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婚約者様、浮気してくれてありがとう。

掲載日:2026/02/16



 人と同じことができない。

 同じものを好きになれない。

 合わせることができない。

 合わせたように振る舞うことができない。


 私はどこかおかしいのかもしれません。




* * *




 令嬢らしくないという自覚は、幼いころからありました。


 幼少時代から色の濃い貴婦人のようなドレスを欲しがり、そしてそのドレスよりもお菓子を、お菓子よりも本を、絵本よりも児童書を、児童書よりも専門書が欲しかったのです。

 

 それは年頃になっても変わらず、煌びやかな貴公子たちを眺めるよりはデザートが。

そのデザートも、高級店のデザートよりも我が家のシェフのお菓子が、さらにそれよりも好きだったのは、町で売られている素朴なクッキーやビスケットでした。


 そしてやはり一番好きなのものは、あらゆる道の専門家の書いた書物でした。


 着飾ることにもお付き合いにも消極的な私は、婚期が迫っても最低限の社交のみ。

 そんな私が行き遅れることに焦った両親は、ある日、どこからかアルテアン伯爵家の嫡男とのお見合い話を取り付けてきたのです。


「アルテアン伯爵家の方は、私がこんな風だとご存知なのですか?」


 両親が焦る気持ちもわかります。

 お見合いが嫌だなんて言うつもりもありません。


 ただぼんやりと、令嬢らしくないくびれのない腰回りや、艶のよくない髪や肌が急に気になりました。努力もせず気にするなんて馬鹿げていますが、私は令嬢らしく生きられない自分に悩んではいたのです――そう、ただ漠然と。


 最低限の夜会も、ほぼ壁と同化するだけです。

 せめて食事を楽しめればよかったのですが、煌びやかな王宮の料理は目や口だけでなく、お腹にも合わず、食べれば確実にお腹が痛くなってしまいました。


(帰りたい……)


