とんかつ戦記 〜伝説ノ始マリ〜
「とんかつ企画」参加作品
20XX年、日本。
高齢化の波によって、この小さな島国の文化は打ち砕かれ、流れ去っていった。
80歳以上が人口の6割を占め、今後も増え続けると言われている。政権にしがみ付きたい政治家は高齢者を優遇し、生き残りをかけた企業は老人をターゲットに市場を展開した。
変容を余儀なくされたのは、娯楽、衣類、住居ーーそして食事も例外ではない。
食品衛生法は改定され「危険食品」として最初に「餅」が、続けて「焼き魚」が規制された。どちらも飲食によって命を落とす危険性があるからだ。規制の波は留まることを知らず、いつしか100種類近くの料理が規制の対象となっていた。
その中に「とんかつ」という料理があった。
豚肉にパン粉をまぶし油で揚げた食べ物だが、そのサクサクの衣は老人の歯茎を傷つけ、砕けた衣が肺に入る事で誤飲性肺炎を引き起こす危険性があった。
それは恐ろしく暴力的な料理だ。
(-_-;) (-_-;) (-_-;)
ある夜の事だった。
某レストランで調理師を務めている上石勝也は、翌日の下ごしらえが不完全だった事を思い出し、慌てて店に引き返していた。油で揚げたとんかつを霧吹きでふやかす工程を失念していたのだ。
明日のシフトがそれと気付かずにお客へ提供してしまえば、明らかな食衛法違反である。生レバーをどんぶりで提供するのと同じくらいヤバい。
勝也は裏口のセキュリティを解除しようとして、既に解除されている事に気付く。おそらく、帰る時にかけ忘れたのだろう。
下ごしらえは忘れるし、セキュリティはかけてないし、きっと全ては疲れているからだーーピザをカリッと焼いてしまった事へのクレーム対応でヘトヘトだった勝也は、そう自分に言い訳しながら扉を開錠し店内に入った。
とんかつは中央のコールドテーブルの上に、バットに並べた状態でラップをかけて置かれている筈だ。慣れた動きでロッカールームを抜けると、厨房の照明のスイッチを入れた。
勝也は息を呑む。
そこに女が立っていた。
女は黒いピッタリした服装に身を包み、口元は黒いマスクで覆われている。しかしその艶やかな目元と、頭の後ろで一つに束ねられた長い黒髪、そして豊満なバストが彼女の女性性を際立たせている。
勝也は唖然と立ち尽くす。
何か言おうとしたが、飲み込む息が言葉を肺の中へと押し戻す。
女は硬直する勝也を一瞥し、コールドテーブルの上にあるトンカツのバットを手繰り寄せる。そして細い人差し指でマスク引っ掛け、ずらした。
顕になった顔は、この店で働くウエイトレスの許呂母ヒレミだった。
見知った顔を目にした事で、勝也の背筋から緊張が抜け落ちる「なんだ、許呂母さんじゃないですかーー」歩み寄ろうとして、足を止めた。
許呂母ヒレミはあろう事か、手繰り寄せたとんかつを一切れつまむと、そのままーーそうカリカリの衣を纏った凶悪な様相のまま、柔らかな唇の奥へと放り込んだのだ!
「許呂母さん、なんて事を!」
勝也は叫び、駆け寄る。
2人は会話したことなど殆どない、お互い顔と名前だけ一致する程度の関係だ。しかしそうとて、目の前で自傷行為を見せつけられたのなら、それを止めるのは当然だ。
「早く吐き出して下さい! 口の中が血だらけになって、喉に豚肉が詰まって、誤飲性肺炎になりますよ!」
取り乱す勝也のを、許呂母ヒレミは嘲笑う。
「そっか、君は知らないのか。本当のとんかつをーー」
「何を言ってるんですか! 本当の、とんかつ‥‥!?」
「そう」
彼女は詰め寄り、人差し指で勝也の唇に触れた。指先にはカリカリの衣が付着していて、勝也は寒気を覚えた。
「や、やめて下さいーー」
首を振って拒否を示そうとした勝也の口に、固い何かが押し込まれる。思わず噛み締めると、それは旨味を迸らせながら口の中一杯に広がっていった。
初めての味だった。
カリカリとした表面からは、油の旨味とパン粉の香ばしさが鼻を抜ける。更に噛み締めると豚肉の持つ濃厚な味わいが舌全体に広がり、香ばしさと混ざり合う。噛むたびに食感と味が重なり合い、重層的なハーモニーを奏でている。
飲み込む事が出来なかった。
いつまでも味わっていたかった。
「なんなんだこの味は‥‥!」
これが料理だとしたら、今まで自分が作ってきたものは運動靴の中敷きにも劣る。
「これが本当のとんかつよ。腐敗した政府によって、失われた‥‥ね。今の日本にはそんな料理が星の数ほどある」
講釈を垂れる許呂母ヒレミを唖然と眺める。味の情報量が多すぎて脳が追い付かない。
「きみは‥‥何者なんだ?」
「私たちは『古き良き日本の食卓』。この国の食文化を後世に伝える活動をしているの。平たく言えば、レジスタンスのようなものね」
「なんだってーー」
「ねぇ、あなたも一緒に戦わない? あなたの作った『とんかつ』、私のアソコを最高にジュワッとさせたわ」
許呂母ヒレミは微笑った。その唇は、染み出た油で艶やかに輝いていた。
上石勝也が後に「救世主」と呼ばれるようになる事を、この時の彼らは知る由もなかった。
レジスタンス『古き良き日本の食卓』の戦いはまだ始まったばかりだ!