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空に落ちる

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/08

 昼が終わらなくなってから、どれくらい経ったのか。

 もう誰も、正確な時間を数えていない。

 太陽は、落ちなくなった。

 空は白く、影は溶けた。夜の訪れない世界で、人々は少しずつ、音を失っていった。


 放送室の窓は、分厚い遮光カーテンで覆われている。外の光は、もはや視界を焼くほど強い。

 春原ハルは、薄い手袋を外し、古びたマイクに指先を添えた。

 音が鳴らないと、世界が止まったみたいで怖い。

 だから、彼女たちは放送を続けている。誰もいない世界に向けて。


 「電源、入った?」

 後ろで神谷リオがケーブルを繋ぎ直す。唇が乾いて白い。

 「うん……多分。まだ、動く」

 ブオン、と低い音が響き、スピーカーが息を吹き返した。

 「今日も、いこうか」

 ハルは深く息を吸う。マイクの前に座り、赤いランプが点くのを見つめる。

 それが点灯する瞬間、胸が少しだけ高鳴る。

 ――世界に、まだ光が届いている気がするから。


 「こちら、〇〇高校放送部です。聞いている人がいたら、返事をください」

 静寂。

 ホワイトノイズが流れ、無音に近い音が空間を満たす。

 リオがつぶやく。「今日も、誰もいないね」

 「うん。でも、続けるって決めたから」


 放送部は、今や三人だけ。

 春原ハル。神谷リオ。そして音響担当の南ユウト。

 以前は十人以上いた。大会に出て、笑いながら放送していた。

 けれど、空が白くなり始めてから、一人、また一人と来なくなった。

 家族の避難、体調不良、失踪。

 「昼が続く世界」では、夜に眠れない人が増え、やがて町は崩れていった。


 それでも、ハルはマイクを離さなかった。

 放送室は学校の屋上の一角にある。ここから町全体に音を流せる。

 だから、誰かがまだ生きているなら――きっと聞こえるはずだ。


 彼女は、机に置かれたノートを開く。

 そこには毎日の放送原稿が書かれている。

 手書きの字は震えていて、インクがにじんでいた。

 「今日の気温は、三十九度。空の色は白。風はほとんどありません。街のスピーカーが生きている地域は、たぶん、北の方だけです」

 その読み上げる声は、もう情報ではなく、祈りのようだった。


 放送が終わると、静寂が訪れる。

 カーテンの隙間から、白光が流れ込む。

 リオがその隙間を少しだけ広げ、ぼんやりとした空を見上げた。

 「ハル、ねえ……本当に、聞いてる人いるのかな」

 「いるよ。絶対に」

 「でも、応答なんて一度もない」

 「応答がないだけで、誰かが聞いてるんだよ」

 ハルは、少し笑った。

 その笑顔が、リオには無理に見えた。

 「……あんた、強いね」

 「そうでもないよ。怖いから、喋ってるだけ」


 放送室の隅には、小さなテープレコーダーがある。

 電力が切れても回るように、ハンドル式の発電がついている。

 リオがそれを巻きながら聞いた。

 「これ、何のために録ってるの?」

 「未来の誰かに届けるんだ」

 「未来って……あるの?」

 「あるよ。もしなかったら、今も意味がなくなるでしょ」


 外では風が鳴り始めていた。砂のような灰が舞い、遠くでガラスの割れる音がする。

 太陽に近づいた地表は、少しずつ溶け始めているらしい。

 ニュースはもう更新されない。政府放送も一週間前に終わった。

 「もうすぐ限界だ」

 ユウトがぼそりと呟いた。彼の手の甲には火傷の跡がある。

 外でアンテナの修理をしたとき、直射光を浴びたのだ。

 「あと二日もしたら、ここも壊れる」

 「……わかってる。でも、最後までやる」

 ハルの声は小さく、けれど芯があった。


 翌日。

 放送室の時計の針は壊れたまま。

 昼が続き、眠れぬ時間が重なって、全員の顔に疲労が刻まれていた。

 それでもハルはマイクの前に座る。

 「こちら、放送部です。もしも聞こえていたら、どうか、返事をください」

 ノイズ。

 カサ……カサ……と、小さな音が混じる。

 リオが顔を上げる。「今、何か聞こえなかった?」

 ハルは息を呑む。

