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超絶イケメン殿下に婚約破棄された公爵令嬢は、辺境の伯爵夫人になっても殿下が忘れられませんの

作者: 伊織
掲載日:2026/10/20



「マリアンヌ。君との婚約を破棄したい」


 十年間、恋い慕ってきた婚約者から告げられた言葉は、あまりにも唐突だった。


 王宮の応接室には、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。磨き上げられた大理石の床には窓枠の影が落ち、卓上の銀器は一点の曇りもなく輝いている。


 いつもと変わらない、穏やかな午後。


 ただ一つ、目の前に座る男性の言葉を除いては。


「……婚約を、破棄?」


 マリアンヌ・フォン・エルヴェシウスは、手にしていたティーカップをソーサーへ戻そうとした。


 かちゃり、と耳障りな音が響く。


 どうやら手が震えているらしい。


「突然のことで申し訳ないと思っている」


 向かいに座るカルセドニー第一王子は、いつもどおり穏やかな声で言った。


 陽光を受けて輝く金色の髪。澄んだ青い瞳。彫刻家が生涯を費やしても再現できないだろうと思えるほど、整った顔立ち。


 幼い頃から、その美しさに見惚れない日はなかった。


 そして、マリアンヌが彼を愛している理由は、決して容姿だけではない。


 カルセドニーは優しい人だった。


 相手が侍女であろうと馬丁であろうと、決して声を荒らげず、言葉を選び、誰も傷つけないように振る舞う。


 マリアンヌが舞踏会で転んだときも、彼は笑わなかった。


 ダンスの最中に三度も足を踏んでしまったときも、嫌な顔一つしなかった。


 そんな彼が、今、婚約を破棄すると言っている。


「私に何か至らないところがございましたか?」


「いや。君は何も悪くない」


「では、どうして……」


 カルセドニーはわずかに目を伏せた。


「王家の都合で、君を妃として迎えられなくなったんだ」


 王家の都合。


 なんとも便利な言葉だと、マリアンヌは思った。


 カルセドニーは昔から、相手を傷つける言葉を嫌う。


 きっと本当の理由は別にあるのだろう。


 例えば、他に好きな女性ができたとか。


 あるいは、マリアンヌのような不器用な娘では、未来の王妃として心許ないと判断されたのかもしれない。


 思い当たる節なら、いくらでもあった。


 公爵令嬢としての教育は一通り受けている。礼儀作法も語学も歴史も、それなりに身につけてきたつもりだ。


 けれど、どうにも体を動かすことが苦手だった。


 乗馬の授業では馬に振り落とされ、舞踏会ではドレスの裾を踏み、庭園を散歩すれば何もないところでつまずく。


 おまけに、気を抜くと所作まで雑になる。


 母からは何度「もう少しお淑やかになさい」と叱られたことか。


 そんな自分より、もっと王妃にふさわしい女性が現れたとしても不思議ではない。


「……承知いたしました」


 マリアンヌは膝の上で両手を握りしめた。


「これまで、大変お世話になりました」


「マリアンヌ……」


「どうか、お幸せに」


 笑顔を作ったつもりだった。


 けれど、カルセドニーがひどく苦しそうな顔をしたので、きっと失敗したのだろう。


 これ以上、彼を困らせたくはなかった。


 マリアンヌは立ち上がり、深く一礼した。


 そして、応接室を出ようとした、そのときだった。


「待ってくれ。もう一つ、話がある」


 振り返ると、カルセドニーは何かを決意したように顔を上げていた。


「君の今後についてだ。私の幼なじみで、辺境に領地を持つ伯爵がいる」


「……はい?」


「ユリウス・フォン・アルテンベルク。年齢は三十歳。誠実で、信頼できる男だ」


 マリアンヌは瞬きをした。


 なぜ今、見知らぬ伯爵の紹介をされているのだろう。


「彼に、君を妻として迎えてもらいたい」


「…………はい?」


 今度こそ、何を言われているのかわからなかった。


 婚約破棄を告げられた直後に、別の男性との結婚を勧められている。


 しかも、相手は辺境の伯爵。


 王太子妃となりいずれは王妃になるはずだった公爵令嬢が、地方の伯爵夫人になるというのだ。


 マリアンヌはしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて小さく頷いた。


「……わかりました」


「本当に、いいのかい?」


「殿下がお決めになったことですから」


 そう答えた瞬間、カルセドニーの表情がまた曇った。


 けれど、マリアンヌにはその理由がわからなかった。


 ただ、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくような気がした。


 十年間、大切に抱えてきた未来。


 それが、たった一度の午後のお茶会で、すべて消えてしまったのだった。


     *


「ふざけるな!!」


 エルヴェシウス公爵家の執務室に、父の怒号が響き渡った。


 机を叩いた衝撃で、積み上げられていた書類が数枚床へ滑り落ちる。


「婚約破棄の上に降嫁だと!? いくら王家と言えど、我が公爵家を侮辱するにも程がある!」


「お父様、どうか落ち着いてください」


「これが落ち着いていられるか!」


 父は顔を真っ赤にしていた。


 普段は温厚で、使用人たちからも慕われている人物である。それだけに、これほど激怒する姿を見るのは久しぶりだった。


「王太子妃として育ててきた娘を、突然不要だと言い渡し、挙げ句の果てに辺境の伯爵へ嫁がせるなど! 我が家の面目を何だと思っている!」


「でも、お父様。私にも至らないところはございましたし……」


「どこにだ!」


「その……乗馬ができませんし」


「乗馬!?」


「ダンスも得意ではありませんし、少々ガサツですし」


「それが何だというのだ!」


「王妃になるには、もう少し優雅な女性のほうが……」


「マリアンヌ!」


 父は娘の肩に両手を置いた。


「よく聞きなさい。お前が馬に乗れようと乗れまいと、多少ガサツだろうと、それは婚約を一方的に破棄してよい理由にはならん!」


「……はい」


「そもそも、お前の成績は優秀だったではないか。王妃教育の教師たちも、知識と判断力については申し分ないと褒めていた!」


