第10話:前金と契約
第10話:前金と契約
私の言葉が落ちると、《風のささやき》という名の詩集が、私とエリノラの間のティーテーブルの上に静かに置かれていた。それはもはや一冊の本ではなく、これから始まる戦いの中で、最初に打たれる精緻な駒だった。
「餌?」エリノラは詩集から視線を外し、私を見つめた。もはやそこに迷いはなく、代わりに瞬時に本質を見抜く理解力が宿っていた。「この本を使って……誰かに近づくつもり?」
「その通りです。」私は小さく頷き、彼女の成長に心からの称賛を抱いた。「リリアンは偽作の詩で、風流な魔法使い、ケイラン・アストリオの賞賛を得ました。彼女を暴くには、ケイラン殿と自然に、深く詩と音楽について語る機会が必要です。そしてあなた、エリノラ様、」私は彼女を見た。「あなたがこの詩集に感じた真の想いこそが、私たちの最も強力な武器です。ただし、その『機会』をどう作るかは、慎重に計画しなければなりません。」
エリノラはしばらく沈思し、この新たな、知略を中心とした戦いの形を消化しようとしていた。やがて、彼女は私の予想を超える行動を取った。彼女は立ち上がり、部屋の一角にあるベルベットの紐を引いた。
間もなく、隙のない髪型と管家服を身にまとった老執事が音もなくドアを開けて入ってきた。
「お嬢様、ご用命でしょうか?」
「マーティン執事、」エリノラの声には、公爵令嬢としての威厳が戻っていた。「金庫から金貨を五百枚取り出し、袋に入れてきてください。それと、父の書斎にある『家族顧問』の空白契約書を持ってきて。」
老執事の目に一瞬驚きの色が走ったが、何も尋ねず、深く一礼して部屋を後にした。
私は少し困惑しながらエリノラを見つめた。彼女は再び腰を下ろし、すでに冷めきった温水をそっと口に含んだ。それは、決意を固めるための小さな儀式のように見えた。
「ミスティ探偵、」彼女は静かに語り出した。その声は、かつてないほどの真剣さに満ちていた。「父の言った通り、あなたは面白い人だわ。いいえ──非常に有能な人だと言うべきね。今まで支払ったのは、あくまで一件の事件調査の報酬。でも今の私は理解している。目の前にあるのは、いくつかの問題ではなく、長い戦争なのだと。」
ほどなくしてマーティン執事が戻ってきた。彼の後ろには二人の使用人が続いていた。一人は重そうなバレンシア家のグリフォン紋章が刺繍された金袋を、丁寧にテーブルの上に置いた。鈍い音が心に響いた。もう一人は、革紐で縛られた厚手の羊皮紙を差し出した。
「この五百枚の金貨は、」エリノラは金袋を指差しながら言った。「報酬ではなく『前金』よ。これからの戦争のために前もって払う軍資金。私はあなたの知恵が必要。状況を分析し、対策を立てる、そのすべてに。」
次に、彼女は自らの手で革紐を解き、その羊皮紙を私の前に広げた。それはバレンシア公爵の名において署名された雇用契約書だった。インクには銀粉が混ざっており、灯りの下で微かに輝いていた。被雇用者の職位欄に記されていたのは、「探偵」でも「護衛」でもなく、「バレンシア家特別顧問」とあった。
契約が私に与えるのは金銭だけではない。バレンシア家の全資産への自由な出入り、非中枢情報の閲覧権、さらには必要時に「限定的に」家の人脈を動かす権限までも含まれていた。
その契約の重みは、金袋よりも遥かに重かった。
それは、この巨大な貴族家と、ただの雇用関係を超えた深い結びつきを意味していた。私の名前は、彼らの名誉と汚辱とを共に背負うことになる。それこそが、私が転生以来、最も避けてきた事態だった。前世で、人と深く関わったが故に破滅を招いたあの記憶が、幽霊のように心の奥で囁き、私に警鐘を鳴らしていた。
私は黙って契約書を見つめ、激しい葛藤に揺れていた。
エリノラは、私の迷いを見透かしたかのように、静かに口を開いた。「無理強いはしないわ。でも、あなたも言っていたじゃない。リリアンは最上級の敵だって。そんな相手には、私もあなたも、一人では立ち向かえない。私はあなたの頭脳が必要。そしてあなたも、きっとバレンシアという名を、最強の盾として必要とするはずよ。」
その言葉の一つ一つが、私の心に響いた。
そうだ、この世界では、真実は力の加護がなければ、ただの色褪せた言い訳でしかない。私は、どれほど優れた推理能力を持っていようと、権力や背景は一切ない。バレンシア家の支援がなければ、図書館にもう一度足を踏み入れることすらできないかもしれない。
私は静かに息を吐き、ついに心を決めた。私はエリノラから差し出されたペンを受け取り、重厚な契約書の末尾に──ミスティ──と名前を記した。
ペン先が羊皮紙から離れた瞬間、何か目に見えぬ絆が、確かに結ばれたのを感じた。
これは、感情や親しさによるものではなく、専門性と信頼に基づく、女性同士の同盟だった。
私たちの最初の事件は、ここでようやく終止符を打った。そして、より大きく、より危険な盤上の戦いが、いま静かに幕を開けたのだ。私はテーブルの上の金貨と契約書を見つめながら、心の中でこう思った。
探偵の報酬はすでに支払われた。そして──私の平穏な日々は、今、正式に幕を下ろした。
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