愛という名の特権
午後のバスの車内は、湿った雨の匂いと、家路を急ぐ人々の倦怠感で満ちていた。
美咲は、抱っこ紐の中の重みを感じながら、吊り革を強く握りしめていた。生後六ヶ月になる息子の湊が、ぐずり始めていたからだ。
「ふえっ、うあぁぁ……!」
小さな火種は、瞬く間に大きな炎となった。バスが揺れるたび、湊の泣き声はボリュームを増していく。
「シーッ、湊、大丈夫よ。もうすぐ着くからね」
美咲は小刻みに体を揺らし、背中をトントンと叩く。しかし、湊の背中は弓なりに反り返り、泣き声は金切り声へと変わっていった。
車内の空気が、ピリリと張り詰める。
スマホを見ていた学生が、わざとらしくイヤホンの音量を上げた。前の席に座るサラリーマンが、大きなため息をついて窓の外へ顔を背ける。斜め向かいの中年女性の視線が、美咲の胸元に突き刺さる。その眉間のシワは、言葉以上に雄弁に「静かにさせなさいよ」と語っていた。
(すみません、すみません……)
心の中で何度も頭を下げる。 連日の夜泣きで、美咲の体は限界だった。化粧をする余裕もなく、髪は一つに束ねただけ。鏡を見なくてもわかる。今の自分は、ひどく疲れ切った顔をしているはずだ。
「いい加減にしてよ……」
焦りと疲労で、思わずそんな言葉が漏れそうになった時だった。
「元気だねぇ」
しわがれた、けれど温かみのある声が降ってきた。 美咲が驚いて顔を上げると、優先席に座っていたハンチング帽の老人が、穏やかな瞳でこちらを見上げていた。
「え、あ、すみません。うるさくて……」 美咲は反射的に謝った。
老人はゆっくりと首を横に振る。そして、しわくちゃの手を伸ばし、湊の小さな足をちょんちょんと触った。
「謝るこたぁないよ。泣くのが赤ん坊の仕事だ」
その言葉はよく聞くものだった。けれど、車内の冷たい視線に晒されている今、それはただの正論ではなく、救いのように響いた。 しかし、老人の言葉には続きがあった。
「じゃあ、それをあやすのは母親の『仕事』かね?」
美咲は言葉に詰まった。仕事。義務。責任。そう感じていたからこそ、泣き止まない息子に追い詰められていたのかもしれない。
老人は、目尻のシワを深くして、にたりと悪戯っぽく笑った。
「いやいや、違うな。ありゃあ『特権』だよ」
「……特権、ですか?」
「そうさ。こんなに柔らかくて、温かくて、全身全霊で命を燃やしている生き物を、腕の中に抱きしめられる。不安を取り除いてやれる。これはね、愛のある者にしか許されない、神様がくれた特権なんだよ」
老人はもう一度、湊の足を優しく撫でた。
「だからお母さん。あんたは今、大変な仕事をしてるんじゃない。一番贅沢な時間を過ごしてるんだよ」
美咲の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたようだった。
「仕事」だと思って必死になっていた。「迷惑をかけてはいけない」と自分を追い込んでいた。でも、腕の中にあるのは、ただただ愛おしい、自分を求めて泣いている小さな命だったのだ。
美咲は涙を拭うのも忘れ、湊をぎゅっと抱きしめ直した。 不思議と、さっきまでの重みが心地よい温もりに変わっていく。母親の心の変化を感じ取ったのか、湊の泣き声が次第に小さくなり、やがてスースーという寝息へと変わっていった。
バスの中に、柔らかな空気が戻ってくる。 眉をひそめていた中年女性も、バツが悪そうに、しかし少しだけ表情を緩めていた。
「……ありがとうございます」
美咲が小さな声でお礼を言うと、老人は「なに、お節介な暇人の独り言だよ」と言って、バス停に降りていった。
雨上がりの夕暮れ。 バスの窓から差し込む光は、先ほどまでよりもずっと、優しく輝いて見えた。