「ありがとうございます」


「礼を言うところではない!」


 父は深いため息をつき、椅子に腰を下ろした。


 その姿が、急に十歳ほど老けて見えた。


「……お前は、本当にそれでよいのか」


 先ほどまでの怒声とは打って変わって、静かな声だった。


 マリアンヌは答えられなかった。


 よいはずがない。


 本当は今すぐ王宮へ戻って、カルセドニーに尋ねたかった。


 どうして私では駄目なのですか。


 他に好きな方ができたのですか。


 私は、あなたのおそばにいてはいけないのですか。


 けれど、そんなことを言って、彼を困らせたくなかった。


「……殿下が幸せになれるのでしたら」


 それだけを口にした。


 父は何も言わず、しばらく娘を見つめていた。


 やがて、そっと目元を押さえた。


「お前は昔から、妙なところで聞き分けがよすぎる」


 その言葉を聞いた途端、マリアンヌは泣きそうになった。


 けれど、泣かなかった。


 泣いてしまえば、父はもっと怒るだろう。


 だから、いつものように笑ってみせた。


「辺境には広い牧草地があるそうですわ。乗馬の練習にはちょうどよいかもしれません」


「……まったく、お前という娘は」


 父は天井を仰いだ。


 その日のうちに、公爵家から王宮へ抗議の書簡が送られた。


 しかし、王家の決定が覆ることはなかった。


     *


 それから一か月後。


 マリアンヌは、辺境へ向かう馬車に揺られていた。


 窓の外には、王都では見られない景色が広がっている。


 石畳の街道はいつしか土の道へ変わり、整然と並ぶ建物の代わりに、緑の丘陵がどこまでも続いていた。


 遠くには青みがかった山々が連なり、その麓には小さな村が点在している。


 秋の風は少し冷たかったが、空気は驚くほど澄んでいた。


「まあ……」


 マリアンヌは思わず窓から身を乗り出した。


「なんて広いのでしょう!」


「お嬢様、お顔を出しすぎです!」


 向かいに座る侍女のリーナが慌てて声を上げる。


「危のうございます!」


「少しだけですわ!」


「少しでも危のうございます!」


 その直後、馬車が小さな石を踏んだ。


「きゃっ!」


 勢いよく座席へ転がり戻ったマリアンヌを、リーナが呆れた顔で見つめる。


「……ですから申し上げましたのに」


「ええ。あなたの言うとおりだったわ」


 マリアンヌは乱れた髪を整えながら、苦笑した。


 王都を離れてから、もう三日が経っていた。


 婚約破棄の話は、出発する頃には貴族社会に広まっていた。


 王太子に捨てられた公爵令嬢。


 辺境へ追いやられた哀れな花嫁。


 そんな噂が囁かれていることも、耳に入っている。


 けれど、マリアンヌは不思議と腹を立てる気にはなれなかった。


 ただ、カルセドニーの顔を思い出すたび、胸が締めつけられた。


 彼は今頃、何をしているのだろう。


 新しい婚約者は、もう決まったのだろうか。


 もし決まっているのなら、きっと美しく、優雅で、何でもそつなくこなす女性なのだろう。


 そう考えると、喉の奥が苦しくなった。


「お嬢様」


 リーナが遠慮がちに声をかける。


「……大丈夫よ」


 マリアンヌは微笑んだ。


「これからは、伯爵夫人として頑張らなくてはね」


 そう口にして、窓の外へ目を向ける。


 道の向こうに、一頭の馬が見えた。


 栗毛の美しい馬だった。


 騎乗している若者は軽やかに手綱を操り、風を切るように丘を駆けていく。


 マリアンヌは思わず感嘆の息を漏らした。


「……あんなふうに乗れたら、気持ちがよさそうね」


 幼い頃、乗馬の授業で何度も失敗したことを思い出す。


 一度など、馬が少し歩いただけで怖くなり、泣きながら降ろしてもらった。


 以来、馬には苦手意識があった。


 けれど、ここなら。


 これほど広い土地があるのなら、人目を気にせず練習できるのではないだろうか。


 そんな考えが、ふと頭をよぎった。


     *


 アルテンベルク伯爵邸は、想像していたよりもずっと立派な屋敷だった。


 灰色の石造りの外壁には蔦が這い、赤茶色の屋根が秋空に映えている。


 広い前庭には色とりどりの花が植えられ、中央には小さな噴水まであった。


 王都の公爵邸ほど華美ではないが、手入れが行き届いた、美しい屋敷だった。


 馬車が玄関前に停まる。


 マリアンヌが降りようとした、そのとき。


「おーい! 着いた!? もう着いた!?」


 屋敷の中から、妙に明るい声が聞こえてきた。


 続いて、勢いよく玄関扉が開く。


 一人の男性が飛び出してきた。


 茶色い髪に、親しみやすい顔立ち。背は平均より少し高い程度で、服装も質素だった。


 王宮で見慣れた華やかな貴公子たちとは、ずいぶん雰囲気が違う。


 けれど、その表情は驚くほど明るかった。


「いやあ、ようこそ! 長旅お疲れさま!」


 男性は馬車の前まで駆け寄ると、満面の笑みを浮かべた。


「ボクがユリウス・フォン・アルテンベルク。今日からキミの夫になる男だよ!」


「は、初めまして。マリアンヌ・フォン・エルヴェシウスと申します」


「知ってる知ってる! いやあ、本当に来たんだねえ!」


「……え?」


「だって、王太子の元婚約者だよ? しかも公爵令嬢! そんな人が、こんな田舎の伯爵に嫁いでくるなんて、普通は思わないでしょ!」


 マリアンヌは返す言葉を失った。


 本人を前にして、そこまで率直に言うものだろうか。


「正直、最初に話を聞いたときは冗談かと思ったよ。カルセドニーも無茶なことするよねえ」


「……殿下とは、幼なじみでいらっしゃるのですよね」


「そうそう! 昔からの腐れ縁。あいつ、顔はいいけど、何考えてるかわかんないところあるでしょ?」


「そ、そんなことは……」


「あるよねえ?」


 ユリウスは楽しそうに笑った。


 マリアンヌは呆気に取られてしまった。


 カルセドニーについて、こんなふうに遠慮なく話す人間を初めて見た。


 王宮では誰もが彼を敬い、慎重に言葉を選ぶ。


 けれど、目の前の伯爵はまるで近所の友人の噂話でもするように、次期国王のことを語っている。


「まあ、立ち話も何だし、中に入ろうか!」


 ユリウスはそう言って、マリアンヌへ手を差し伸べた。


 彼女がその手を取ると、男性は少しだけ表情を和らげた。


