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「……なにも起きないね、シャルシャルぅ」
「なにも無いのは良いことじゃないですか。しかし――」
リップル率いる第二中隊は彼女の律儀な性格もあって、朝昼しっかり食事を取り、三小隊を交代制にし、警備、休憩、食料調達を行っていた。
現在シャルティとローラ属する第一小隊は休憩中。大樹の幹にもたれかかる様に――先日の豪熊との戦闘や慣れない環境で疲労も溜まっていた――休憩していたシャルティに話しかけるローラ。
「しかしぃ……?」
「私にはどうも……嵐の前の静けさに思えてしかたありません……。根拠はないんですけどね」
と、いつもの癖である舌をペロッと出す仕草をするシャルティ。
「やぁん! シャルシャル可ぁ愛ぁいぃ!」
「あんっ! まったく、もう! ローラったら!」
そして変わらずシャルティに抱き着くローラ。
十年来の付き合いのあるこの二人。二年間は同じ屋根の下で暮らし、姉妹のように成長してきた。だからこのように抱き着かれても嫌がるどころか嬉しさを感じるシャルティ。
だって人の温もり――特に母の温もりは、六歳で失ったから……。
同い年でありながら妹のようにくっ付いてくるローラを、まるで家族のように大切に思っている。
――だからもし、この嫌な〝予感〟が的中したならローラだけでも逃がさないと、と決意するシャルティ。
「にしてもなんか鬱蒼としてるし、暗いし、魔物は強いし、お風呂には入れないしで、ストレスがすっごく溜まるねぇ……この訓練」
「ですね。騎士としての素養を涵養するという面では理解できるのですが、日頃の騎士の働きを見てると……本当に必要な訓練なのか疑問ですよね……」
「――そうだよぉ! いっつも偉そうにしてるだけなのにさぁ……」
ストレスゆえか、いつもより多く不満を口に漏らすローラ。
「大丈夫ですよ、ローラ。あんなにも偉そうにしている貴族のおぼっちゃまたちですら乗り越えているのですから、立派なローラなら容易く突破できますよ!」
不満たらたらなローラを宥めるべく、ローラの頭を優しく撫でる。
いつもカインにしてもらうように、柔らかく労わる感じで、壊れ物を扱うように丁寧に……。
すると目を細め、微睡みながらローラが口を開き、
「シャルシャルぅぅ。――お母さんみたいだねぇ」
「――ぶっ⁉ いい、いきなりなにを言うんですか! わたわたっ、私はまだ十六歳ですよ! 母親なんて……!」
シャルシャル大慌て。
「ふひひぃ! シャルシャルがお母さんなら、カインパパが旦那様かなぁ? かなぁ?」
ニマァと口を歪めて揶揄うローラ。しかし思惑は予想より斜めにいき、
「だ、旦那様……⁉ ……食事? それとも私? とか、あの定番なアレをする……旦那様」
怪しげな妄想にトリップしてしまうシャルティ。
他方、揶揄ったはずなのに、なぜか負けた気がするローラ。
そんな和やかな空気が満ちる休憩も終わり、
「――お時間ですわ! 各小隊、役割を交代してくださいまし!」
リップルの甲高く、しかし遠くまで通る声が響く。
「――あっ、時間ですね。次は食料調達です。行きましょうか!」
「お~! 今日こそは木の実の一つでも――」
――そして、和やかな空気を切り裂くのはリップルの指示の声のほかに、もう一つ。
「た――ッ! 助けてくれェェ……!」
〝虎王〟トライデントタイガーの襲撃から逃れてきた、第一中隊の叫喚の声であった。
始めはただ、訓練が嫌になって逃げて来たのかと思った。
しかしそれはすぐに誤りだと気づく。なぜなら――同時期に離れた場所で訓練を実施しているはずの第一中隊、その大多数がシャルティたちの元へ押し寄せてきたから。
「第一中隊っ⁉ 何がありましたの……⁉ 教官まで一緒になって……?」
明らかな異常事態は分かる。しかし何が起きたのかは分からない。だからリップルは第一中隊の監督官であり、顔面蒼白になりながらも避難誘導をしている女教官に問う。
