第5話 乙女な怪文書がめっちゃ来る
中庭に出ると、初夏の爽やかな日差しがアネッテを包んだ。
「あ〜、いい天気ね〜」
「そうですね、先生。朝ごはんができましたよ」
年老いた家政婦のレニが遅い朝食を作ってくれていた。
最近のアネッテは朝起きると紅茶一杯だけ飲んでアトリエに十時まで籠っている。そうすると、作業が捗るのだ。その間、レニは洗濯をしてくれて、昼食を兼ねた朝食を作ってくれる。
レニは控えめに言った。
「今日は生ハムが手に入りましたよ、先生。パンに生ハムとサラダを挟みました」
「えっ、生ハム高かったんじゃないの?」
「お安く手に入って」
「ええ〜、やったー!」
子供のようにアネッテは笑った。レニも微笑み返す。
食堂へ向かい、一緒に食事をしていると、レニが尋ねてきた。
「先生、今日のご予定は?」
「ええっと、新しい依頼が二件来ているの。一件はさっき半分くらいまで終わらせていて、もう一件は午後までに下地を作ってしまいたいから〜、ええっとぉ。午後も籠る。ごめんなさい」
「かしこまりました」
「わ〜、この生ハムとサラダをパンで挟んだやつ、おいしいわね」
「ありがとうございます」
その時、外で郵便配達人が手を振っているのが見えた。レニは立って、手紙を受け取りに行くアネッテはレニと郵便配達人の動きを何とはなしに見ていた。
しばらくしてレニは、不審げな顔をして戻ってきた。
「先生宛です、が……」
なんだろう、とアネッテは手紙を受け取った。依頼客からの催促かな、と思いながら差出人を見ると、貴族らしい華麗な筆致で「コルネリス・レンスヴォーデ」と書かれている。
「レンスヴォーデ様?」
少し前に、元首補佐官になった記念に肖像画を描いた貴族だ。銀に近い金色のサラサラとした髪に、薄い紫の瞳が印象的な美貌の男性。冷徹で怜悧な人物である。
支払いには滞りがなかったし、納品もとうにしているし……。
——また依頼とか?
芸術嫌いの彼が絵の依頼をするなどという酔狂をしてくるだろうか。
「んん?」
とりあえず中身を見ないと始まらない。
封蝋を切り、手紙を広げると、どさり、と中から真っ赤な薔薇の花びらが散った。
「……え?」
薔薇の花びらにまみれながら、アネッテはきっちりした筆致で書いてある文章を読んだ。
——アネッテ・ドルスマン様、
ゴクリ、と息を飲む。何を言ってきたのだろう。
——今日はあなたに感謝したいことがあってペンをとりました。……庭の薔薇が満開で、非常に綺麗だと気づきました!
「は?」
——窓から見える景色は鮮やかです。いい天気でとても嬉しいです。あなたにお会いしてから、景色を見ると全てが色づいて見えます。信じられないほど気分が弾むんです。このような気持ちをくださって、ありがとうございます。
アネッテは文面を読みながら震えた。
「か、か……」
「先生?」
レニが顔を窺ってくる。
「怪文書ーーーーーーーーーーーッ!!!!」
アネッテはその手紙ならぬ怪文書をつまみ、悲鳴をあげた。
「先生、どうなさったのです!?」
レニがアネッテから手紙を受け取ると、首をかしげた。
「感謝のお手紙ではありませんか」
「前に依頼を受けたあるお方からの手紙なんだけど……こんなに明るい感謝の手紙を書く人じゃないのよ」
「まあ」
「それに、そのお方からはたぶん嫌われていると思うし……出過ぎた発言をしちゃったから……」
レニがポンと手を打つ。
「では、別人宛のものが間違って送付されたのでしょうかね」
「きっとそうだと思うわ!」
とりあえず無視しておこう。
アネッテはその時、そう決断した。
ところが。
翌日のことだ。