「改めて、ようこそ。マリアンヌ」


 先ほどまでの軽薄にも聞こえる口調とは違う、穏やかな声だった。


「ここでは、無理して立派な伯爵夫人になろうとしなくていいからね」


 マリアンヌは目を瞬かせた。


「……よろしいのですか?」


「もちろん。ボクだって立派な伯爵かって言われたら、かなり怪しいし!」


 そう言って、ユリウスは声を上げて笑った。


 マリアンヌも、つられて小さく笑ってしまった。


 婚約破棄を告げられて以来、誰かの前で自然に笑ったのは、これが初めてだったかもしれない。


     *


 その日の夕食は、思いがけず賑やかなものになった。


 食卓には、香草を添えた鶏の丸焼き、茸のクリーム煮、焼きたてのパン、秋野菜のスープが並んでいた。


 どれも素朴ながら、丁寧に作られた料理だった。


「どう? 口に合う?」


「はい。とても美味しいです」


「よかった! うちの料理長、腕はいいんだけど、褒めるとすぐ調子に乗るんだよね」


 そう言いながら、ユリウスは鶏肉を豪快に切り分けた。


「だから普段はあんまり褒めないようにしてる」


「まあ。それは少々お気の毒では?」


「そうかな? じゃあ明日は褒めてみようか。たぶん三日くらい機嫌がよくなるよ」


 マリアンヌはくすくすと笑った。


 ユリウスとの会話は、不思議と気楽だった。


 彼は遠慮がない。


 思ったことをすぐ口にするし、時には少々失礼なことまで言う。


 けれど、不快ではなかった。


 むしろ、何を考えているのかわかりやすい。


 その率直さが、今のマリアンヌにはありがたかった。


「そういえば、王都は最近ずいぶん騒がしいらしいね」


 ユリウスがスープを口に運びながら言った。


「第二王子殿下の支持者たちが、また何か揉めているとか」


「……そうなのですか?」


「うん。王位継承の話って面倒だよねえ。カルセドニーが第一王子なんだから、そのまま継げばいいのに」


「殿下は、以前からお忙しそうでした」


「だろうね。あいつ、昔から何でも一人で抱え込むところがあるし」


 ユリウスは何気なく言った。


 マリアンヌは手元のスプーンを見つめた。


 カルセドニーが忙しそうにしていたことは、彼女も知っている。


 婚約破棄の少し前から、会う機会も減っていた。


 何か悩みがあるのかと尋ねても、彼はいつも「心配しなくていい」と微笑むばかりだった。


 きっと、王家の仕事が大変だったのだろう。


 マリアンヌはそう考え、静かにスープを飲んだ。


 温かな味が、胸の奥に染み渡った。


     *


 夕食後、マリアンヌは侍女に案内されて寝室へ向かった。


 長旅の疲れもあり、早めに休むつもりだった。


 案内された部屋は、南向きの大きな窓を備えた、美しい寝室だった。


 淡いクリーム色の壁紙に、花模様の絨毯。天蓋付きの寝台には、真新しい白いシーツが整えられている。


 窓辺には小さな花瓶が置かれ、薄紫色の花が飾られていた。


「まあ……素敵なお部屋」


 マリアンヌは思わず声を漏らした。


「お気に召していただけましたか?」


 背後からユリウスの声がした。


 振り返ると、彼は扉のところに立っていた。


「はい。ありがとうございます」


「よかった。王都のお屋敷と比べたら見劣りするだろうけど、できるだけ居心地よくしたつもりなんだ」


「そんなことはございません。本当に素敵です」


「そりゃ何より!」


 ユリウスは満足そうに頷いた。


 そして、何でもないことのように言った。


「じゃあ、おやすみ!」


「……え?」


「ん?」


 マリアンヌは思わず寝台を見た。


 それから、ユリウスを見る。


「あの……ユリウス様は?」


「ボク? 隣の部屋だけど」


「隣の……?」


「うん。寝室は別にしてあるよ」


 あまりにもあっさりとした返答だった。


 マリアンヌは目を丸くした。


「ですが、私たちは夫婦に……」


「なったねえ」


「でしたら、その……」


 言いかけて、頬が熱くなる。


 婚姻の儀は王都で済ませていた。


 つまり、今夜は本来なら初夜にあたる。


 マリアンヌとて、その程度の知識はある。


 嫁ぐ前には母からも、夫婦としての務めについて説明を受けていた。


 覚悟もしていた。


 もちろん、恐ろしくなかったと言えば嘘になる。


 カルセドニー以外の男性に触れられることを想像するだけで、胸が苦しくなった。


 それでも、妻となった以上は務めを果たさなければならない。


 そう思っていたのだ。


 ところが、ユリウスはきょとんとした顔をしている。


 やがて、何かに気づいたように「ああ!」と声を上げた。


「初夜のこと?」


「っ……!」


 あまりにも直接的な言葉に、マリアンヌは真っ赤になった。


「そ、そんな大きな声で!」


「え? だってそういう話でしょ?」


「そうですけれど!」


 ユリウスは笑った。


 そして、少しだけ真面目な表情になった。


「大丈夫。無理に夫婦らしいことをするつもりはないよ」


「……え?」


「キミ、まだカルセドニーのことが好きなんでしょ?」


 心臓が、どきりと跳ねた。


 否定しようとした。


 けれど、言葉が出てこなかった。


 ユリウスはそんなマリアンヌを見て、困ったように笑った。


「まあ、そりゃそうだよね。十年も婚約してたんだし。昨日今日で忘れろってほうが無茶だよ」


「……申し訳、ございません」


「だから、なんで謝るの?」


 ユリウスは首を傾げた。


「ボクはキミを妻として迎えたけど、だからってキミの気持ちまで勝手にもらえるわけじゃないでしょ」


 その言葉に、マリアンヌは顔を上げた。


 ユリウスはいつもの明るい表情で続けた。


「夫婦なんだから、そのうち仲良くなれたら嬉しいけどね。まずは友達からってことで!」


「……友達、ですか?」


「そう! 夫婦で友達! なかなか面白いでしょ?」


 そう言って笑うユリウスを、マリアンヌはしばらく見つめていた。


 不思議な人だと思った。


 言葉遣いは遠慮がなく、冗談ばかり言っている。


 それなのに、肝心なところでは驚くほど紳士的だった。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 その感覚は、遠い昔に覚えがあった。


