暑い。
男はネクタイを緩めて、シャツの中に空気を送り込む。
オールバックにした髪。横幅がなく、縦にひょろりと長い体を黒のスーツに身を包んでいる。
廊下の壁際に重ねられたダンボール。
そこには資料室に入りきらず、そもそも整理する人員すら不足している中で放置された紙資料が詰まっている。
中には日本政府がひた隠しにしてきた機密文書なるものもあった。
だが、それは今は徐々に湿気に冒されるままとなっているのが現状。長年、その資料を集めて纏めてきた人物がこの扱いを見たら卒倒するだろう。
だが今はそこに書かれた内容よりも、より詳細でより実益的でより具体的な最新情報を解析整理するのに手一杯だ。
無駄に長い廊下を歩いて、男は一つの扉の前で立ち止まった。
扉の横のネームプレートには『軌道エレベーター関連事業対応室』と書かれていた。
男は胸ポケットからカードキーを取り出して、セキュリティに通す。
更には暗証番号を入力、その際にボタンに触れる指から指紋で本人かをチェック。
ついでに声帯検査で口頭で二つ目のパスワードを言って、ようやく扉の鍵が開く。
警備が厳重なのは良いことだが、給湯室やトイレはこの部屋の外にあるので、そこに行く度にいちいちこの認証をしなくてはいけないのが面倒なことこの上ない。
扉を開けると、一気に周囲が騒がしくなった。
この部署の人間が口々に喋っているバラバラな内容の言葉が音の波となって男を包む。
もっとも、普段はここまで騒がしくはない。むしろ、この部署は暇を持て余すぐらい平和なのが常の姿である。
だが昨日の出来事のせいで、その平穏は終わりを告げた。
責任者である男への連絡が朝になるまで遅れたのも、完全に気が弛んでいた証拠だ。
部屋に入ってきた男に、彼の助手であるこの部署のナンバー二が、あからさまにほっとした表情をする。
「おはようございます、防人さん」
「状況は?」
朝の挨拶をしてくる助手に、それを返さず男――防人薫は報告を求めた。
助手の方も特に気にした様子もなく手にした書類へと目を落とす。
てんでばらばらに入ってきた情報を彼なりに纏めていたのだろう。読み上げた内容はそれなりに整理されていた。
「本日午前二時未明、なごり側河口付近で《真共産主義共同体》と《超能力開発機構》の戦闘と思わしきものが発生しました」
「は? 《真共産主義共同体》と《超能力開発機構》だって?」
電話では異星人同士の戦闘としか聞いてなかった防人は目を丸くした。
「間違いないのか」
「はい、現場と思わしき河川敷でプレセンス光の残留と、《真共産主義共同体》の機動兵器と思わしき未知の物質で作られた機械部品が発見されました。
同時刻、国道を原動機付き自転車を追って走るトレンチコートの男達――恐らく《真共産主義共同体》のロボットだと思われますが、その姿も確認されています」
「人様の星の上で好き勝手な――《真共産主義共同体》はどう言ってるんだ」
「《超能力開発機構》によるテロリズムを未然に防いだと。
……こちらから問うよりも先に向こうの方から、そう連絡を入れてきました」
防人は舌打ちした。
先手を打たれた。現在のところ地球人類が接触できる異星人が《真共産主義同盟》だけである以上、そう宣言されてしまえばその言い分を信じる他はない。
ポケットから禁煙パイポを取り出して咥える。
市庁舎は随分前から全館禁煙になっていて、それはこの地下の秘密基地も例外ではなかった。
「ああ、それと……《革新者》との戦闘の影響で故障したのか、機動兵器が一体連絡途絶したそうで、もし発見したら連絡してほしいとのことです」
「なんだって?」
思い出したように言った助手の言葉に、防人は咥えたばかりの禁煙パイポを取り落とした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
走の家のすぐ近くの道端を、ズリズリと動くものがあった。
道行く小学生などが不気味そうにそれを眺める。
それは巨大な《貌》だった。
深夜、走によって斬り飛ばされた《ベーゴマ》の頭部。それがズリズリと下顎のない口で地面を噛んで前進しようとしている。
その体は水で濡れていた。
まるでナメクジが通った跡のように、《貌》が通った道のりは地面が濡れていた。
根源を辿れば、ここのすぐ傍の船着場へと到達する。斬り飛ばされてなごり川に落ちた《顔》は、一度海まで流されてから走の家の近くまで水中を移動してきたのだった。
時折、立ち止まっては何かを考えるような挙動をする、その指先が目指すのは――。
『イヌ』が突然現れた異形の存在にワンワンと激しく吠えていた。
白色家。《貌》の目的地はそこだった。
走を狙うという目的を頭だけになっても果たそうとしているのだろう。
すでに走は学校へと出掛けているが、今の今まで水中にいた《貌》がそれを知るはずもない。
しかし、ついに目的地という段になって《顔》は何かに気付いたようにその歩みを止めた。
何かを迷うようにソワソワと周囲の様子を窺う。
そして、ふいに自分に向かって吠えている『イヌ』をじっと見詰める。
その視線に『イヌ』がピタリと吠えるのを止めた。
ゆっくりと近付いてくる《貌》。『イヌ』は尻尾を丸めて逃げようとするが、鎖に繋がれている以上、それは叶わない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「こらぁ、うるさいよ『イヌ』。近所迷惑でしょ」
無駄吠えするイヌを叱ろうと、玄関を開けたダイリは動きを止めた。
「……あれ?」
そうして、眉を寄せる。
『イヌ』がいない。我が家の飼い犬がいつも鎮座している玄関のすぐ脇、地面に刺さった杭と、『イヌ』の首輪を結んでいるはずの鉄製の鎖が途中からプッツリと千切れていた。
ダイリは少し慌てた様子で庭に出て、キョロキョロと周囲を見回し始める。
「何やってんの?」
その時、メイド服姿のレオ美が玄関から顔を覗かせた。落ち着きのないダイリを不審気な瞳で見る。
「いや、あの。レオ美さん、ここにいた『イヌ』、見ませんでした?」
「犬? 私は知らないなぁ?」
さして興味もなさげに言って、レオ美は原付の前篭に持っていた小さな風呂敷包みを放り込む。
ヘルメットを被ると、原動機付き自転車のエンジンを始動した。
昨日壊れたはずのバイクが直っていた。
レオ美は『イヌ』を繋いでいた千切れた鎖を横目で一瞥してニヤリと笑う。
「ちょっと走君に弁当を持っていってくるよ。ダイちゃんの分は食器棚の中に入ってるからお昼はそれを食べとくれ」
「あの……」
「それじゃ」
ダイリの言葉を最後まで聞かず、アクセルを吹かす。
完全停止状態からコンマゼロ秒で法定速度ぶっちぎりまで加速。
原動機付き自転車とは思えない加速をして、レオ美のバイクは走り出した。
エンジン音を響かせて、あっという間に見えなくなるレオ美。
その背中を呆然と見送った後、ダイリはボソリと呟いた。
「走君の学校、給食なんだけど……」
ボリボリと頭を掻いてから、思い出したようにトロトロと歩き出す。
「……『イヌ』、探さなきゃ」