雨が降っていて、アネッテは絵の具がドロドロにならないよう窓を閉め、作業もさほど行わず、レニとともに繕い物をしていた。レニは破れてしまったテーブルクロスを繕っていて、アネッテは絵を描くときの作業着を繕っていた。
「いやあ、雨の日は気分が沈むわね」
「そうですねえ。でも雨の音は味がありますよ」
「そうかしら……そうかも」
などなどとほのぼのした会話を女二人でしていたのである。
また郵便配達人が来た。レニが出て行き、「雨の中ご苦労さま」と言いながら手紙を受け取る。
「先生、またその、レンスヴォーデ様からです」
「え?」
アネッテは目を瞬かせながら手紙を開いた。
——アネッテ・ドルスマン様
感謝すべき人にお手紙を書くのって幸せですね。あなたに手紙を書くよう勧めてくれた家令のバルトロメウスに感謝しています。
今日は雨ですね。雨の日は今まで国の水量確保のために必要なだけだと思っていましたが、よく見れば雲が灰色で面白いと気づきました。空から降ってくる雨はきらきらと輝いていて……。
少し前、元首閣下に連れて行かれて元首閣下の集めておられる絵を拝見させていただきました。どの絵も美しくて、私は涙が止まりませんでした。
涙と雨ってよく似ていると気づいたので、ご報告します!
「レンスヴォーデ様を騙る別人が出してんのか? この怪文書」
レニは昨日の手紙と今日の手紙を見比べる。
「うーん、私は日記を間違って送っているのではと思うのですが……」
「日記!? こんなに可愛らしい日記を書く人じゃないのよ……、だってそもそも芸術って嫌いだって人間なんだから。肖像画を描いてもらうのだって渋々だったって聞いたわよ」
「まあ……」
「でなければ遊び! 人をからかってるの! 無視!」
アネッテは「ばかにして!」とどすどすと階段を登り、アトリエに籠もった。
怪文書は時期を窺ってほどよいタイミングで来た。それもなんだかおかしい。
ある日、最近は怪文書を喜んで読んでいるレニが、「まあ」とアネッテに怪文書を見せてきた。
「何よ」
「素敵なことが書いてありますわ」
——かけがえないアネッテ・ドルスマン様。今日は出勤途中に小鳥が鳴いていました。
「出勤先で怪文書を書くな」
アネッテは本気で突っ込んだ。
——そうしたら小鳥の声があなたに似ているような気がして、
「私はあんなにうるさくない!」
アネッテはきいきいと喚いた。
——私はあなたを心から懐かしく思ってしまいました……。
「あの、あのさあ」
アネッテは頭を抱えた。
レニは嬉しそうに笑う。温かい紅茶に、砂糖を入れてくれた。
「どんな方ですの? ここまで乙女のような手紙を書かれるお方は」
ずずっとアネッテは紅茶を飲み干す。
「うーん……いや、私が会った時は本当に無機質というか、無表情というか、合理的というか……。芸術なんか嫌いだし、美しいものに一切興味を示さない人だったのよね。ただ顔は綺麗だったわよ! 全部黄金比って感じで。絵画のモデルとしては完璧すぎる美貌だった。でもさあ、こういう手紙を送ってくる人間じゃない。明らかに怪文書すぎるのよ……」
「では、レンスヴォーデ様にお手紙を書いては?」
「え?」
「大丈夫ですか? あなたの偽物がいるかもしれません、って。偽物であれば本物のレンスヴォーデ様がなんとかしてくださるでしょうし……」
「あっ、それだわ」
レニの言葉に、アネッテは何度も頷いた。
急いで便箋を取り出し、ペンを走らせる。
——レンスヴォーデ様
あなたを騙る乙女のような人物から私のところに怪文書が届くのですが、大丈夫ですか?
その晩。
レンスヴォーデ邸で男性の絶叫が聞こえた。
「返事きたああああああああああああああ!!!! え!? 怪文書? 私を名乗る乙女? まずい、バルトロメウス、アネッテさんが危険だ!!」
「……旦那様、アネッテ様に手紙を送るのはやめましょう」