 しがないステンホルム男爵家の末娘とはいえ、参加義務のある王宮の夜会を欠席するわけにはいきません。

 頭の先から爪の先まで美しい人たちを、壁と同化しながら眺めることが私にとって夜会の全てでした。


 壁の花などという素敵な言葉がありますが、私は壁。

 くびれのない腰が、壁にそっくりと言われたこともあります。


「まぁ。なんと。言いえて妙でしょう」


 感心しながら頷けば、縦ロールの髪をたなびかせたジョスリーヌ・マルモン伯爵令嬢は、眉をひそめて私の前から居なくなってしまいました。


 人と同じことができない。

 同じものを好きになれない。

 合わせることができない。

 合わせたように振る舞うことができない。


 私はどこかおかしいのかもしれません。


 美しい人々を、美しいと感嘆の溜息と共に眺めることはあっても、その中に自分がいるという想像ができません。

 想像できないことを実行するというのは、とても難しいのです。


 幸いなことにマナーやお勉強に関しては適性があったようで、家庭教師たちを困らせることなく二十歳という年齢まできました。

 ですから、本当はダンスも踊れます。


「アルテアン伯爵家の方々はご存知だったよ……その、お前の名は」


 お父様は目を逸らしながら、頷きます。


 確かに。

 私の名はこの国では珍しいらしく、その名だけは一人歩きしているようです。

 そういった話は壁と同化しているときに耳にしました。


 母は考え込む私の肩を優しく撫でました。


「アレイト、そんなに悲観しないで。お会いしてみたら気が合うかもしれないでしょう?」


 お母様。

 私は悲観したのではありません。

 お見合いで意気投合できるかを心配したのでもありません。

 ただ確認をしたかっただけです。


 私が人と違うということを、お相手の方はご存知なのですか、と。


 ですが、母にそれを告げることなく私は頷きました。

 人と違う私が、人と同じように結婚して、幸せになれるのか。


 それが知りたくなったからです。






「アレイト嬢。もしよければ僕との結婚を前向きに考えてもらえないだろうか?」


 お見合いの日「あとはお若い二人で」と送り出された庭園で、ベルナルド・アルテアンと名乗った彼は、私の手を取って言ってくれました。


 私は頷きました。

 やはり知りたいと思ったからです。


 こんな私でも幸せになれるのかを。



 結婚話は順調に進み、私はベルナルド様の婚約者になりました。

 結婚には一年以上の婚約期間が必要です。


 婚約者を得ても、夜会は苦手なままでした。

 相変わらず王宮の料理でお腹も痛くなります。

 そんな私を気遣ってくださるベルナルド様は、丸い顔や少し広い額がとても可愛らしい方です。なんだかホッとします。


 私は一年間、自問自答しながら少しずつアルテアン伯爵家に馴染もうとしました。

 婚約者として訪問するたび、家格の違いに戸惑う私を、伯爵夫妻は励ましてくださいました。

 貴族令嬢らしい華やかさをもたない私に、優しく接してくださいました。


 ですが。


 やはり、私は壁だったのでしょう。




 王宮の薔薇が見事な庭園で、ベルナルド様が妖艶な美女と絡み合っています。

 まるで薔薇の蔓のように交差し、唇を合わせていました。


 二人を見て、私はようやく気付きました。

 婚約して一年経つというのに、頬への口づけすらされたことがなかったことに。

 

 ベルナルド様と彼女の行為を見ても「なるほど、これが恋人のキス?」と他人事のように思っていました。


 恋や愛というものを知りたくて読んだ小説を眺めている気分です。

 小説の中の登場人物たちは、恋人の浮気現場を見ると怒りや嫉妬、悲しみに暮れていました。


 ですが、私には怒りや嫉妬、悲しみの感情は湧きませんでした。


 やはり私は、どこかおかしいのかもしれません。



 私とベルナルド様は、夜会の前に、待ち合わせ場所を決めていました。

 今日は噴水の前です。


 いつもなら待ち合わせ場所へ脇目も振らず足を運ぶというのに、珍しく美しい薔薇を眺めたいと思ってしまった私は、普段なら踏み入らない、ベルナルド様に『男女が睦まじくする場所だから立ち入らないように』と、教えてもらっていた場所に踏み入ってしまっていたのです。


 そこには私の知らないベルナルド様がいらっしゃいました。

 絡みつく淫らな二人を茫然と眺め、立ちすくみます。


「アレイト、ここには来るなと言ってあったはずだろ?」


 ベルナルド様が美女から顔を離し、こちらを向きました。

 その低い声を、不思議な気持ちで聞いていました。


「噴水の前で待っていろ」


「やだ、そこまで言う? 可哀そうじゃない」


 よく見ればお相手の女性は、かつて私を壁と呼んだ縦ロールのジョスリーヌ・マルモン伯爵令嬢でした。


 わずかに動揺していたのでしょうか。

 すぐに気付かなかったのは、初めてのことです。


「聞こえなかったのか? まったく。これだから、嫌なんだ。もっさりしてるのは見た目だけにしろよ、イライラするんだよ」


 ジョスリーヌ様は縦ロールをご卒業されたようで、長い髪を緩やかに結い上げています。

 その首筋を撫でていたベルナルド様の手が私に向けられ、シッシと野良猫を払うように動きました。


「わかりました。婚約破棄ですね?」


 不貞行為は、された側からの婚約破棄が認められています。

 彼女と睦まじくするのであれば、私との婚約を破棄して彼女と婚約するという意味になるはずです……たぶん。


「生意気だな。俺と別れたらお前には嫁ぎ先なんかないだろ? 仕方ないからもらってやるのに、わかってないのか?」


 わかりません。

 そもそも前向きに検討しろと言ったのは、ベルナルド様です。


 私は、()()()()検討しただけです。


 私でも幸せになれるのだろうかと。

 やはり叶わぬ夢だったようです。


 それに。


「私のことをもっさりと仰いますが、ベルナルド様もですよ?」


 ベルナルド様の身体つきは、可愛らしいクマのぬいぐるみのようです。とはいえ、私は彼の体形が嫌いではありません。むしろコロコロとした優しい風体を好ましいと思っていましたが、スタイリッシュとは言い難いでしょう。


