空に落ちる
昼が終わらなくなってから、どれくらい経ったのか。
もう誰も、正確な時間を数えていない。
太陽は、落ちなくなった。
空は白く、影は溶けた。夜の訪れない世界で、人々は少しずつ、音を失っていった。
放送室の窓は、分厚い遮光カーテンで覆われている。外の光は、もはや視界を焼くほど強い。
春原ハルは、薄い手袋を外し、古びたマイクに指先を添えた。
音が鳴らないと、世界が止まったみたいで怖い。
だから、彼女たちは放送を続けている。誰もいない世界に向けて。
「電源、入った?」
後ろで神谷リオがケーブルを繋ぎ直す。唇が乾いて白い。
「うん……多分。まだ、動く」
ブオン、と低い音が響き、スピーカーが息を吹き返した。
「今日も、いこうか」
ハルは深く息を吸う。マイクの前に座り、赤いランプが点くのを見つめる。
それが点灯する瞬間、胸が少しだけ高鳴る。
――世界に、まだ光が届いている気がするから。
「こちら、〇〇高校放送部です。聞いている人がいたら、返事をください」
静寂。
ホワイトノイズが流れ、無音に近い音が空間を満たす。
リオがつぶやく。「今日も、誰もいないね」
「うん。でも、続けるって決めたから」
放送部は、今や三人だけ。
春原ハル。神谷リオ。そして音響担当の南ユウト。
以前は十人以上いた。大会に出て、笑いながら放送していた。
けれど、空が白くなり始めてから、一人、また一人と来なくなった。
家族の避難、体調不良、失踪。
「昼が続く世界」では、夜に眠れない人が増え、やがて町は崩れていった。
それでも、ハルはマイクを離さなかった。
放送室は学校の屋上の一角にある。ここから町全体に音を流せる。
だから、誰かがまだ生きているなら――きっと聞こえるはずだ。
彼女は、机に置かれたノートを開く。
そこには毎日の放送原稿が書かれている。
手書きの字は震えていて、インクがにじんでいた。
「今日の気温は、三十九度。空の色は白。風はほとんどありません。街のスピーカーが生きている地域は、たぶん、北の方だけです」
その読み上げる声は、もう情報ではなく、祈りのようだった。
放送が終わると、静寂が訪れる。
カーテンの隙間から、白光が流れ込む。
リオがその隙間を少しだけ広げ、ぼんやりとした空を見上げた。
「ハル、ねえ……本当に、聞いてる人いるのかな」
「いるよ。絶対に」
「でも、応答なんて一度もない」
「応答がないだけで、誰かが聞いてるんだよ」
ハルは、少し笑った。
その笑顔が、リオには無理に見えた。
「……あんた、強いね」
「そうでもないよ。怖いから、喋ってるだけ」
放送室の隅には、小さなテープレコーダーがある。
電力が切れても回るように、ハンドル式の発電がついている。
リオがそれを巻きながら聞いた。
「これ、何のために録ってるの?」
「未来の誰かに届けるんだ」
「未来って……あるの?」
「あるよ。もしなかったら、今も意味がなくなるでしょ」
外では風が鳴り始めていた。砂のような灰が舞い、遠くでガラスの割れる音がする。
太陽に近づいた地表は、少しずつ溶け始めているらしい。
ニュースはもう更新されない。政府放送も一週間前に終わった。
「もうすぐ限界だ」
ユウトがぼそりと呟いた。彼の手の甲には火傷の跡がある。
外でアンテナの修理をしたとき、直射光を浴びたのだ。
「あと二日もしたら、ここも壊れる」
「……わかってる。でも、最後までやる」
ハルの声は小さく、けれど芯があった。
翌日。
放送室の時計の針は壊れたまま。
昼が続き、眠れぬ時間が重なって、全員の顔に疲労が刻まれていた。
それでもハルはマイクの前に座る。
「こちら、放送部です。もしも聞こえていたら、どうか、返事をください」
ノイズ。
カサ……カサ……と、小さな音が混じる。
リオが顔を上げる。「今、何か聞こえなかった?」
ハルは息を呑む。
もう一度、声を出した。「こちら放送部です。聞いてますか?」