 十歳年上だった兄。


 幼いマリアンヌが転ぶたびに笑いながら手を差し伸べ、失敗しても「次はうまくやればいいさ」と励ましてくれた人。


 もう、この世にはいない人。


 ユリウスの明るい笑顔が、一瞬だけ兄の面影と重なった。


「……ありがとうございます、ユリウス様」


 マリアンヌは心から礼を言った。


「こちらこそ。これからよろしくね、マリアンヌ」


 ユリウスは軽く手を振り、部屋を出ていこうとした。


 しかし、扉の前でふと足を止めた。


「……あ、そうだ」


「はい?」


 振り返ったユリウスは、何かを言いかけたように口を開いた。


 けれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。


「いや、何でもない。おやすみ!」


 ぱたん、と扉が閉まる。


 マリアンヌはしばらくその扉を見つめていた。


 何か言い忘れたことでもあったのだろうか。


 けれど、深く考えることはなかった。


 きっと、彼なりに自分を気遣ってくれているのだろう。


 そう思うと、胸が温かくなった。


 マリアンヌは寝台の端に腰を下ろした。


 窓の外では、秋の虫が静かに鳴いている。


 遠くからは、馬のいななきが聞こえてきた。


 そういえば、道中で見かけた馬は美しかった。


 明日、ユリウスに乗馬を教えてもらえないか尋ねてみよう。


 そんなことを考えている自分に、少し驚いた。


 王都にいた頃は、乗馬の授業があるだけで憂鬱だったというのに。


 ここでは、何かが変わるかもしれない。


 マリアンヌはそっと胸に手を当てた。


 まだ、カルセドニーを忘れることはできない。


 きっと、明日も明後日も、彼のことを思い出すだろう。


 けれど、この屋敷でなら。


 少しずつ、前を向いて歩いていけるかもしれない。


 そう思った。


 そのとき、廊下の向こうからユリウスの明るい声が聞こえてきた。


「ねえ、料理長! 今日の鶏肉、すっごく美味しかったよ!」


 続いて、年配の男性らしい声が響く。


「旦那様! 普段は言わないくせにわざわざそれを言いに来られたんですか!わたしは一日の仕事が終わりゆっくりしていたというのに!」


「だって、言い忘れちゃったからさ!」


 マリアンヌは思わず吹き出した。


 ああ、本当に不思議な人だ。


 カルセドニーとは、何もかも違う。


 けれど、悪い人ではない。


 むしろ、とても優しい人なのだろう。


 そう思いながら、マリアンヌは寝台に横になった。


 目を閉じると、懐かしい兄の笑顔が浮かんだ。


 あの人も、よくこんなふうに笑っていた。


 ユリウス様とは、きっと仲良くなれる。


 そんな確信を抱きながら、マリアンヌは静かに眠りについた。


 このときの私は、まだ知らなかった。


 この屋敷で覚えることになる、たった一つの新しい技術が、やがて私の運命を大きく変えることになるなんて。








 結婚して七日目。


 マリアンヌは、夫に向かって堂々と宣言した。


「ユリウス様。私、馬に乗れるようになりたいのです!」


 朝食の席でのことだった。


 ユリウスは焼きたてのパンに蜂蜜を塗っていた手を止め、ぽかんと口を開けた。


「……馬?」


「はい!」


「乗馬の?」


「ほかにどんな馬がございますの?」


「いや、そうなんだけどさ」


 ユリウスは首を傾げた。


「マリアンヌって、馬に乗れないんだっけ?」


「乗れません!」


 胸を張って答えると、ユリウスは吹き出した。


「そこ、自信満々に言うところ!?」


「できないことをできると申し上げるわけにはまいりませんもの」


「そりゃそうだけど!」


 マリアンヌは真剣だった。


 王都にいた頃、乗馬は苦痛でしかなかった。


 公爵令嬢として、そして未来の王太子妃として、身につけなければならない教養の一つ。


 そう言われ、幼い頃から何度も練習させられた。


 けれど、どうしても上達しなかった。


 馬の背にまたがるだけで体が強張り、少し動けば悲鳴を上げ、ついには教師から「お嬢様は馬車をご利用になったほうがよろしいでしょう」と匙を投げられた。


 それ以来、馬に近づくことさえ避けてきた。


 しかし、ここは違う。


 窓の外には広大な牧草地が広がり、遠くの丘では馬たちがのんびりと草を食んでいる。


 王都のように、失敗を見物する貴族たちもいない。


 誰に笑われる心配もなく、思う存分練習できるのだ。


「せっかくこれほど広い土地があるのですもの。今度こそ克服したいのです」


「なるほどねえ」


 ユリウスはしばらく考え込んだあと、にっこり笑った。


「いいよ! じゃあ、ボクが教えてあげる!」


「本当ですか!?」


「もちろん。ただし、最初から走ろうなんて思わないこと。馬もびっくりするからね」


「はい!」


「あと、落ちてもボクのせいにしないでね?」


「いたしません!」


「即答だなあ。ちょっと怖いんだけど」


 そう言いながら、ユリウスは楽しそうに笑った。


 マリアンヌも笑った。


 この屋敷に来てから、笑うことが増えた気がする。


     *


 乗馬の練習は、その日の午後から始まった。


 伯爵邸の裏手には広い厩舎があり、十数頭の馬が飼育されていた。


 栗毛、鹿毛、芦毛。どの馬も毛並みが美しく、丁寧に世話をされていることがわかる。


 ユリウスはその中から、小柄でおとなしい牝馬を選んだ。


「この子はリリー。人懐っこいし、初心者にも優しいよ」


「まあ、可愛らしい名前ですこと」


 マリアンヌは恐る恐る手を伸ばした。


 リリーは鼻先を近づけ、彼女の手のひらをくんくんと嗅いだ。


「きゃっ!」


「まだ何もしてないよ!?」


「だ、だって、お鼻が!」


「鼻くらいあるでしょ、馬なんだから!」


 ユリウスは腹を抱えて笑った。


 マリアンヌは頬を膨らませたが、すぐに自分でもおかしくなってしまった。


 それから、手綱の持ち方、鐙への足のかけ方、姿勢の保ち方を教わった。


 ユリウスの説明は意外なほど丁寧だった。


 普段は冗談ばかり言っているのに、馬の扱いについては真剣そのものだ。


「馬はね、人間が怖がってると、それを感じ取るんだよ」


「では、怖がらないようにいたします」


「いや、怖いものは怖いでしょ。無理に隠さなくていいよ。ただ、急に大きな声を出したり、手綱を乱暴に引いたりしないこと」


「……なるほど」


「それと、背筋は伸ばして。肩の力は抜く。そうそう、そんな感じ」


 ユリウスは馬の横に立ち、マリアンヌの様子を見守った。


 いよいよリリーが一歩を踏み出す。


「ひゃあっ!」


「声! 声が大きい!」


「う、動きました!」


「そりゃ動くよ! 馬だもん!」


 リリーは迷惑そうに耳を動かした。


 マリアンヌは必死に手綱を握りしめる。


「ユ、ユリウス様! 止めてくださいませ!」


「まだ三歩しか進んでないよ!?」


「三歩も進みました!」


「そこは喜ぼうよ!」


 結局、その日の練習は十分ほどで終わった。


 馬から降りたマリアンヌは、膝が笑っていることに気づいた。


「……私、向いていないのでしょうか」


「何言ってるの。初日で三歩も進んだじゃない」


「三歩しか、では?」


「昨日までは一歩も進めなかったんでしょ? だったら大進歩だよ」


 ユリウスは何でもないことのように言った。


 マリアンヌは顔を上げた。


 その言葉に、懐かしいものを感じたからだ。


 幼い頃、兄も同じようなことを言ってくれた。


 庭で転んで泣いていたときも、刺繍を失敗して落ち込んでいたときも。


 兄は決して、できなかったことを責めなかった。


 できたことを見つけて、褒めてくれた。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして!」


 ユリウスは笑いながら、彼女の頭に手を伸ばしかけた。


 しかし、途中でぴたりと止めた。


「あ、ごめん。つい」


「……?」


「いや、何でもない。明日も頑張ろうね!」


 マリアンヌは不思議に思ったが、深く考えなかった。


 きっと、子どもを褒めるような気持ちになったのだろう。


 兄もよく、そうして頭を撫でてくれたものだ。


     *


 それから、マリアンヌの毎日は忙しくなった。


 朝はユリウスと食卓を囲み、午前中は屋敷の管理や領地の帳簿を学ぶ。


 午後は乗馬の練習。


 夕方には庭園を散歩し、ときにはユリウスと一緒に村へ出かけることもあった。


 王都にいた頃とは、まるで違う生活だった。


 王太子妃教育に追われていた日々には、自由に使える時間などほとんどなかった。


 それに比べれば、今の暮らしは驚くほど穏やかだった。


 ある日、マリアンヌはユリウスと村の市場を訪れた。


 秋の収穫祭が近いこともあり、市場には色とりどりの野菜や果物が並んでいた。


「まあ! こんなに大きな南瓜!」


「それ、うちの領地の名物なんだよ」


「こちらの林檎も立派ですわね」


「食べてみる?」


「よろしいのですか?」


「もちろん!」


 ユリウスは店主から林檎を二つ買い、一つをマリアンヌに差し出した。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