 ベルナルド様は、細身のジュストコールもフロックコートも似合いません。


「なっ!!」


 ベルナルド様が薔薇のように顔を赤く染めたとき、背後に人の気配を感じました。

 その他にも三人の気配があり、すべての視線が私たちに集まっています。


「男を煽るのは控えた方がいいよ。壁の姫君」


 その中でも一番気配の美しい人の声がしました。

 静かな足音が小気味よく耳に響きます。


 振り返れば庭園の赤い薔薇を紫色にしてしまいそうな、夜の群青と同化する髪と瞳の方でした。


「静寂の騎士様?」


「私のことをご存知とは。嬉しいですね」


「壁には耳がありますから」


「面白いことを言う」


「面白いですか? 初めて言われました」


 初めての響きに、私の心が躍り出します。

 止まっていた時が流れるように、軽快なリズムを刻み始めました。

 

「ここが、トクトクしています」


 胸に手を当てて思わず微笑み、そして驚きました。

 溢れるような感情の波が訪れたのです。


 夜の清廉な空気、星の煌めき、宵闇に咲く美しい薔薇。

 すべてが私の心を突き動かします。


 人々はこんなにも美しい世界で恋人と過ごしていたのかと。

 私にもこんな感情があったのかと、驚きに目を見開きました。

 静寂の騎士様も、切れ長の美しい瞳を見開いていらっしゃいます。


「バルリエ様、夜はこんなにも美しかったのですね?」


 夜風に舞う香りは、バルリエ様から香るものでしょう。

 喉の奥が熱く、指先は燃えるように歓喜しました。


「参ったな。蕾が開いたところを見てしまったよ」


 静寂の騎士と呼ばれる、クレール・バルリエ様が口元を手で押さえました。


「名を知ってもらっていただけでも嬉しいのに。美しい人、どうか俺の手を取ってはくれませんか?」


 柔らかな弧を描いて目の前に差し出された手に、そっと自分の手を重ねました。


「ホールで踊りましょう」


 軽やかなお誘いに、流れるようにお辞儀をしました。


「お前、ダンスなんか踊れないだろう? いつも、もたもた、のろまな、もっさりのくせして」


 去ろうとした私たちを、ベルナルド様が引き留めました。

 立ち止まり、色褪せて見えるベルナルド様に向かって首を傾げました。

 ベルナルド様の可愛らしかったお顔は、醜く歪んでいました。


「いいえ?」


「俺とは一度も踊らなかった癖に」


「誘われなかったので」


 なぜ驚いているのでしょう?

 蔓のように絡み合っていたお二人は、互いの身体から手を離して憎々し気に私を見ていました。



「悪いが、君たちの逢瀬は有名でアチコチから証言もある。あまり騒がないほうが身のためだと忠告しておくよ」


 バルリエ様は、私を二人から隠すようにして仰いました。

 