しかし、ノイズはやがて消え、沈黙が戻る。
「空耳だったね」リオが笑った。
「でも、いいんだ。空耳でも、希望は残る」
その日、顧問の安田先生が現れた。
真っ白な上着を羽織り、杖をついている。
「まだ放送してるのか。偉いな」
ハルたちは立ち上がる。
「先生、避難は……?」
「もう、どこも避難所じゃない。あとは……好きな場所で待つだけさ」
静かな声だった。
ハルは尋ねた。「先生、声って、消えると思いますか?」
「消えないよ。誰かの心に残るまで、声は音じゃなくなる」
「じゃあ、私たちの放送も」
「届いてるさ。きっと、空の向こうに」
先生は小さく頷き、階段を降りていった。
その背中は、まるで光に飲まれていくようだった。
リオが呟いた。「先生、行くんだね」
「うん。でも、まだ放送は続ける」
ハルはマイクを見つめる。その銀色の金属は熱で曇っていた。
数時間後。
電源が一度、落ちた。
アンプの赤いランプが消え、音が止まる。
ユウトが焦りながらケーブルを叩く。「駄目だ、もう供給が安定してない」
「発電室に行こう」ハルは立ち上がった。
廊下を走る。
白い光が割れた窓から差し込んで、床を照らす。
外の校庭は、草も影もなかった。
ただ、真っ白な砂のような地面が、空とつながっているだけ。
「空が……落ちてくるみたいだね」
リオが呟いた。
「うん。でも、私たちが最後に残すのは“声”。だから」
発電室は熱を持っていた。
燃えるような空気の中で、ハルは手動のハンドルを回した。
汗が流れ、息が荒れる。
ユウトが代わろうとするが、ハルは首を振る。
「私がやる。最後まで」
手の皮が裂けても、回し続けた。
やがて、遠くで電源の音が戻る。
リオの叫びが聞こえた。「戻ったよ!」
放送室に戻ると、スピーカーが微かに息を吹き返していた。
ハルはマイクの前に立つ。
唇が震える。喉が焼ける。
けれど、それでも声を出した。
「こちら、放送部です。今も、生きています。聞こえている人がいたら、どうか――」
ノイズが走った。
その中で、かすかに「……きこえてるよ」という声が聞こえた。
全員が息を止めた。
「今の、誰?」
「外部信号かもしれない」ユウトが操作盤を叩く。
「もう一度、もう一度呼びかけて!」
ハルは叫んだ。「こちら放送部です! どこにいますか!?」
しかし、ノイズは爆ぜて消えた。
録音機のテープが、くるくると回り続けている。
リオが泣きそうな顔で笑った。
「やっぱり、誰かいたんだね」
「うん。だから、続ける理由ができた」
ハルの頬にも涙が光っていた。
その夜――と呼ぶには明るすぎる時間。
校舎の外では地平線が揺れ、空が少しずつ傾き始めていた。
太陽が近づいている。
白い昼が、まるで海の波のように押し寄せる。
校舎の壁がきしみ、窓が割れる音が響く。
リオが叫ぶ。「もう逃げよう!」
「駄目、今止めたら全部無駄になる!」
「もう誰も聞いてないかもしれない!」
「それでもいい!」
ハルは叫んだ。「“私たちはここにいた”って残したいんだ!」
風が吹いた。
カーテンが裂け、眩しい光がなだれ込む。
リオとユウトは目を覆った。
ハルはマイクを握りしめた。
声を振り絞る。
「――この声が、届くことを願ってます。世界のどこかの、あなたへ」
その瞬間、地面が揺れた。
屋上のアンテナが倒れ、窓の外の景色がぐにゃりと歪む。
空が落ちてくる。
白が全てを呑み込み、音が遠ざかっていく。
最後に、録音テープの音だけが残った。
くるくると回転しながら、ハルの声を刻み続ける。
――もし聞こえていたら、返事をください。
――私たちは、ここにいます。
テープが止まる瞬間、かすかに“返事”が入った。
ノイズの奥、誰かの声で。
「……ありがとう」
そして、音は消えた。
空に落ちた地球の上で、
確かに、放送は続いていた。
誰もいない世界で、最後まで、彼女の声だけが。