 マリアンヌは林檎を受け取ったものの、しばらく眺めていた。


「……どうしたの?」


「いえ、その……」


「食べないの?」


「ナイフがございませんので」


 ユリウスは目を丸くした。


 そして、豪快に笑い出した。


「えっ!? そのままかじればいいじゃん!」


「そのまま!?」


「うん。ほら」


 ユリウスは自分の林檎にかぶりついた。


 しゃくり、と小気味よい音が響く。


 マリアンヌは驚いて彼を見つめた。


「……お行儀が悪いのでは?」


「ここ、王宮じゃないよ?」


「それはそうですけれど……」


「誰も気にしないって。ほら、食べてみなよ」


 マリアンヌは周囲を見回した。


 市場の人々は楽しそうに買い物をしている。


 誰も、伯爵夫人が林檎をどう食べるかなど気にしていなかった。


 それならば。


 マリアンヌは思い切って林檎にかぶりついた。


 しゃくっ。


 甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。


「……美味しい!」


「でしょ?」


 ユリウスは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、マリアンヌの胸が少しだけ温かくなった。


 兄が生きていた頃も、こんなふうに一緒に市場へ出かけたことがあった。


 あのときは、焼き菓子を買ってもらったのだった。


 兄はいつも、マリアンヌの知らない世界を見せてくれた。


 ユリウスも、そうなのかもしれない。


 マリアンヌは林檎をもう一口かじった。


 今度は、ためらわずに。


     *


 冬が近づくにつれ、王都から届く知らせは物騒なものになっていった。


 第二王子派の貴族が、第一王子の政策に公然と反対したという。


 王宮の会議では激しい言い争いが起こり、近衛騎士団の配置まで変更されたらしい。


 夕食の席でその話を聞いたマリアンヌは、思わず眉をひそめた。


「そんなに争いが激しくなっているのですか?」


「らしいねえ」


 ユリウスはパンをちぎりながら答えた。


「第二王子殿下も、なかなか諦めが悪いみたいでさ」


「でも、カルセドニー殿下は第一王子でいらっしゃいますのに」


「王位継承って、単純に生まれた順番だけで決まるわけじゃないからね。支持する貴族の数とか、軍の掌握とか、いろいろ面倒な事情があるんだよ」


「……そうなのですね」


 マリアンヌは静かに頷いた。


「そういえば、第二王子派のオルガ侯爵令嬢が、また宮廷で騒ぎを起こしたらしいよ」


「オルガ様が?」


 マリアンヌは思わず顔を上げた。


 オルガは王都の社交界でも有名な令嬢だった。華やかな容姿と高い家柄を誇り、ことあるごとに他人の失敗を笑いものにする。


 マリアンヌも、舞踏会で転んだ際に「未来の王妃様がそのようなことでは、国民が心配いたしますわね」と笑われたことがあった。


「ご存じなの?」


「ええ。何度かお話ししたことがございます」


「仲良し?」


「……いいえ、あまり」


「だろうねえ。ボクも昔、一度だけ会ったことがあるけど、あの人の話って、だいたい誰かの悪口なんだよね」


「ユリウス様!」


「えっ、事実じゃん!」


 あまりにも率直な物言いに、マリアンヌは思わず笑ってしまった。


 けれど、すぐに表情を曇らせる。


「オルガ様のお父様は、第二王子殿下を強く支持していらっしゃいましたわね」


「そうそう。だから最近はずいぶん威勢がいいらしいよ。もっとも、王宮の勢力図なんて、明日にはひっくり返ってるかもしれないけどね」


 ユリウスは肩をすくめ、何事もなかったようにパンをちぎった。


 王太子妃教育でも、王位継承の制度については学んでいた。


 けれど、実際に争いが起こるなど、考えたこともなかった。


 カルセドニーは昔から優秀で、誰からも慕われていた。


 彼が次期国王になることを疑ったことなど、一度もなかったのだ。


「心配?」


 不意にユリウスが尋ねた。


 マリアンヌは顔を上げた。


「……え?」


「カルセドニーのこと」


 ユリウスはいつものように笑っていた。


 マリアンヌは少し迷ってから、小さく頷いた。


「……はい」


「そっか」


 ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、彼女の皿に温かな料理を取り分けてくれた。


「ほら、冷めないうちに食べなよ」


「……ありがとうございます」


 その優しさが、少しだけ胸に沁みた。


     *


 乗馬の練習は、少しずつ成果を上げていた。


 最初は三歩進むだけで悲鳴を上げていたマリアンヌも、今では厩舎の周囲を一周できるようになった。


 さらに一か月が経つ頃には、ユリウスに付き添われながら牧草地を歩けるようになっていた。


「すごいじゃん! もう立派な騎手だよ!」


「まだ歩いているだけですわ!」


「最初は三歩で泣いてたのに!」


「泣いておりません!」


「えー? 目に涙浮かべてたじゃん」


「それは風が強かったからです!」


「厩舎の中だったけど?」


「……ユリウス様!」


 マリアンヌが抗議すると、ユリウスは声を上げて笑った。


 その笑い声につられて、彼女も笑ってしまう。


 不思議なものだった。


 以前なら、失敗を指摘されると恥ずかしくて仕方がなかった。


 けれど、ユリウスにからかわれても、不快にはならない。


 彼が決して、彼女を見下していないことがわかるからだ。


 ある日の午後。


 マリアンヌは初めて、リリーを軽く走らせることに成功した。


 風が頬を撫で、景色がゆっくりと後ろへ流れていく。


 馬の背の揺れに合わせて体を動かすと、不思議なほど自然に呼吸ができた。


「……あっ!」


 思わず声が漏れる。


 怖くない。


 あれほど恐ろしかった馬の動きが、今は心地よい。


「ユリウス様!」


 少し離れた場所に立つ夫へ向かって、マリアンヌは声を張り上げた。


「私、走れていますわ!」


「見てるよー!」


 ユリウスが大きく手を振った。


「すごいすごい! でも調子に乗りすぎないでねー!」


「わかっております!」


 マリアンヌは笑った。


 胸の奥から、喜びが湧き上がってくる。


 自分にも、できることがあったのだ。


 ずっと苦手だと思っていたことでも、諦めずに続ければ上達できる。


 そんな当たり前のことを、今さらながら知った気がした。


 練習を終えて馬から降りると、ユリウスが近づいてきた。


「いやあ、ほんとに上手くなったね」


「ユリウス様のおかげです」


「いやいや、頑張ったのはキミでしょ」


 そう言って、彼はマリアンヌの手を取った。


 馬から降りたばかりで、まだ少し足元がおぼつかなかった。


 ユリウスの手は温かく、しっかりとしていた。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ユリウスは微笑んだ。