「今もほら、三人の騎士たちが、君たちを見ている」


 バルリエ様が手を優雅に振ると、庭園を警備していた騎士の方々が顔を出しました。

 第三騎士隊に所属されているジャン・ギュフロア様と、同じく第三のイーノック・フェリス様、そして何と第三の副隊長であられるジョルジョ・スリーニ様です。


 私としたことが、ジョルジョ様の気配だけは誰とは特定できませんでした。なんということでしょう。隊長格に上がるような方はさすがに気配を消すのがお上手です。


 大人の社交場である王宮の庭園ですが、必ず起こる揉めごとに備えて騎士の方が控えています。

 この庭園に足を運ぶことのなかった私も、その気配から察することはできました。


「アルテアン伯爵家のご子息が、まさか庭園警備騎士の存在をお忘れで? 庭園での逢瀬は構いませんが……それもある意味、社交とも言えますしね?」


 意味深な問いは、ジョスリーヌ様に向けられています。


 悔しそうに唇を噛みしめ、ジョスリーヌ様は乱れていた衣装を整えて立ち去ってしまいました。ほつれた髪が艶かしく首に張り付き、何をしていたかは一目瞭然です。

 ベルナルド様は「あっ」と声を漏らし、そんなジョスリーヌ様のほうへ手を伸ばしています。


「それではベルナルド様。後日、婚約破棄の手続きのための代理人をアルテアン伯爵家に向かわせます。長らくお世話になりました」


「ふざけるな!! 俺は認めないからな!!」


「行きましょう、アレイト嬢」


 よれたタキシード姿のベルナルド様を置いて、バルリエ様とホールへ向かい、ダンスを踊りました。


「驚いたよ、アレイト嬢がこんなにもダンスが上手いだなんて」


「私も驚きました。バルリエ様と踊るダンスがこんなにも楽しいなんて」


 あれだけ気後れしていた煌びやかなホールにいても、場違いなどとは思いませんでした。

 バルリエ様の騎士服の正装は白く美しく、ターンの度に金の飾りが揺れて、とても眩い。


 皆の唖然とした視線を感じても、背筋を伸ばしていられました。

 バルリエ様の姿勢が美しいからでしょうか。

 私の姿勢も自然と伸びてゆきます。


 よれたタキシード姿のままホールで唖然としているベルナルド様を、皆は遠巻きに見ては何事かを囁き合っているようです。乱れた髪のジョスリーヌ様が先に帰られたので、それを見た方は察していらっしゃるのかもしれません。


「アレイト嬢はいつも何も口にしなかったね。これは飲めそう?」


 ダンスが終わるとシャンパンを渡されました。

 琥珀色に輝くグラスに泡が立ち上っています。


「ええ。いただきます」


 踊ったせいか、体温の上がった身体にシャンパンが沁み渡りました。


「美味しい……」


「そう。よかった」


 バルリエ様の群青の瞳が、まるで宝石のようです。

 

「私が星なら、バルリエ様の瞳に住めるのに」


「……すごい殺し文句だ」


「そうでしょうか?」


 私も、バルリエ様も、酔っているのかもしれません。

 人の視線や熱気、シャンパンの香りに。


 談笑する私たちの前に、ベルナルド様がやって来ました。


「お前は俺の婚約者だろ? なに浮気なんかしているんだ。お前が不貞をしたのだから、こちらから破棄してやるからな!?」


「ダンスを一曲踊り、シャンパンを飲んで会話をしたら不貞ですか?」


「あの庭園にいたことが何よりの証拠だ!! それがお前の正体だな? ダンスを踊れないフリをし、私の誘いを断り、男を誘惑する売女だ!!」


 ベルナルド様の声が響きました。

 皆は手を止めてこちらに耳を傾けています。


「私は庭園の薔薇を見ていただけです。他の女性と絡み合い、不貞行為を行っていたのはベルナルド様ですよ?」


「黙れ、この阿婆擦れが!!」


 ベルナルド様の振り上げた手は、バルリエ様に受け止められました。

 私はバルリエ様の背に隠されました。

 なんという早業でしょう。

 音もなく、とはこういうことを言うのかもしれません。


 今まで自分の中にぽっかり開いていた感情の穴が、バルリエ様に触れる度に埋まっていくようです。

 胸がいっぱいになります。


 庇われたときに触れた手が燃えるように熱い。


 ホールの警備をしている騎士の方々がベルナルド様を連れて行きました。

 民の模範となるべき貴族男性が女性に手を上げるのは重罪です。

 先代の王は女性への暴力を減らそうと、たくさんの法律を制定されました。

 ベルナルド様には罰金か数日の禁固刑が言い渡されるのではないでしょうか。


「アレイト嬢。貴女をステンホルム男爵邸までお届けする栄誉をいただけないでしょうか?」


 恭しく跪き、手を差し伸べるバルリエ様の手に、私はそっと手を乗せました。




 それからステンホルム男爵家は蜂の巣を突いたような騒ぎになりました。

 静寂の騎士と呼ばれるクレール・バルリエ様の訪問、ベルナルド様の不貞行為、そして暴力。

 バルリエ様から今日の出来事を全て聞いた父は怒り、母は泣き出しました。


「申し訳ございませんでした」


 私はやはり、人と同じことができませんでした。

 こんな私でも幸せになれるのか。

 そんな実験めいた気持ちでベルナルド様と婚約したことが間違いだったのです。

 

