第6話 怪奇!薔薇の花束のおばけ!
怪文書はアネッテが手紙を送って以降、ぴたりと来なくなった。
本当に偽レンスヴォーデ卿(※乙女)がいて、今ごろ偽物の楚々とした乙女は、本物から厳しく叱りつけられているのだろう。アネッテは不審に思いながらも、軽く考えていた。
「いやあ、世の中には不思議なことがあるものねえ」
アネッテはそう呟いた。
今日は大聖堂を写生しに来ている。その帰りに市場に寄って人参を買ってきてほしいとレニに言われていたので、早めに切り上げなくては。
だが、大聖堂の細かい装飾を見ているとつい楽しくなってしまって、写生が止まらない。
ついでに大聖堂に祈りに来た美しい尼僧にモデルになってもらい、女性の横顔を描いた。モデルになってもらったのでいくらか金を支払った。
──うーん、何て充実した一日……。
アネッテは尼僧に手を振った後、素描帳片手に大きく伸びをした。写生する時間がわりと好きだ。心静かで穏やかな気持ちでいられる。
伸びをし終わった後、市場へ向かおうとした。
次の瞬間、薔薇の花びらが空から降ってきた。
「はい!? 何!?」
空を見上げると、隅のほうに何かあるのに気づく。ゆっくりと振り向けば、薔薇の花束がドン、と視界に飛び込んできた。
アネッテは目を擦った。
「つ、疲れてんのかしら」
とんでもなく大きな薔薇の花束から、二本の足が生えている。
薔薇の花束のおばけがいた。
「嘘。嘘……何、これ」
薔薇の花束のおばけは、すたすたとアネッテのほうへ向かってきた。
「いや、私が薔薇から何の恨みを買ったというのよ! 薔薇!? 薔薇を散々絵の題材にしたせい!? 薔薇にモデル料を支払わなかったから恨まれてるの!? 人間にはモデル料を支払うのに植物には何も支払わないのかって!? 何!? 何なの!?」
急いで大聖堂の方へ逃げていく。
薔薇の花束のおばけもアネッテを追う。
「やめてぇぇぇぇぇえ!!! ごめんなさい! モデル料を支払うわ! だから! だから! 二度と化けて出てこないで〜!」
アネッテが大聖堂の中へ入ろうとしたそのとき、誰かにぽんぽんと肩を叩かれた。
「ひゃいっ!!」
レンスヴォーデ家の家令、バルトロメウスが、深々と頭を下げながら立っている。
「あれ……バルトロメウスさん!?」
「申し訳ございません。旦那様が──」
「は?」
次の瞬間、薔薇の花束が乱暴にアネッテに押し付けられ、手に握らされた。
重い。腕がもげそうだ。
「な、何!? 何なの、この薔薇!」
高くもなければ低くもない、明瞭な声が響く。
「百輪の薔薇の花には……一生に一度の思いを伝える、という意味があるのだそうです」
「は……はあ」
薔薇の花の中で溺れそうになりながら、アネッテは反応した。誰だ、この声? 聞いたことがある、と思ったが──すぐに思い出す。コルネリス・レンスヴォーデの声である。
「私の今の気持ちこそ、それにふさわしい! アネッテさん! あなたに感謝しています! なので、百輪の薔薇の花束を受け取ってください!!」
「ふざけんな〜〜〜!!!」
アネッテは薔薇を抱えたまま、勢いよく振り回した。コルネリスと思われる男が、その衝撃で地面に倒れ込む。
バルトロメウスが「ああっ、旦那様!」と彼を抱き起こした。
「あのねえ!」
アネッテは腹に力を込め、重すぎる薔薇の花束を両手に抱えて叫んだ。
「レンスヴォーデ様、絵の題材になるので薔薇をくださるのはありがたいんですが、百本は多すぎます! レンスヴォーデ様を見て、薔薇のおばけかと思いました!」
薔薇をかき分けて見れば、玲瓏たる面輪が呆然としていた。
「多すぎ……る?」
家令のバルトロメウスが、何度も力強く頷いた。
「旦那様。申し上げた通り、五輪くらいにしておいたほうが良かったのではありませんかね……」
大聖堂の適当な墓に、薔薇の花束百本を背負投げして置いてきたアネッテは、聖堂の中で呆然とするコルネリスに言った。
「すみません、ひょっとして怪文書を送りつけてきたのも、本当にレンスヴォーデ様ですか?」
「か……怪文書?」
きょとんとした表情を浮かべるコルネリスは、非常に美しかった。
大聖堂のステンドグラスから降り注ぐ多彩な光が、彼の雪花石膏のような肌に注ぎ、妙なる色彩を生み出している。銀に近い金のさらさらした髪はさらに輝き、薄紫色の瞳が翳っていた。
……なんだか、アネッテは非常に苛々してきた。
「そうです。『庭の薔薇が満開で、非常に綺麗だと気づきました』とか」
つっけんどんな口調で言うと、コルネリスは以前会ったときとはまったく違う、子犬のように無邪気な笑顔で答えた。
「感謝の気持ちを表現してはいけませんか?」
「……いや、その。表現すること自体はいいんですよ。いいんです、が……」
彼は乙女のように頬を薄く薔薇色に染め、アネッテの節くれだった手を取った。
「手紙を送ったのは僕です。あなたに手紙を送りたかったから」
「あの、どうして」
コルネリスはずっとにこにこしている。
「あなたに会ってから、世界が変わりました。今まで何の色彩もなかった世界が、急に色彩を帯びるようになった……『美しい』というものが、わかった気がします」
バルトロメウスがそっと言い添える。
「旦那様はようやく『美』に開眼なされたのです」
「……え……? 開眼したからって性格変わります? え? まずいんじゃないですか? 世界の終わりが近い……!?」
バルトロメウスはどこかへ消えてしまった。
おい、答えろよ家令、とアネッテは頭を抱える。
「アネッテさん、お近づきになれたついでに」
「いや、全然お近づきになってませんが!?」
「ええ? ……悲しいなあ。でも、じゃあ、会話をしたついでに」
「はあ」
「これから頻繁にお会いしても、よろしいでしょうか!」
「まあ、会うことはやぶさかじゃありませんが……性格のほう、大丈夫ですか?」
アネッテがコルネリスの性格の変化を本気で心配したとき、大聖堂に、貴族と思われる肥え太った人の良さそうな男がやってきた。
コルネリスはすっと立ち上がる。その瞬間、顔が冷徹で怜悧なものに変わった。──いや、戻ったと言うべきだろう。
貴族はコルネリスのもとへ一目散に向かい、にこやかに声をかけた。
「レンスヴォーデ殿! こんなところにおられたか」
先ほどまで子犬のように無邪気だったコルネリスの薄紫色の瞳が、冷たく優雅なものに変わる。
「はい。閣下こそ、どうなさいました?」
「至急、監察委員会へ赴いてもらいたい。実は──」
「承知しました」
声音までが、隙のない怜悧さを帯びたものに変わっていた。……やはり、戻ったと言うべきだろうか。
コルネリスはアネッテに微かに一礼すると、その貴族とともに去っていった。
残されたアネッテは、首を傾げる。
「……世界の終わり……は遠ざかった?」
とりあえず、人参を買いに行かなくてはならない。