「――はぁっ……! ――はぁっ……っ‼ フォグガーデンさん⁉ 『虎王』です! 〝王〟級の魔物と遭遇しました……! 即刻訓練を中止して、魔圏外への避難を……っ‼」
息も絶え絶え。しかし簡潔かつ明確に説明する女教官。
「……はい……? そ、そんな伝説級と遭遇なんて、なにかの見間違えではございませんこと? 〝王〟級が確認されたのだって百年ほど前のはずでは……?」
「――いいえ! 三又の尾を持ち、見上げるほどの巨体。紺碧の体毛、黄金に輝く双眸――間違いありませんっ‼ 百年前に帝国の東部を壊滅させた獣の災害! トライデントタイガーです……っ‼」
「――っ⁉ 分かりましたわ……! 事の真偽は避難してからでも十分ですこと! 第二中隊の皆様! 速やかに――」
リップルが迅速な判断を下し、己の指揮下にいる生徒に避難を指示しようとした、まさにその瞬間――天まで届こうかというほどの大樹を薙ぎ飛ばしながら、トライデントタイガーとそれに攻撃を受けているアロガンが襲来する。
「――っ‼ あれが‼ 総員退避……! 全力で退避ですわー……っ‼」
「…………っ‼ 西だ! 西に迎え‼ 一刻でも早く魔圏から撤退をっ!」
圧倒的な恐怖の権現に遭遇したリップルはしかし、気を強く持って退却の指示を出し、それに釣られる形で第二中隊の教官も西へ退避するよう叫ぶ。
既に幾度か衝突しているのだろう。アロガンの服の至る所には破損と、滲んだ血が認められる。そしてシャルティたちを視認したアロガンは、
「――サイモン! フォグガーデン! シャルティ‼ こいつの足止めを手伝いやがれェ‼」
実力の高い三人に助力を求める。
応じる様にシャルティは応援に駆け付けようと足を踏み出し、
「――っ⁉ ローラ……?」
袖を掴むローラによって止められる。
「……いいじゃん。放っておこうよぉ……! 逃げよ? ね? 無理だってぇ! あんな怪物には勝てっこない! 生きなきゃ! カインパパもそれを望んでるって! 絶対にっ‼」
恐怖によって顔を引き攣らせながら、ぎこちない笑顔をしているローラ。
――本当に優しい子。
カインの名を出せば私が動くことを知っていて、あえて告げてきた。カインとシャルティ、そしてサージュ……三人の家族。誰一人として欠けてはならないことを分かっているから、そう口にしたのだ。しかしそれでも、
「ごめんなさい、ローラ……。ここで私が立ち向かわないと、なにか大事なものを失うような気がするんです……! ……そういうのはもう嫌なの! しない後悔よりも、して後悔したいんです……っ‼」
ここで〝引く〟という決断はできなかった。なぜかは分からないけれど、今、敵に背を向けてしまったら、一生逃げ続ける人生になってしまうような気がした。
もう逃げるのは嫌だった。十年前に燃える城から逃げた! 最近も竜の息吹に怯えていた! そして……カインに対する己の気持ちからも逃げ続けている! もうこれ以上、何かから逃げては何も手に入れられないと確信する。
だから――、
「――だから……私はここで戦います! といっても足止めだけですので、すぐに追いつきます! 行ってください、ローラ……‼」
「……シャルシャルぅ……! ……うううぅぅ。――ごめん! ごめんねぇ……っ」
掴んでいた袖を手放し駆けるローラ。
大丈夫。恨んだりはしない。だって私を想って泣いていたじゃないですか――と、シャルティは去り際に一瞬見たローラの濡れた頬を思い出し、胸を熱くする。
シャルティは勢いよく剣を抜く。
迷いは……当然ある。
悔いも……当然ある。
――しかし、一歩でも脚を前に出せたなら……何かが変わると思う。
それは心持かもしれないし、戦闘の技術かもしれない。はたまたここで、命が終わる可能性だってある……。しかし明らかなのは、〝変化〟が生じるということ。
幸か不幸かなんて今はどうでもいい。ただ、目の前の虎の気をひくのみ!
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