「なぜアレイトが謝る? 私はお前をないがしろにされて怒っているのだ」


 荒ぶる父など見たことがありませんでした。

 私はいつもどこかで、兄や姉のように貴族らしく振る舞えない自分を申し訳なく思っていました。

 胸は張り裂けそうに痛みますが、なぜかふんわりと温かくもなります。


「貴族令嬢としての勤めを果たせず、申し訳ありませんでした……」


 再び謝罪した私を母が抱きしめます。


「わたくしのせいよ、アレイト。あなたに暴力を振るおうとするような男と縁を繋いでしまった母を許して。怖かったでしょう、アレイト。ごめんなさい」


 抱擁など幼いころ以来です。

 お母様は、とても柔らかくてよい香りがします。

 背を撫でられた私は、幼子以来といえる涙を流し、最後には声を上げていました。


 そんな私を、バルリエ様が慈しむような目で見ていらっしゃいました。




 



 ベルナルド様との婚約を破棄した後、バルリエ様の紹介で外交官の補佐のお仕事をすることになりました。

 貴族女性も仕事を持てる時代です。


 私は、顔と名前を一度で覚える、騎士の気配に聡い令嬢として騎士隊員たちの間では有名だったそうです。


 仕事内容は、顔を覚えるのが苦手な外交官の補佐です。

 他国との外交の際、横に付いて参加者の名前を耳打ちします。

 外交官の方でも顔を覚えるのが苦手な方がいらっしゃるなんてと、初めは半信半疑でしたが、実際にはかなりの方がご苦労されていることを知りました。


 そして、この仕事は私の世界をさらに広げてくれました。

 新しい場所、新しい仕事、その中で知る初めての感情。


 眩いばかりの貴族社会よりもずっと身体に馴染みます。



 忙しい仕事の合間に、バルリエ様とも時々お食事をします。

 連れて行ってくださるお店は下町の大衆食堂から、可愛らしいカフェまで様々でした。


「バルリエ様、いつもご馳走になってしまい、申し訳ありません」


 お財布を出すのは男性に失礼な行為なので控えますが、私にも外交官補佐としての収入があります。

 安くはないお店に連れて行っていただいたときなど、とても心苦しいのです。


「そろそろクレールと、そう呼んではもらえないだろうか?」


 (とばり)の降りた公園で、夜風で酔いを覚ましていたとき。

 バルリエ様は胸に手を当てながら跪かれました。


「いえ、それは……」


 婚約者でも恋人でもない私が、気軽にお呼びできる方ではありません。

 静寂の騎士と呼ばれるバルリエ様は二十五歳という若さで先日、第二騎士隊長に昇格されました。


 元々手の届かない方でしたが、今ではこうして一緒に歩く機会があるのが不思議なほどです。


「これだけあからさまに好意を伝えてもまだ、あなたに私の気持ちは届かないのか」


「どういう、ことでしょう?」


 感情を知ったはずの私はやはり、人の気持ちに鈍感なのでしょうか。


 目の前で跪くバルリエ様は、夜の瞳に星を浮かべて私をじっと見ています。


「アレイト嬢。愛しています。私と結婚してもらえませんか?」


「結婚……」



 この私が……。


 不安が胸を埋め尽くします。

 元から評判のよくない私をバルリエ様が娶るメリットなど、どこにあるのでしょう。


 私は、私を信じることができません。



 ベルナルド様はあの後、拘留所に二日ほど留め置かれ、お父上のアルテアン伯爵が罰金を払ってようやく釈放されました。

 当然、私からの婚約破棄はすぐに了承されました。

 ですがそれは、もう取り返しがつかないほどベルナルド様の行為が人の目に触れていたからで、伯爵夫妻の感情はまた別のものだったようです。


 人伝に聞かされたのは、心を開かなかった私への憤りでした。

 心を尽くしたのに私が出来損ないだったのだとお怒りだったようです。

 息子が浮気をしても仕方がないと。


 アルテアン伯爵夫妻やベルナルド様とは、それ以来お会いしていません。

 優しく私を導いてくださっていた夫妻のことを思い出す度に胸が痛みますが、私はこの痛みを受け入れることにしました。


 私は確かに出来損ないです。


 そして、ベルナルド様は恋人のジョスリーヌ様と婚約したかったようですが、ジョスリーヌ様は別の殿方と婚約予定との噂があります。

 お相手は豪商の跡取り息子だそうです。

 貴賤結婚と言われておりますが、ジョスリーヌ様のマルモン伯爵家は没落寸前らしく、仕方のないことのようです。


「ベルナルド氏であれば金をふんだくれると思っていたらしいよ。アルテアン伯爵家はお金持ちだからね」と、あらかた婚約破棄にまつわる雑事が済んだとき、バルリエ様が教えてくださいました。

