第2話 どんどこ追い詰められるアネッテ
「それでボクのところに逃げてきたってわけか」
眼鏡の印象的な中年の男性が微笑みながら、陽のほどよく当たるアトリエでカンヴァスを組み立てていた。
絵の師匠のアーレスト。世界的にも有名な画家である。親がいないアネッテを徒弟にして工房に入れ、一人前に育ててくれた人だ。
まず、この世界では有名な画家の工房に入り、何年か修行する。才能が認められると画家たちの集まりである画家組合に入会が許され、自分の工房を持つ。アネッテの場合、組合に入会はしたものの自分の工房を持つ前に結婚したため、工房は持たなかった。
「ピーテル君は遊び人だからなあ。結婚生活が五年続いたのなら奇跡だよ」
「そうですね……本当にそう思います……でも縁談を勧めたのは師匠じゃないですか……」
師匠のアーレストに画商のピーテルを紹介された時、ちょっと素敵だなと思ったのが人生の分かれ道の中で最大の誤選択だった。あの時ピーテルはちゃんと服を着ていて、颯爽とした印象だったのだ。
「結婚すればピーテル君も落ち着くと思ったんだが……」
アーレストは眼鏡をくいっとやった。落ち着かなかったから今がある。
「ま、人間そう簡単に変わるわけがないか。わかった。うちに泊まって行くと良い。ただしボクは今日、とある貴族から晩餐に呼ばれているから夕飯は勝手に調達してくれ」
アネッテは「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
師匠であるアーレストは、貴族や外国の王族とも関わりがあり、毎日忙しく暮らしている。
あまりアーレストには頼れないな、とアネッテは早く家を探すことにした。
もちろん、へそくりは荷物の中に入れてあ——。
……なかった。
アーレストに案内された屋根裏部屋で荷物を開けると、入れておいたはずのへそくりが、革袋ごとごっそりと無くなっていた。
「……へ? ない! ないわ!!」
思い当たる節といえば——
「船頭!? あの船頭!」
全裸夫ピーテルから逃げる際に、船を出してくれたあの船頭。人は良さそうだったが、あの時しか考えられない。
「う、うそおおおおお!!! 無一文!? 私、無一文になったぁぁぁぁ!!」
アネッテはベッドに突っ伏した。
(絵を……絵を描いて売るしかない!!)
すぐに出て行くつもりだったアーレストの家に、一ヶ月ほど滞在する羽目になってしまった。その間に、アネッテは絵を二作描き上げた。
アーレストは、アネッテの絵を「うーん」と真剣な眼差しで品定めする。
「よし。どちらも見られる絵だな。片方は、みんなみっちり服を着込んでいる聖画。もう片方は静物画か。……そんなに全裸が嫌かあ。よし、売り込みに行こう」
そしてアーレストは、その人脈を使ってアネッテの絵を紹介した——はずだった。
ところが。
「無理!?」
アネッテは叫んだ。アーレストは頭を抱えている。
「キミ、なにかした?」
「え?」
アネッテはきょとんとする。
「画家組合から、アネッテ・ドルスマンの絵は受け入れられないという声があったんだよ」
「は、はい?」
「なんか……偽物画家疑惑がたてられてるらしい」
「へっ!? 偽物! どうしてですか!?」
「どうせピーテル君が描いたものなんだろうって」
青ざめていく。ピーテルは確かに自分の絵と偽ってアネッテの絵を売っていた。結果、ピーテルが絵を描いていることになってしまったのだ。アネッテは偽物画家とされたのだ。
自分を呪いたくなる。ピーテルに絵を渡してしまった自分を殴りたい。ついでにピーテルの股間にも一発お見舞いしたい。
——ひどい。ひどすぎる。
ぐう、とアネッテは奥歯を噛み締めた。奥歯を噛み締めすぎて性格が極悪な女の顔をしていただろう。
「あ、……あのね」
アーレストは、アネッテの悪魔みたいな顔を見ながら震え上がった。
「申し訳ないんだけれど……ボク」
「はい」
声が陰険なほど低くなった。師匠に申し訳がない。
「ヒイッ! ……あの、ボク、これから、コルマール王国へ行くことになって……」
コルマール王国とは西の端にある国だ。コルマール国王は無類の芸術好きで、美術館を自ら建てて絵画を集めているのだと聞く。もちろんアーレストもコルマール国王のお気に入りだ。
「……え……?」
「ただ、仕事を受けちゃったんだな。一個」
「……仕事、ですか?」
「手付金は十五ルカート。キミに譲ろう」
「……え」
エヴァリエで流通している金貨はルカート。
十五ルカートあれば簡単に家を借りることができる。数カ月ほどは無収入でも暮らせる。
「絵を描けば報酬金が五十ルカート」
アネッテは目が飛び出そうになった。六十五ルカート。一年は遊んで暮らせる金額だ。
「……ど、どこかの貴族ですか? 肖像画かな」
「正解。新しく就任された元首補佐官様が、肖像画を欲しがってるんだ」
元首補佐官。このエヴァリエは貴族による共和政を採用している。貴族たちの選挙により決められた国の長は元首と呼ばれ、その補佐をするのが元首補佐官だ。補佐官は通常数名いる。
「その仕事をキミに任せよう」
「えっ、良いんですか!?」
「いいよ」
アーレストは微笑んだ。
この時、アネッテはわが身にさらに降りかかる災難を予想もしていなかった。
✿
新しく元首補佐官に就任したコルネリス・レンスヴォーデは、芸術というものに全く造詣がない。
画風などというものは理解できないし、もちろん絵画を集める道楽に耽っている者を愚かだとも思う。
「美しい」という感情も理解できない。夕日はもうすぐ夜が来るという証で、花は咲いて実をつける。それ以外の何でもない。
——絵などという無駄なものに金をつぎ込まず、少しは国政に還元したらどうなのだ。
元首公邸の階段を上りながら、歴代元首たちが収集している絵画が壁にずらりと並んでいるのを見て早速「無駄だ」と思った。
横にいる少し恰幅のいい元首に囁いた。
「あの絵、売ってしまって国庫の足しにしたらどうですか?」
元首は何度か目を瞬かせると、頭を掻いて曖昧な微笑みを見せた。
「うーん、なんというか、芸術作品みたいな顔の君に言われると……ちょっと戸惑うな」
コルネリスは少し眉を顰めた。自分の顔の美醜を気にしたことはなかった。それこそ絵画と同じくらい意味のないものだ。
元首は数秒考えた後、軽く溜息をついた。
「レンスヴォーデ君は変わってるからな。まあ、でも元首補佐官就任ついでに、肖像画くらいは描いてもらったらどう? いい画家を紹介するよ。アーレストって言うんだけど」
アーレストなら芸術に疎い自分でも耳にしたことはある。
肖像画とは自分を記録しておくことだろう。記録しておくことは重要だ。それに、とりあえず元首の言葉に逆らう理由もなかったので、頷いた。