 そのまま、ほんの少しだけ彼女を見つめていた。


「……ユリウス様?」


「あ、いや」


 彼は慌てたように手を離した。


「ほら、今日は頑張ったし、夕食は好きなものにしてもらおうか!」


「まあ! よろしいのですか?」


「もちろん! 何がいい?」


「では、先日いただいた茸のクリーム煮を!」


「またそれ!? ほんとに気に入ったんだねえ」


 ユリウスは笑った。


 マリアンヌも笑った。


 彼の手が離れたことなど、特に気にはならなかった。


     *


 その夜、マリアンヌは書斎の前を通りかかった。


 扉が少しだけ開いており、中から灯りが漏れている。


 何気なく覗くと、ユリウスが机に向かっていた。


 手元には便箋が広げられ、羽根ペンを走らせている。


「ユリウス様?」


「あ、マリアンヌ」


 ユリウスは顔を上げた。


「どうしたの? まだ起きてたんだ」


「少し喉が渇きまして。厨房へお水をいただきに行くところです」


「そっか。転ばないようにね」


「もう、子どもではございません!」


「この前、廊下で絨毯につまずいてたじゃん」


「あれは絨毯が悪いのです!」


「絨毯に謝っておくよ」


 ユリウスは楽しそうに笑った。


 マリアンヌもつられて笑い、それから机の上に目を向けた。


「お手紙を書いていらしたのですか?」


「うん。ちょっとね」


「どなたに?」


「古い友人に」


 ユリウスは何でもないことのように答えた。


「最近いろいろあったからさ。近況報告でもしておこうと思って」


「まあ。きっとお喜びになりますわね」


「どうだろうねえ」


 ユリウスは肩をすくめた。


「喜ぶような話ばっかりじゃないし」


 マリアンヌは首を傾げた。


「何かお困りのことでも?」


「んー?」


 ユリウスは少し考えるような顔をした。


 そして、いつもの調子で笑った。


「まあ、人生いろいろあるってこと!」


「……ずいぶん大雑把なお答えですこと」


「ボク、細かいこと苦手なんだよねえ」


「存じております」


「ひどい!」


 二人は笑い合った。


 マリアンヌはそれ以上、手紙について尋ねなかった。


 領主ともなれば、遠方の知人と文通することもあるのだろう。


 それに、ユリウスはいつも忙しい。


 自分が眠ったあとまで仕事をしているのなら、邪魔をしてはいけない。


「では、おやすみなさいませ」


「うん。おやすみ、マリアンヌ」


 ユリウスは微笑んだ。


 マリアンヌが廊下へ戻ろうとしたとき、背後から声がした。


「……あのさ」


「はい?」


 振り返ると、ユリウスは羽根ペンを置いていた。


「今日の乗馬、本当にすごかったよ」


「……ありがとうございます」


「ボク、ちょっと感動しちゃった」


「まあ、大げさですわ」


「大げさじゃないって」


 ユリウスは笑った。


 けれど、その笑顔はいつもより少しだけ静かだった。


「……キミが楽しそうにしてると、ボクも嬉しいんだ」


 マリアンヌは胸が温かくなるのを感じた。


「私も、ユリウス様といると楽しいです」


 そう答えると、ユリウスは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、照れくさそうに笑った。


「……そっか。ありがと」


 マリアンヌは微笑み、今度こそ書斎を後にした。


 廊下を歩きながら、ふと兄のことを思い出す。


 兄も、マリアンヌが何かできるようになるたび、自分のことのように喜んでくれた。


 ユリウス様は、本当にお兄様に似ている。


 そんなことを考えながら、マリアンヌは寝室へ戻った。


     *


 冬が訪れた。


 朝には霜が降り、遠くの山々は白く雪化粧を始めた。


 伯爵邸の暖炉には毎日火が入り、屋敷の中には薪の香りが漂っている。


 マリアンヌはすっかり、この暮らしに馴染んでいた。


 使用人たちとも打ち解け、領地の仕事にも少しずつ関わるようになった。


 帳簿の整理を手伝えば、ユリウスは大げさに褒めてくれる。


 庭園の花を飾れば、必ず気づいて声をかけてくれる。


 乗馬の練習では、どんなに忙しくても時間を作って付き添ってくれた。


 そして、寝室は相変わらず別々だった。


 ユリウスは一度も、夫婦としての務めを求めなかった。


 マリアンヌはその心遣いに、深く感謝していた。


 こんなにも優しい夫に恵まれたのだから、自分は幸せなのだと思う。


 実際、毎日は楽しかった。


 笑うことも増えた。


 新しいことに挑戦する喜びも知った。


 けれど。


 夜、寝台に横になると、どうしても思い出してしまう人がいた。


 金色の髪。


 澄んだ青い瞳。


 いつも穏やかに微笑んでいた、あの人。


 カルセドニー。


 今頃、何をしているのだろう。


 王位継承争いは、どうなっているのだろう。


 新しい婚約者は、もう決まったのだろうか。


 考えてはいけないと思うほど、胸が苦しくなる。


 マリアンヌは枕に顔を埋めた。


 ユリウスに申し訳ない。


 こんなにも大切にしてもらっているのに、まだ別の男性を想っている。


 自分は、なんて不誠実な妻なのだろう。


 けれど、どうしても。


 どうしても、忘れられない。


     *


 ある朝、マリアンヌはいつもより早く目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗く、空には夜明け前の青い色が残っている。


 しばらく寝台の中で横になっていたが、どうにも眠れなかった。


 胸の奥に、ずっと押し込めていた想いが溢れそうになっていた。


 カルセドニーに会いたい。


 たった一度でいい。


 もう一度、あの人の顔が見たい。


 その願いは、日に日に強くなっていた。


 マリアンヌは起き上がり、窓辺へ歩み寄った。


 遠くの厩舎から、馬のいななきが聞こえる。


 あのリリーも、今頃は目を覚ましているだろうか。


 初めて馬に乗った日のことを思い出す。


 三歩進むだけで悲鳴を上げていた自分。


 それが今では、牧草地を駆けられるようになった。


 ユリウスが教えてくれた。


 何度失敗しても笑って励まし、決して諦めさせなかった。


 あの人のおかげで、自分は少しだけ強くなれた気がする。


 マリアンヌは窓枠に手を置いた。


 そして、ふと思った。


 もし、今なら。


 自分の足で、どこへでも行けるのではないだろうか。


 誰かに連れていってもらうのではなく。


 誰かに決めてもらうのでもなく。


 自分の意思で、行きたい場所へ。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸が大きく高鳴った。


 マリアンヌはしばらく窓の外を見つめていた。


 そして、静かに呟いた。


「……私、やっぱり……」


 言葉は途中で途切れた。


 けれど、心の中では、もう答えが出ていた。


 このままではいけない。


 ユリウスの優しさに甘え続けることも。


 自分の気持ちに嘘をつき続けることも。


 もう、終わりにしなければならない。


 マリアンヌは振り返り、机へ向かった。


 引き出しから便箋を取り出す。


 羽根ペンを手に取り、インク壺の蓋を開けた。


 最初の一文字を書くまでに、ずいぶん時間がかかった。


 けれど、一度書き始めると、言葉は次々と溢れてきた。


 感謝。


 謝罪。


 そして、どうしても伝えなければならないこと。


 書き終えた手紙を丁寧に折りたたみ、封筒へ収める。


 表には、夫の名前を書いた。


 ユリウス・フォン・アルテンベルク様。


 その文字を見つめていると、胸が痛んだ。


 けれど、もう迷わなかった。


 マリアンヌは立ち上がり、乗馬用の服へ着替え始めた。


 窓の外では、夜明けの光がゆっくりと空を染め始めていた。


 今日、私は王宮へ行く。


 そして、十年間愛し続けたあの人に、もう一度だけ想いを伝えるのだ。









「元婚約者に会いに来ました。どうか、カルセドニー殿下にお取り次ぎください!」


 王宮の正門でそう告げた瞬間、衛兵たちが一斉にこちらを見た。


 無理もない。


 夜明け前に辺境の伯爵邸を抜け出し、馬を走らせてきた女が、髪を乱し、乗馬服のまま王宮へ押しかけているのだ。


 しかも、その女は数か月前に第一王子から婚約を破棄された元公爵令嬢である。


 我ながら、正気とは思えない。


 けれど、マリアンヌ・フォン・アルテンベルクは、もう引き返すつもりなどなかった。


「お願いです。どうしても、お会いしたいのです」


 衛兵の一人が困惑した表情を浮かべた。


「アルテンベルク伯爵夫人……しかし、殿下への面会には事前の許可が必要でして」


「存じております」


「でしたら……」


「それでも、お願いします!」


 マリアンヌは深く頭を下げた。


 王太子妃教育を受けていた頃なら、決してしなかった行動だ。


 王宮の正門で声を張り上げるなど、淑女としてあるまじき振る舞い。


 けれど、今はそんなことを気にしていられない。


 十年間、愛し続けた人。


 婚約を破棄されても、他の男性の妻になっても、どうしても忘れられなかった人。


 もう一度だけ、会いたかった。


 たとえ、拒絶されるとしても。


 自分の口で、気持ちを伝えたかった。


     *


 すべては、今朝のことだった。


 マリアンヌはまだ暗いうちに寝室を抜け出し、ユリウス宛ての手紙を机に残した。


 そこには、これまでの感謝と、勝手な行動への謝罪を書いた。


 そして、どうしてもカルセドニーに会いたいのだと。


 もう一度、自分の気持ちを確かめたいのだと。


 そう記した。


 屋敷を出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。


 厩舎では、リリーが静かにこちらを見つめていた。


「……お願いね、リリー」


 マリアンヌは馬の首を撫でた。


 初めてこの馬に乗った日のことを思い出す。


 三歩進むだけで悲鳴を上げていた自分。


 それが今では、馬の背にまたがり、手綱を握ることができる。


 ユリウスが教えてくれた。


 何度失敗しても笑って励まし、決して諦めさせなかった。


 その優しさを思い出すと、胸が痛んだ。


「……ごめんなさい」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。


 そして、マリアンヌは馬を走らせた。


 王都までは遠い。


 伯爵邸から王宮までは、馬を替えながらでも丸一日以上かかる道のりだった。


 それでも、行くしかなかった。


 途中の宿場で馬を休ませ、必要に応じて替え馬を借り、夜には街道沿いの宿に泊まった。


 慣れない長距離の騎乗で、太腿は痛み、手のひらには水ぶくれができた。


 それでも、翌朝には再び馬に乗った。


 誰かに連れていってもらうのではない。


 誰かに決めてもらうのでもない。


 自分の意思で、行きたい場所へ向かう。


 それが、こんなにも恐ろしく、そして自由なことだとは知らなかった。


     *


「……まあ、どなたかと思えば」


 衛兵との押し問答が続いていたとき、背後から聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、豪奢な馬車から一人の貴婦人が降りてくるところだった。