 アルテアン伯爵夫妻は、婚約破棄の原因になったジョスリーヌ様のことをお気に召さなかったとも。


「どのみち、あの二人はどちらも評判が地に落ちたからね。自業自得だよね」


 それは私も同じです。

 貴族令嬢としての結婚は、前よりもっと難しくなりました。



 そんな私が、バルリエ様と―――

 



「あなたが壁の姫と、騎士たちにそう呼ばれていたことは?」


「バルリエ様にお聞きするまで知りませんでした」


「では、今なおあなたと結婚したいと、私の目を盗んでアプローチしようとしている騎士たちの好意には気付いている?」


「どういうことでしょう?」


「……やはり気付いておられない。では、私が平民出身で、先日、ようやく騎士爵を賜ることが決定し、あなたにこうして結婚を申し込めるようになったことは?」


「まあ。素晴らしいことです。おめでとうござ……え?」


「あなたに結婚を申し込みたくて、功績を重ねているうちに静寂の騎士なんて二つ名が付いていました。本当はもっと早くこうしてあなたに結婚を申し込みたかった。ベルナルド氏との婚約を知ったときは絶望しました。さらに氏の不貞を知ったときは怒り狂い、同時にチャンスだとも思いました。そして、婚約破棄後のあなたに外交の仕事をあっせんしたのは、私の時間稼ぎです。軽蔑してくださって結構です。それでも私は、あなたの能力と魅力に最初に気付いた男という自負があります。決して他の男には渡しません」


 バルリエ様の真剣な瞳に、私の気持ちを伝えなければ……。


「自信が……ありません。私は、人と同じことができない、出来損ないなのです。結婚なんて……私、私は」


 気付けばバルリエ様に抱きしめられていました。

 バルリエ様の一等美しい気配と香りに、息が止まりそうです。


「一度婚約が駄目になったぐらいで、あなたの全てを終わりにしないでください。アレイト嬢。あなたはとても美しい。あなたの能力も素直さも全てがあなたの魅力です。出来損ないなんかじゃない。どうかアレイト嬢の傍で、あなたを幸せにする権利を私にください」


「バルリエ様……」


「クレールと」


「クレール様、本当に私でいいのですか?」


「それは私の台詞ですよ」


 そんなはずはありません。

 私は首を振りました。

 

 私の瞳からはポロポロと雫が零れ落ちました。


「クレール様と出会ってからの私の心は嬉しかったり、悲しかったり、切なかったり、楽しかったり、ざわざわと、とても騒がしいのです……そして、今はとても驚いています。クレール様……お慕いしています」


 クレール様の想いや優しさに触れてしまえば、いつの間にか心を占めていた想いを伝えずにはいられませんでした。


 美しいクレール様の顔が近付きます。


 私はこの夜、初めて恋人のキスというものを知りました。





 

 人と同じことができない。

 同じものを好きになれない。

 合わせることができない。

 合わせたように振る舞うことができない――漠然と悩んでいた私は、クレール様という素敵な方に出会い、仕事を得て、さらに大好きなクレール様と結婚し、穏やかでありながら幸せな日々を送れるようになりました。



 人と同じことができない私でも幸せになれたのです。


 

 相変わらず王宮の食事は身体に合わず、夜会では少量の飲み物しか口にできません。

 社交がうまくなったかといえばそんなこともなく。


 ただ、この世界の美しさも自分や人の醜さも、どうにもならない感情や、それでもまた立ち上がろうとする心を知り、少しだけ大人になったような気がいたします。



「アレイト。ちゃんと私を見て」


 クレール様とのダンスは今もなお、私の感情の蓋を開け続けてくれます。



 醜い心を知った私は、奥底に眠る感情を心の中で呟きました。



 ()婚約者様、浮気してくれてありがとう。



 


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