 もう一度、声を出した。「こちら放送部です。聞いてますか?」

 しかし、ノイズはやがて消え、沈黙が戻る。

 「空耳だったね」リオが笑った。

 「でも、いいんだ。空耳でも、希望は残る」


 その日、顧問の安田先生が現れた。

 真っ白な上着を羽織り、杖をついている。

 「まだ放送してるのか。偉いな」

ハルたちは立ち上がる。

 「先生、避難は……?」

 「もう、どこも避難所じゃない。あとは……好きな場所で待つだけさ」

 静かな声だった。

 ハルは尋ねた。「先生、声って、消えると思いますか?」

 「消えないよ。誰かの心に残るまで、声は音じゃなくなる」

 「じゃあ、私たちの放送も」

 「届いてるさ。きっと、空の向こうに」


 先生は小さく頷き、階段を降りていった。

 その背中は、まるで光に飲まれていくようだった。

 リオが呟いた。「先生、行くんだね」

 「うん。でも、まだ放送は続ける」

 ハルはマイクを見つめる。その銀色の金属は熱で曇っていた。


 数時間後。

 電源が一度、落ちた。

 アンプの赤いランプが消え、音が止まる。

 ユウトが焦りながらケーブルを叩く。「駄目だ、もう供給が安定してない」

 「発電室に行こう」ハルは立ち上がった。

 廊下を走る。

 白い光が割れた窓から差し込んで、床を照らす。

 外の校庭は、草も影もなかった。

 ただ、真っ白な砂のような地面が、空とつながっているだけ。

 「空が……落ちてくるみたいだね」

 リオが呟いた。

 「うん。でも、私たちが最後に残すのは“声”。だから」


 発電室は熱を持っていた。

 燃えるような空気の中で、ハルは手動のハンドルを回した。

 汗が流れ、息が荒れる。

 ユウトが代わろうとするが、ハルは首を振る。

 「私がやる。最後まで」

 手の皮が裂けても、回し続けた。

 やがて、遠くで電源の音が戻る。

 リオの叫びが聞こえた。「戻ったよ!」


 放送室に戻ると、スピーカーが微かに息を吹き返していた。

 ハルはマイクの前に立つ。

 唇が震える。喉が焼ける。

 けれど、それでも声を出した。

 「こちら、放送部です。今も、生きています。聞こえている人がいたら、どうか――」


 ノイズが走った。

 その中で、かすかに「……きこえてるよ」という声が聞こえた。

 全員が息を止めた。

 「今の、誰?」

 「外部信号かもしれない」ユウトが操作盤を叩く。

 「もう一度、もう一度呼びかけて!」

 ハルは叫んだ。「こちら放送部です! どこにいますか!?」

 しかし、ノイズは爆ぜて消えた。

 録音機のテープが、くるくると回り続けている。


 リオが泣きそうな顔で笑った。

 「やっぱり、誰かいたんだね」

 「うん。だから、続ける理由ができた」

 ハルの頬にも涙が光っていた。


 その夜――と呼ぶには明るすぎる時間。

 校舎の外では地平線が揺れ、空が少しずつ傾き始めていた。

 太陽が近づいている。

 白い昼が、まるで海の波のように押し寄せる。

 校舎の壁がきしみ、窓が割れる音が響く。

 リオが叫ぶ。「もう逃げよう!」

 「駄目、今止めたら全部無駄になる!」

 「もう誰も聞いてないかもしれない!」

 「それでもいい!」

 ハルは叫んだ。「“私たちはここにいた”って残したいんだ!」


 風が吹いた。

 カーテンが裂け、眩しい光がなだれ込む。

 リオとユウトは目を覆った。

 ハルはマイクを握りしめた。

 声を振り絞る。

 「――この声が、届くことを願ってます。世界のどこかの、あなたへ」


 その瞬間、地面が揺れた。

 屋上のアンテナが倒れ、窓の外の景色がぐにゃりと歪む。

 空が落ちてくる。

 白が全てを呑み込み、音が遠ざかっていく。


 最後に、録音テープの音だけが残った。

 くるくると回転しながら、ハルの声を刻み続ける。

 ――もし聞こえていたら、返事をください。

 ――私たちは、ここにいます。


 テープが止まる瞬間、かすかに“返事”が入った。

 ノイズの奥、誰かの声で。

 「……ありがとう」


 そして、音は消えた。


 空に落ちた地球の上で、

 確かに、放送は続いていた。

 誰もいない世界で、最後まで、彼女の声だけが。

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