 第二王子派として知られる侯爵家の令嬢、オルガだった。


 王太子妃候補としてマリアンヌを敵視し、かつて舞踏会でも幾度となく嫌味を言ってきた女性である。


 オルガはマリアンヌの姿を見るなり、扇で口元を隠した。


「まあまあ。アルテンベルク伯爵夫人ではございませんか」


「……ごきげんよう、オルガ様」


「そのお姿、いったいどうなさいましたの? まるで馬丁のようですわ」


 マリアンヌは自分の服を見下ろした。


 確かに、泥のついた乗馬服は王宮にふさわしいものではない。


 髪も乱れている。


 けれど、恥ずかしいとは思わなかった。


「馬に乗って参りましたので」


「まあ! 公爵令嬢でいらした頃は、馬に乗れないことで有名でしたのに」


「ええ。練習いたしました」


 オルガは目を細めた。


「それで、何の御用ですの? まさか、カルセドニー殿下にお会いしに?」


「はい」


 正直に答えると、オルガは声を上げて笑った。


「まあ、なんて恥知らずな! 婚約を破棄されたうえ、別の男性に嫁いだ身でありながら、まだ殿下に未練がおありなの?」


 衛兵たちが気まずそうに視線を逸らした。


 マリアンヌは頬が熱くなるのを感じた。


 けれど、俯かなかった。


「……ございます」


「……え?」


「未練は、ございます」


 マリアンヌはまっすぐにオルガを見つめた。


「私は今でも、カルセドニー殿下を愛しております」


 オルガの笑顔が消えた。


「な、何をおっしゃって……」


「だから、会いに参りました。お断りされるかもしれません。それでも、自分の気持ちをお伝えしたいのです」


 マリアンヌは胸を張った。


「笑われても構いません。私はもう、自分の気持ちを恥じたくありませんから」


 オルガはしばらく口を開けていた。


 やがて、顔を赤くして扇を握りしめた。


「……なんて厚かましい方! だから殿下に捨てられたのですわ!」


 その言葉が胸に突き刺さる。


 けれど、マリアンヌはもう逃げなかった。


「そうかもしれません」


 静かに答えた。


「ですが、それを決めるのはオルガ様ではございません」


 オルガが息を呑んだ。


 マリアンヌは続けた。


「私は殿下ご本人にお尋ねしたいのです」


 そのときだった。


「その必要はない」


 低く、よく通る声が響いた。


 マリアンヌの心臓が止まりそうになった。


 聞き間違えるはずがない。


 十年間、誰よりも近くで聞いてきた声だった。


 ゆっくりと振り返る。


 王宮の門の向こうに、一人の男性が立っていた。


 金色の髪。


 澄んだ青い瞳。


 そして、息を呑むほど美しい顔立ち。


「……カルセドニー、殿下」


 彼はマリアンヌを見つめていた。


 その表情には、驚きと、信じられないというような感情が浮かんでいた。


「マリアンヌ……?」


 彼が一歩近づく。


「どうして、ここに……」


 マリアンヌは答えようとした。


 けれど、言葉が出てこなかった。


 ずっと会いたかった。


 何度も夢に見た。


 もう一度だけ、その顔を見たいと願っていた。


 そして今、彼が目の前にいる。


 気づいたときには、走り出していた。


「カルセドニー!」


 淑女としての礼儀も、伯爵夫人としての立場も、何もかも忘れていた。


 ただ、彼の胸に飛び込んだ。


 カルセドニーが驚いたように息を呑む。


 けれど、すぐにその腕がマリアンヌを抱きとめた。


「マリアンヌ……!」


 懐かしい香りがした。


 何度も夢に見た温もりだった。


 涙が溢れた。


「……やっぱり、忘れられない!」


 マリアンヌは彼の胸元を握りしめた。


「お願い、私と結婚して!」


 周囲が静まり返った。


 衛兵たちも、オルガも、誰も声を発しなかった。


 けれど、マリアンヌにはもう何も見えていなかった。


「私、ずっと殿下が好きだったの! 婚約を破棄されても、他の方に嫁いでも、どうしても忘れられなかった!」


 涙で視界が滲む。


「だから、もう一度だけ……もう一度だけ、私を選んでほしいの!」


 カルセドニーは何も言わなかった。


 その沈黙が恐ろしくなり、マリアンヌは顔を上げた。


 彼は、泣きそうな顔をしていた。


「……迎えに行くつもりだった」


「……え?」


 カルセドニーは彼女の頬に手を添えた。


「君を、迎えに行くつもりだったんだ」


 マリアンヌは瞬きをした。


 言葉の意味が理解できなかった。


「……どういう、ことでしょうか」


 カルセドニーは深く息を吐いた。


「マリアンヌ。君に、話さなければならないことがある」


     *


 王宮の応接室。


 数か月前、婚約破棄を告げられた場所だった。


 マリアンヌは再び、同じ椅子に座っていた。


 けれど、目の前にいるカルセドニーの表情は、あの日とはまるで違っていた。


「……すべては、王位継承争いのためだった」


 彼は静かに語り始めた。


 第二王子派の貴族たちが、カルセドニーを失脚させようとしていたこと。


 そのために、彼の婚約者であるマリアンヌを利用しようとする動きがあったこと。


 王宮内でも信用できる者が限られ、彼女の身に危険が及ぶ可能性があったこと。


「君を巻き込みたくなかった」


 カルセドニーは苦しそうに言った。


「だから、婚約を破棄した。王家の争いから遠ざけるために」


「……では」


 マリアンヌは震える声で尋ねた。


「他に、好きな方ができたわけでは……?」


「そんなはずがないだろう」


 カルセドニーは即座に答えた。


「私が愛しているのは、昔から君だけだ」


 マリアンヌの目から、また涙が零れた。


「……でも、私には至らないところがたくさんあって……」


「マリアンヌ」


 カルセドニーは彼女の手を取った。


「君が馬に乗れないことも、少々不器用なことも、私は昔から知っている」


「……はい」


「それでも、君が好きだった」


 彼は微笑んだ。


「君が転ぶたびに、私は心配した。ダンスで足を踏まれたときも、痛かったけれど、君が一生懸命なのが嬉しかった」


「……殿下」


「君はいつも、自分の欠点ばかり気にしていたね。けれど、私にはそれ以上に、君の素晴らしいところが見えていた」


 マリアンヌは俯いた。


 涙が止まらなかった。


「……では、どうしてユリウス様に……」


「彼なら、君を大切にしてくれると思った」


 カルセドニーは静かに答えた。


「幼い頃からの友人で、信頼できる男だ。王都から遠く離れた彼の領地なら、君を守れると考えた」


「……ユリウス様は、ご存じだったのですか?」


「いや。彼には詳しい事情を話していない」


 マリアンヌは顔を上げた。


「……では、ユリウス様は……」


「本当に、君を妻として迎えたんだ」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


 ユリウスの笑顔が浮かぶ。


 乗馬を教えてくれたこと。


 市場で林檎を買ってくれたこと。


 夜遅くまで仕事をしていたこと。


 そして、寝室を別にしてくれたこと。


 あの人は、何も知らなかったのだ。


「……私は、ひどいことをしてしまいました」


 マリアンヌは呟いた。


 カルセドニーは何も言わなかった。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、彼は静かに口を開いた。


