止まった世界で恋が始まる
深夜の雑踏を抜け、疲れた足取りでアパートの階段を上る啓太。その瞬間、世界から音が消えた。目の前の景色は静止画のように固まり、行き交う人々、宙に舞うビニール袋、すべてがピタリと止まっている。啓太だけが、その止まった世界で唯一、動ける存在になったのだ。
なにが起こったのかわからず、しばらく周辺を歩いていると、啓太は近所のいつものカフェで、見慣れない美しい女性を見つけた。彼女もまた、時が止まった世界の中で、完璧な静止を保っている。ホットミルクを持つ手が、優雅な弧を描いたまま止まり、長い睫毛が、微動だにしない。
啓太は、彼女の完璧な美しさに息を呑んだ。まるで彫刻のような、その姿に見惚れているうちに、これまで感じたことのない感情が彼の胸に押し寄せる。それは、憧憬、好奇心、そして、抗いがたい衝動。
気づけば、彼は彼女のすぐそばに立っていた。止まった時間の中で、彼女の周りの空気だけが、ほんの少し揺らいでいるように感じた。衝動に駆られ、彼は震える手で、彼女のブラウスのボタンに触れた。その瞬間、世界が再び動き出した。
カフェの喧騒、食器の触れ合う音、人々の話し声。すべてが洪水のように押し寄せる中、啓太は凍り付いたように立ち尽くした。目の前では、見知らぬ男性が急に現れた状況に困惑した女性、美咲が、信じられないものを見るような目で彼を見つめていた。
慌てて距離を取った美咲。しかし、その表情には、戸惑いの中に、ほんの少しの赤面が混じっている。啓太は、ハッと我に返り、すぐに謝罪の言葉を探した。
それから、ぎこちない会話が始まった。止まった時間のこと、自分だけが動けたこと、そして、あの瞬間、二人の間には、奇妙な緊張感と、隠しきれない好奇心が漂っていた。
数日後、啓太は再びカフェを訪れた。美咲は、あの日と同じ席で、微笑んで彼を迎えた。止まった時間の中で起きた、秘密の出来事が、二人を結びつけていた。
静止した世界で出会った啓太と美咲。二人は、奇妙な出会いをきっかけに、ゆっくりと心を通わせ、やがて深く愛し合うようになるのだった。止まった時間の中で始まった、二人だけの特別な物語は、動き出した現実の中で、温かい光を放ちながら続いていく。