第2話:完璧すぎる偶然
第2話:完璧すぎる偶然
王立学院へ向かう馬車は、これまでの人生で最も乗り心地の良い移動手段だった。車内には柔らかな長毛の絨毯が敷かれ、エリノラの高級な香水の香りが漂っていた。移動手段というより、まるで移動式の豪華な応接室のようだった。
だが、私の思考はこの贅沢さには留まらなかった。目を閉じ、頭の中で事件ファイルを繰り返し組み立てていた。
容疑者:エリノラ・フォン・ヴァレンシア
被害者:リリアン・エステル
事件の種類:殺人未遂(疑いあり)
重要証拠:倒れた本棚
重要証人:複数、しかも証言内容は高度に一致している
「……着いたわ。」
エリノラの声が思考を遮った。馬車が止まり、従者が扉を開けると、本の匂いと草の香りが混じった空気が流れ込んできた。目の前には、王立学院の荘厳な門構えが広がっていた。建築様式は古典的な威厳と魔法的な幻想性を兼ね備え、学び舎というより、まるで宮殿のようだった。
私たちは中庭を通り、目的地——学院の図書館へと向かった。道すがら、エリノラを見かけた生徒たちは次々と道を空け、ひそひそと話しながら、敬意とも侮蔑ともとれる視線を彼女に向けていた。彼女は背筋を伸ばし、まるで戦闘態勢の孔雀のように誇りを身に纏っていたが、わずかに震える指先からは彼女の不安が滲んでいた。
図書館の中は、息遣いさえ聞こえるほど静寂に包まれていた。巨大なステンドグラス窓から陽光が差し込み、空気を七色に染めていた。事件現場は図書館の奥深く、すでに王家騎士団によって赤いベルベットロープで封鎖され、二人の騎士が無表情で警備していた。
公爵令嬢という立場で交渉した結果、私たちは封鎖区域への立ち入りを許された。
「彼女と鉢合わせたのは、ここよ。」
エリノラの声は抑えられていたが、怒りを隠しきれていなかった。彼女は封鎖区域の中心を指差した。
「リリアンは何人かの生徒と一緒に本を探していて、その中にはケイラン・アストリオ氏もいたの。」
女たらしの魔法使い、ケイラン・アストリオ。ゲームの攻略対象の一人だ。私は頷いて、続きを促した。
「彼女が私の悪口をケイラン氏に吹き込んでるように見えて、思わず怒りが込み上げて……」エリノラの頬が赤く染まる。「認めるわ、私は彼女に警告した。私の婚約者であるアドリアン皇太子に近づかないでって。口調が……少しきつかったかもしれないけど。」
「『きつかった』だけかしら?」私は不意に問い返す。
彼女は言葉を詰まらせ、目を逸らした。「……とにかく、口論になったの。彼女は相変わらず可憐な顔で、私が誤解していると言ったわ。そして、そこからが肝心なの。」
彼女は、隣にある巨大な空っぽの本棚を指差した。それはすでに元の位置に戻されていたが、周囲にはまだ散乱した本が残っていた。
「私は腹が立って、背を向けてその場を去ろうとした。ちょうどその瞬間、彼女が突然叫んで、私に突き飛ばされたって言ったの。それから彼女は本棚の方へ倒れ——」エリノラは深く息を吸い込む。「——本棚が崩れたの。」
私は本棚の前にしゃがみ込み、手袋をした指先で床をそっと撫でた。木製の床には、明確な擦り傷が残っていた。
「そのあとよ、」エリノラの声がかすかに震えていた。「ギディオン・ヴァンス卿、私の護衛騎士が、まるで計ったかのように角から飛び出してきて、本棚が完全に倒れる前に彼女を抱きかかえて助け出したの。」
私は立ち上がり、周囲を見渡した。彼女の話が、私の頭の中で立体的な地図として浮かび上がっていく。
「皆が言うの。私が彼女を押したせいで、本棚にぶつかって、それが倒れたって。」エリノラの声には屈辱が滲んでいた。「探偵さん、あなたはおかしいと思わない?私が口論した直後に、彼女は『偶然』本棚に潰されそうになって、ヒーローが現れて助ける。そして私は、殺人未遂の悪役にされるのよ。」