「実は、ユリウスから手紙が届いていた」


「……手紙?」


「君がまだ私を忘れられずにいるようだ、と」


 マリアンヌは目を見開いた。


 あの夜、書斎で見かけた手紙。


 ユリウスが「古い友人に近況報告をする」と言っていた、あの手紙だろうか。


「彼は、君と一度も寝室を共にしていないことも書いていた」


「……そんなことまで」


 マリアンヌの頬が熱くなる。


「君の気持ちを尊重しているのだろう。彼らしいと思った」


 カルセドニーは微笑んだ。


 けれど、その笑顔には少しだけ苦さがあった。


「私は、君が彼と幸せになるのなら、それでもいいと思っていた」


「……殿下」


「だが、手紙を読んで……君がまだ私を想ってくれていると知って、諦めきれなくなった」


 カルセドニーは彼女の手を握りしめた。


「そして、ようやく王位継承争いに決着がついた」


「……決着?」


「第二王子は、王位を狙った一連の行動の責任を問われ、島へ流されることになった。支持していた貴族たちも処分される」


 マリアンヌは息を呑んだ。


「……では」


「私が次の国王になることが正式に決まった。まだ公には発表されていないがね」


 カルセドニーは静かに微笑んだ。


「もう、君を危険に晒すことはない」


 マリアンヌの胸が高鳴った。


「だから、迎えに行くつもりだった」


 彼は立ち上がり、マリアンヌの前に膝をついた。


 そして、彼女の手を取った。


「マリアンヌ・フォン・アルテンベルク」


 澄んだ青い瞳が、まっすぐに彼女を見つめる。


「私は、君を愛している」


 その声は、少しだけ震えていた。


「もう一度、私の妻になってくれないか」


 マリアンヌは両手で口元を覆った。


 涙が溢れて、何も見えなくなった。


 十年間、夢見てきた言葉。


 もう二度と聞けないと思っていた言葉。


 それが今、目の前にある。


「……はい」


 震える声で答えた。


「はい……!」


 カルセドニーは立ち上がり、彼女を強く抱きしめた。


 マリアンヌも、その背に腕を回した。


 もう、離れたくなかった。


     *


「ちょっと待ったああああ!!」


 突然、応接室の扉が勢いよく開いた。


 マリアンヌは驚いて振り返った。


 そこに立っていたのは、息を切らしたユリウスだった。


 髪は乱れ、外套には泥が跳ねている。


 普段の飄々とした姿とは、まるで違っていた。


「マリアンヌ! 無事!?」


「ユ、ユリウス様!?」


「無事ならいいけど! いや、よくない! 全然よくない!」


 ユリウスは肩で息をしながら、二人を交互に見た。


 そして、カルセドニーの腕の中にいるマリアンヌを見て、ぴたりと動きを止めた。


「…………あー」


 長い沈黙。


 ユリウスは天井を仰いだ。


「……なるほどねえ」


 それから、力なく笑った。


「ボク、本当に都合のいい男じゃーん」


 マリアンヌの胸が痛んだ。


「……ユリウス様」


「いやあ、参った参った」


 ユリウスは頭をかいた。


「まさか本当に王宮まで来ちゃうとはね。しかも、あのマリアンヌが馬に乗って!」


「……はい」


「最初は三歩で悲鳴上げてたのに!」


「……その節は、お世話になりました」


「いやいや、そこは感謝するとこじゃないでしょ!」


 ユリウスは笑った。


 けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。


「……ユリウス」


 カルセドニーが静かに声をかけた。


「すまない」


「何が?」


「君に、事情を話さず……」


「……ああ、そういうこと?」


 ユリウスは片眉を上げた。


「まったく。キミって昔からそうだよねえ。何でも一人で決めちゃうんだから」


「……すまない」


「謝るくらいなら、最初から説明してくれればよかったのに」


 ユリウスはため息をついた。


 そして、マリアンヌを見た。


「……で、マリアンヌ」


「はい」


「キミは、どうしたいの?」


 その問いに、マリアンヌは息を呑んだ。


 ユリウスはまっすぐに彼女を見つめていた。


 いつもの冗談めいた笑顔はなかった。


「カルセドニーが迎えに来たから戻るの? それとも、自分で戻りたいと思ったの?」


 マリアンヌは胸に手を当てた。


 そして、静かに答えた。


「……私が、戻りたいのです」


 ユリウスは何も言わなかった。


「私は、カルセドニー殿下を愛しています」


 マリアンヌは続けた。


「婚約を破棄されても、どうしても忘れられませんでした。ユリウス様には、こんなにもよくしていただいたのに……」


 声が震えた。


「本当に、申し訳ございません」


 深く頭を下げた。


 ユリウスはしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと笑った。


「……そっか」


 それだけだった。


 マリアンヌが顔を上げると、彼はいつもの明るい笑顔に戻っていた。


「ま、仕方ないよねえ。好きなものは好きなんだし!」


「……ユリウス様」


「でもさ」


 ユリウスは少しだけ首を傾げた。


「ボクとの暮らし、楽しかった?」


 マリアンヌは即座に頷いた。


「もちろんです!」


 その声は、自分でも驚くほど大きかった。


「毎日、本当に楽しかったです。乗馬も、市場も、夕食の時間も……全部、大切な思い出です」


 ユリウスは目を細めた。


「……そっか」


 そして、いつもの調子で笑った。


「なら、よかった!」


 マリアンヌは胸が締めつけられた。


 彼は最後まで、優しい人だった。


     *


 その後のことは、驚くほど早く進んだ。


 王宮では、第二王子派の貴族たちへの処分が正式に発表された。


 王位継承争いに関与した者たちは爵位を剥奪され、領地を没収された。


 その中には、かつてマリアンヌを嘲笑ったオルガの父親も含まれていた。


 彼女自身も王宮への出入りを禁じられたという。


 さらに、カルセドニーとマリアンヌの再婚約が発表された。


 王都は大騒ぎになった。


 婚約を破棄され、辺境へ追いやられたはずの公爵令嬢が、再び未来の王妃になる。


 しかも、今度は第一王子本人が強く望んでの婚約だという。


 かつて彼女を哀れんだ貴族たちは、手のひらを返したように祝福の言葉を並べた。


 けれど、マリアンヌはもう、そんな言葉に心を動かされなかった。


 自分が何者であるかを、他人の評価で決める必要などない。


 それを、辺境での暮らしが教えてくれたのだ。


     *


 数週間後。


 マリアンヌは王宮の庭園を歩いていた。


 隣には、カルセドニーがいる。


 秋の終わりを告げる風が、二人の間を吹き抜けていった。


「……マリアンヌ」


「はい?」


「君は、ずいぶん変わったね」


 カルセドニーは微笑んだ。


「以前より、ずっと堂々としている」


「そうでしょうか」


「ああ。昔の君なら、王宮の正門であんなふうに叫ぶことなど、考えられなかっただろう」


 マリアンヌは頬を赤らめた。


「……あれは、少々恥ずかしかったですわ」


「私は嬉しかったよ」


 カルセドニーは彼女の手を取った。


「君が、自分の意思で私を選んでくれたことが」


 マリアンヌは微笑んだ。


「……私も、嬉しかったです」


 そして、ふと遠くの厩舎へ目を向けた。


 あのリリーは、今頃どうしているだろう。


 ユリウスは、元気にしているだろうか。


 最後に見た彼の笑顔を思い出す。


 いつも明るく、冗談ばかり言っていた人。


 自分が失敗しても笑って励まし、決して責めなかった人。


 あの人のおかげで、自分は変われた。


 マリアンヌは心の中で、静かに感謝した。


 そして、カルセドニーの手を強く握り返した。


「……殿下」


「何だい?」


「私、まだまだ不器用ですけれど」


「知っているよ」


「これからも、きっと失敗ばかりすると思います」


「それも知っている」


「それでも……」


 マリアンヌは彼を見上げた。


「あなたのおそばにいても、よろしいですか?」


 カルセドニーは微笑んだ。


「もちろん」


 そして、彼女の額にそっと口づけた。


「今度こそ、ずっと一緒にいよう」


 マリアンヌは幸せそうに目を閉じた。


 もう、誰かに決められた未来ではない。


 自分で選んだ未来だった。


 遠くで、馬のいななきが聞こえた。


 マリアンヌは小さく笑った。


 あの日、三歩進むだけで泣きそうになっていた自分が、今では馬に乗って王宮まで来られるようになった。


 人生とは、本当に不思議なものだ。


 そして、マリアンヌは思った。


 たとえ何度転んでも、また立ち上がればいい。


 自分の足で進む限り、未来はきっと変えられるのだから。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


婚約破棄された令嬢が、新しい夫の優しさに触れて幸せになる。


そんな王道の展開を予想された方もいらっしゃるかもしれません。


けれど、十年間想い続けた相手を、そう簡単に忘れられるものでしょうか。


今回は、そんな一途なマリアンヌのお話でした。


そして、何も知らずに彼女を迎え入れ、最後まで優しかったユリウスにも、少しだけ思いを馳せていただけたら嬉しいです。


面白かった、続きが気になる、ユリウスが不憫すぎる!など、何か感じていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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