第7話 今まで世界は灰色だったように思う
コルネリスは元首公邸にいた。元首の側にいて補佐をすることが元首補佐官の務めだ。
「監察委員会の報告によれば、最近税収の一部の会計におかしな点があったようです」
コルネリスの報告に、元首は前髪をくしゃくしゃした。
「まずいなあ~。ちゃんと調査するように言って」
「はい」
他の元首補佐官も同様に頷いている。
「最近ダレておりますな……わが国は」
そのうちの一人の言葉に、元首は頷いた。
「そうだね〜。大変良くない。大変良くない」
そう言いながら元首はコルネリスをじっと見る。隙の無い、怜悧な男だ。
「なんでしょう」
「お前はちょっとダレたほうが良い」
「はあ……私は十分ダレていると思います」
コルネリスはそう答えた。
ダレている。
コルネリスは自分の近々の行動を振り返ってみてそう思っていた。
榛色の深い瞳に鮮やかな鳶色の髪を持つ彼女──アネッテ・ドルスマンが最近眩しく見えて仕方がない。ただの画家だというのに。
「……うっ」
コルネリスが苦しげに目元を押さえたため、元首は顔色を変えた。
「レンスヴォーデ? 大丈夫か!?」
「はい、……何でもありません……少し目眩が」
「病気か?」
他の元首補佐官たちが顔を見合わせている。
「いえ、大丈夫です」
くだらない、と一蹴しながら次の書類を手に取ろうとする。
──そういえばあれだけ薔薇を贈ったり、変な手紙を送ったりして、アネッテさんは戸惑ったよなあ……。
ざっと血の気が引いていく。
「……」
コルネリスが体を震わせたため、元首は顔色を変えた。
「レンスヴォーデ? 大丈夫か!?」
「はい、……何でもありません……少し寒気が」
「病気か?」
他の元首補佐官たちが顔を見合わせている。
「いえ、大丈夫です」
書類を手に取り、中身を精査する。
──アネッテさんのことばかり考えている……。
身体がどんどん熱くなっていく。頬が薔薇色に染まる。
「……ふう……」
顔を真っ赤に染めているコルネリスが少し額の汗を拭ったため、元首は顔色を変えた。
「レンスヴォーデ? 本当に大丈夫か!?」
「はい、……何でもありません……少し熱が」
「病気か?」
他の元首補佐官たちが顔を見合わせている。
「いえ、大丈夫です」
「いや、病気だと思うよ!?」
元首はコルネリスに突っ込んだ。だが、新任元首補佐官コルネリス・レンスヴォーデは書類を読んで問題点を挙げ始める。
──でもきっと、アネッテさんは僕のことを……そこら辺の毛虫と同じように見ている。
そう思うと、心臓が苦しく締まる。
「……うっ」
コルネリスが苦しげに胸を押さえたため、元首は顔色を変えた。
「レンスヴォーデ? 大丈夫か!?」
「はい、……何でもありません……少し心臓が苦しくなって」
「病気か?」
他の元首補佐官たちが顔を見合わせている。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃねえよ!? 呼べーー! 誰か医者を呼べーー! レンスヴォーデが病気だぁぁぁ!」
休憩室としてあてがわれた元首公邸の部屋には、数多くの絵があった。
「お疲れでしょう。無理が祟ったのでしょう」
医者はそう告げた。元首は「随分と苦しがってますが!」と騒いだ。
「どこにも異常はありません。たぶん、元首閣下が無理をさせたからでは?」
「そうかなあ」
元首は唇を尖らせた。
しばらく休んでいなさい、と皆がその場を去っていく。
コルネリスはベッドの上に身を投げ出しながら、
──アネッテさんの絵とかあるかなあ……。
探してみたが、そうと分かる絵はなかった。画風の違いが分かればいいのに。
今までの世界は灰色だった。
七大貴族、レンスヴォーデ家にようやく生まれた健康な跡継ぎ。たまたま人より賢かった。たくさん勉強させられたし、自分の肩に乗せられてゆく期待には十分応えてきた。
ずっと監視されてばかりで、友達と遊ぶこともなく、──いや、自分には友達などいなかった。ひたすら従順に勉強に打ち込んできた。勉強そのものは好きだった。ではなく、勉強するしかなかった。顔も知らない兄姉が相次いで亡くなったという薄暗い過去の中で、父と母の関係は破綻した。父母の笑顔で取り繕った不和と、自分に対する過度な期待と溺愛の中で、勉強するしかなかったのだ。
だから、世界がこんなに美しいなんて知らなかった。
空を見上げれば星が宝石のように輝いていて、地面を見れば小さな花々が彩り豊かに咲き乱れている。木々の間には小鳥が愛らしい声で鳴いている。猫や犬がふわふわしていてかわいい。
アネッテの「あの表情」がなければ気づかなかった。知らなかったし、知ろうともしなかった。
──だから感謝をしたいんだけど。
猛烈に感謝をしたい。感謝したくてたまらない。いや……会いたい。ただ会って話したい。
その唇から零れ落ちる声を聞きたい。
いや、とコルネリスは起き上がる。
──私はダレている……女にここまで入れあげるなど……。