「私は『思わない』主義だ。」私は冷静に答えた。視線は手術刀のように現場の細部を解剖する。「私は証拠を見る。ヴァレンシア嬢、あなたが対峙していた位置に立ってください。」
エリノラは言われた通りに立った。
「リリアン嬢はどこに?」
彼女は前方、三歩ほどの距離を指差した。
「本棚は……彼女の左後ろ。距離は?」
「一歩くらい。」
私はリリアンがいたという位置に立ち、背を向けて本棚を背負った。正面から突き飛ばされた人間は、本能的に後ろへよろける。だが、左後方に正確に倒れるには、高い身体操作能力、あるいは……事前の演技が必要だ。
「ここが引っかかるのよ。」エリノラは私の考えを読み取ったかのように言った。「すべてが、完璧すぎる。一つの完璧なタイミング、完璧な角度、完璧な英雄譚、そして……完璧な罪人。」
私は彼女の興奮には応えず、目撃者たちがいた位置へと移動した。一人ずつ、その視点を再現していく。彼らの位置からは、エリノラの体がリリアンを完全に隠していた。彼らが見たのは、エリノラが「押した」ような動き、そしてリリアンが倒れる様子——それだけだ。
これは視覚的な死角を利用した罠。初歩的だが、極めて効果的。
私は再び現場の中心に戻り、目を閉じた。前世で培った犯罪分析と現場検証の記憶が、一気に回転を始める。
疑点一:動機。エリノラの「嫉妬」という動機は、あまりにも典型的すぎる。犯人にとって都合が良すぎる動機は、往々にして偽装だ。
疑点二:タイミング。騎士の登場は出来過ぎている。偶然か、それとも演出か?
疑点三:物理的な証拠。本棚の崩壊は、単なる接触で起きるか?あるいは、外力が加わっていた可能性?
だが、全ての疑点は、エリノラが繰り返し訴えていたあの一言——完璧——に集約される。
現実の「事故」は、常に混乱と偶然と不確実性に満ちている。だがこの事件は、まるで綿密に計算された舞台劇。登場人物の立ち位置、台詞のタイミング、すべてが「エリノラが悪者で、リリアンが被害者」という結末のために存在している。
これは事故なんかじゃない。これは脚本だ。
リリアン・エステル自らが書き、監督し、主演した、完璧な犯罪劇の脚本。
「探偵さん……?」エリノラは沈黙する私を見て、不安げに尋ねた。
私は目を開き、彼女に向き直る。初めて、依頼人を真剣に見つめながら言った。
「ヴァレンシア嬢、あなたはひとつ、勘違いをしている。」
「なに……?」
「あなたの敵は、あなたが思っている以上に手練れです。彼女は単なる嘘つきではありません。彼女は、誰もが信じたくなる『物語』を構築しているのです。彼女は聖女で、あなたは——王子との幸福な結末のために踏み台にされる、悪役令嬢。」
この言葉は、どんな非難よりも彼女の誇りを傷つけたようだった。エリノラの顔色が、みるみる青ざめていく。
「そ……それじゃあ、私はどうすれば……?」初めて彼女は、年相応の迷いを見せた。
「簡単なことです。」私は風衣のポケットから手帳とペンを取り出した。「昨日の午後、起きてから事件が起こるまで、会ったすべての人、交わしたすべての言葉、行ったすべての行動——些細なことも一つ残らず教えてください。」
「それが事件と何の関係が……?」
「大いにあります。」私は眼鏡を押し上げ、レンズが図書館の色彩を反射した。「相手は、完璧な物語を提出しました。私たちの仕事は、その物語を破るための、何でもないような、真実の中のたった一つの“ほころび”を見つけ出すことです。」
ペン先が、まっさらなページに触れる。
検視作業は、ここからが本番だ。
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