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第1話 全裸からの解放

 今、アネッテの目の前には一人の美しい青年が座っている。


 雪花石膏(アラバスター)の如き白い肌。銀に近い金のさらさらした髪。すっと通った鼻筋に、描いたような眉毛。両の眼は薄い紫色をしている。すらりと均整の取れた身体に、長い手足。


 惜しむらくは表情に乏しく、冷徹な印象を受けるというところか。


 氷のように冷ややかな面差しの彼は、足を組み、肘掛けに肘をつきながら気怠げにソファに座っている。

 画家であるアネッテがモデルにしてきた人物の中でも、群を抜いて美しいひとだった。


 新しく元首補佐官(げんしゅほさかん)に就任したコルネリス・レンスヴォーデという男性は。


 その唇も。目も。さらさらとした輝く髪も。


 ──ああ、なんて美しいんだろう……。



 百年に一度しか見られない花か。秘境にある絶景か。

 そんな気持ちで、アネッテはその美を閉じ込めるようにカンヴァスの上で色を塗り重ねていく。



 ✿


「飛んでみようぜ! せーの!」


 どーん!!!


 そのうららかな春の日、アネッテとその夫が五年住んでいた集合住宅の頑強な床に穴が空いた。


 ぷすぷすという音を立て、床から白い煙が出ている。穴からは驚きに目を見開いた下の階の家族と、全裸の夫と、愛人たちが折り重なっているのが見えた。


 夫が小さな集合住宅に愛人三十人を連れてきて、なぜか全員で飛んで床に穴を開けた。


「助けてくれ〜!」


 愛人たちの下にいる全裸の夫がジタバタとする。下の階に住むごく平凡な家族(夫婦と思われる二人に子供二人)は上の階で呆然としているアネッテを見上げてきた。


「あの、どういうことですか?」

「わかりません……私には」


 アネッテは口から魂を飛ばしそうになりながら低い声で言った。


「夫が申し訳ありません」

「あの……失礼ですが、この全裸の男性があなたの旦那さんですか?」


 男が聞く。女は顔を覆い、子供たちの目もふさがせている。


「はい」


 肯定したくなかったが、肯定せざるを得ない。


「えっと……参ったなあ……」


 男は髪をごしごしと片手で掻いて、曖昧な笑みを浮かべた。

 アネッテは頭を下げる。


「申し訳ありません……弁償を……」

「いや、たぶんそういうのって大家に支払うんじゃないかなあ……参ったなあ……」



 アネッテは二十三歳の画家で、画家組合に加盟してさまざまな作品を描いている。夫のピーテルは画商であった。


 ところが、結婚して二週間で判明したのだが、夫は常に全裸で過ごす男だった。


 毎日どころか毎時間全裸であり、服を着ている時間がほとんどない。人前に出せる夫ではない。


 しかも極度の女好きで愛人が確か百二十三人いる。婚外子ももちろん数多くいる。アネッテの知る限り五十人くらいいるから、もっといるだろう。


 なぜ結婚したのかというほどアネッテに振り向かない夫は、愛人たちを引き連れて夜の街中を練り歩き、「首都リュステルの夜の帝王」という名をわが物にしていた。


 今日、珍しく家に帰ってくると、部屋に入りきらないくらいの愛人を連れており、なぜか「飛んでみようぜ!」と夫が言いだしてこの結果となったのだ。


 怒りで気炎を吐いていた大家のところへ夫婦で行き、謝ってくると、ピーテルが言った。


「俺、謝る必要あったか?」

「あったよ?」


 その瞬間、もう無理だと思った。ずっと無理に無理を重ねていた。もうこれ以上は無理だ。


「……別れよう?」


 アネッテはピーテル(謝るときでさえ全裸でいる)の目をまっすぐ見つめながら言う。


「は?」

「無理だよ」

「何がだよ。俺が何かしたかよ!」

「したよ!」

「何をしたんだよ」

「全裸で愛人と練り歩いて借家の床に穴開けた夫のどこが『何もしてない』のよ!!!」


 すると、ピーテルはアネッテの頬をぴしゃりと叩いた。


「うるせーよ! このくそ女! 全裸は人生なんだ!」


 はあ、とピーテルは苛立たしげに溜め息をつく。


「可愛げもねえし、色気もねえし、体はツルペタだしよぉ。なんでこんなのと結婚したかな」


 それは私も同じだ、と頬にじんじんとした痛みを覚えながらアネッテは思った。


 毎日どころか毎時間全裸だし。浮気性だし。


 それに。

 一番許せないのは。


 アネッテは結婚してから、ピーテルに言われるがまま絵を描いていた。画商の夫がそれを売ってくれるのだと思って。


 でも、夫のピーテルは、アネッテの描いた絵を自分の描いた絵だと偽っている。今でも。


「……もう別れて」


 アネッテはぽっつりと言った。


「無理よ、なんかもう。あなたのことが無理」

「俺のどこが無理なんだよ!」

「全部だよ!!」


 お金はへそくりを貯めてある。絵の師匠であるアーレストも「何かあればうちに来い」と言ってくれている。子供はいないし、一人で生きていける。

 いつでも出ていけるように荷物はまとめていた。


「もう出て行かせてください」 


 アネッテが頭を下げると、ピーテルは、「おう」と言った。


「出てけよ! ああ、出てけ!」

「今までありがとうございました」

「ま、没落令嬢のお前なんか実家すらないからどこで暮らしていけるかわからないけどな!」

「じゃあ」

「せいぜい三日間くらい夫としての『休暇』を楽しんでやるぜ!」

「あー、お元気で〜」


 アネッテは床に穴の空いた部屋に戻り、まとめていた荷物を掴む。


「おい、ちょっと」


 ピーテルは焦りだしたようだが、アネッテはもう振り向かない。


「本当に出て行く気かよ!」

「え、うん」

「勘弁してくれよ!」

「うん」

「ちょっと、ごめんって」

「うーん、あー、あー、なんか言った? 愛人さんに聞いてもらって?」


 アネッテは夫の話を聞かず、がちゃがちゃと扉を開けた。



 家から荷物を持って出ていくと、目の前にキラキラと輝く水面が広がっていた。


 運河だ。このエヴァリエという国は海運国で、特に首都のリュステルには、葉脈のように街の中に運河が走っている。

 もちろん歩きや馬車で移動することもあるが、主な交通手段は船だ。


 小さな船を呼び止めて乗り込む。後ろから全裸の夫が愛人とともに全力疾走して追いかけて来るのが見えたが、気にしない。


「出してください」


 船頭に頼むと、船頭は「おう」と言ってオールを動かし始めた。



 ——よっしゃぁぁ! 全裸からの解放!


 アネッテは久しぶりに、心底満足げな顔を浮かべていた。

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