第1話:紅茶と招かれざる客
第1話:紅茶と招かれざる客
王都の午後。陽射しは安物の贅沢品だ。
年季の入った私立探偵事務所の窓ガラスを透過し、金色の筋となって漂う塵を照らし、やがてティーカップの白磁に落ちる。
私――水月。表向きの屋号は〈ミスティ〉。
今はただ、完璧なアールグレイを淹れるという儀式に没頭している。九十度の角度で沸騰湯を注ぎ、茶葉を瞬時に開かせ、ベルガモットの魂を解放する。三分ちょうどで葉を引き上げる。それが物理であり論理。転生後の世界で私が完全に掌握できる、数少ない事柄だ。
前世は刑事。失控と混沌の連鎖の果て、相棒は散り、私も悪党に討たれて幕を閉じた。
目を開ければここは乙女ゲーム世界。恋愛=戦争の舞台。以来、私は鉄則を掲げた。
――傍観者でいろ。深入りするな、被疑者になるな、誰も傷つけるな。
事務所は閑古鳥。心は静謐。
そこへ、傲慢なベルが鳴った。
まるで小石が水面を割るように、私の静寂は壊れた。
私は立たない。ここを探し当てるのは三種の人間――迷子、押し売り、あるいは本当に追い詰められた者だ。
扉が返事も待たずに開く。陽光を遮り、室内が陰る。
濃紫の天鵝絨ドレス、複雑なレースと金糸が闇の中で光を弾く。攻撃的な高級香水が空気を満たす。
「ここが“何でも屋”探偵事務所なのかしら?」
声は澄み、高飛車、疑問など許さぬ調子だ。
私は茶を置き顔を上げる。金の巻き髪、磨かれた翡翠の瞳。
容姿そのものが刃。
名はエレノーラ・フォン・ヴァレンシア――悪役令嬢。癇癪持ちとしてゲーム内で悪名高い。
「何でも屋なら隣の酒場だ。吟遊詩人の方が下世話な噂に詳しい」
私は平坦に告げる。「ここは〈ミスティ探偵事務所〉、事件しか扱わない」
眉間に皺。怒気が滲むが、より深い焦燥がそれを抑え込む。
レース傘を握る指が白い。
「あなたしか頼めないのよ!」
彼女は椅子の前に立ち、私を見下ろす。「殺人未遂で私とヴァレンシア家の名誉を潰そうとしている者がいるの!」
私は手で示し、座らせる。視線を水平に――被疑者取り調べの基本だ。
エレノーラは躊躇しつつ腰を下ろす。フープの擦れる音が小さく鳴る。
「事件概要を」
私は簡潔に言い、空のティーカップを差し出す。
「こんな庶民の飲み物、飲まないわ!」軽蔑の眼差し。しかし語り始める。早口、まるで屈辱の尋問調書を読み上げるかのように。
「昨日、王立学院図書館であの女――リリアン・エステルと遭遇したの。私はただ警告しただけ、私の婚約者エイドリアン皇太子殿下に近づくな、と。口論になって……そのとき本棚が倒れたのよ! 彼女の真上に!」
「直撃したか?」
「するわけないでしょう! 王立騎士団のギデオン・ヴァンス卿が偶然通りかかって助けたのよ! でも偶然にしては出来すぎだと思わないの?」
私は答えず、別の質問を投げる。「その場にいた証人は?」
「学生数人と司書。みんな、私がリリアンを突き飛ばして本棚にぶつけたって証言してるの。ありえないのよ! 私、指一本触れてないわ!」
「依頼内容は?」
「私の潔白を証明して!」エレノーラの翡翠が射抜く。「あの女の罠だと明らかにしてほしいわ!」
――お決まりのご都合主義。悪役令嬢がヒロインを虐め、攻略対象に目撃され評価が下がる。
最初の反応は拒絶だ。恋愛戦争に介入すれば私が被疑者になるリスク。古傷が疼く。
だが彼女の目の奥に、屈辱と恐怖を見た。
感情に左右される証言。楚々とした被害者。最初から有罪と決めつけられた被疑者。
これは恋愛ではない。事件ですわ。
埋めたはずの探偵魂が頭をもたげる。
「報酬は高いぞ」
エレノーラは重い金貨袋を机に叩きつける。「いくらでも払うわ!」
「金だけじゃ足りん。調査中は全面協力。質問にはすべて答え、情報は隠すな。公爵令嬢の立場で私の判断を捻じ曲げるな。約束できるか?」
怒りを飲み込み、彼女は頷く。「できるわ。潔白さえ証明できるなら!」
「私は誰かの潔白も有罪も“証明”しない。物証で事実を提出するだけだ。世間が何を信じるかは、そいつらの自由だ」
私は金貨袋を引き出しに放り込み、契約成立の音を鳴らす。
白手袋をはめる。
「行くぞ、ヴァレンシア嬢」
「どこへ?」
「現場。図書館はまだ閉まっちゃいない」
眼鏡の奥で久々の高揚が灯る。
「聖女ヒロインが残した犯罪現場、見せてもらおう」
――この日、私は例外を犯した。
漩渦に巻き込まれると知りつつ依頼を受けた。金と知的遊戯のため……いや、被疑者として孤立する悪役令嬢に、かつての自分を重ねたのかもしれない。
エレノーラの前に置いた紅茶は、一口も飲まれぬまま冷えきった。
私の孤独な日常もまた、音を立てて終わりを告げた。
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