柱の傷は。
桜の咲く四月、悠は小学六年生、葵は小学三年生に進級した。俺も介護士二年生だ。
そして、新学期が始まってしばらく経って目に青葉がまぶしい時期である春の大型連休、いわゆるゴールデンウィークの時期になった。土日祝日には当然学校はお休みだが、俺たちはデイケアで働いている以上土日祝日でも出勤のシフトが入ることもある。土日祝日は利用者をケアする家族も仕事がお休みで在宅介護ができるという家庭もあるので、平日と比べてデイケアもやや閑散とする。だから、出勤することになるスタッフ数も減るのだが。
学童保育も学校の休日には朝から夕方まで開所している。五月五日のこどもの日。その日も学校は休みだが、俺たちは夫婦とも出勤のシフトが入っていた。いわゆる五月晴れが眩しい連休も終盤の日であった。朝、出勤途中に子供二人を学童保育にやってからの出勤だった。
利用者に昼食を与えてからしばらく経って、俺は遅い昼休みに入ることを許可された。携帯電話を確認すると数分前に着信があった。学童保育の施設からである。子供たちに何かあったのか。折り返しかけ直す。
三年生の娘の葵が五年生の男の子と喧嘩になってしまったという。おやつとして与えられた柏餅のことでだとか。いくらやんちゃな葵でも二つも上の男の子にはさすがにやり込められたようだ。葵は大声で泣き出した。そのことに関して他の子供たちから、六年生の息子の悠が糾弾されたという。六年生のくせに三年生の妹を守れなかったのか、と。悠もそこで泣き出した。当の五年生の男の子もそんな悠のことを責めたという。お前の妹も生意気なんだよ、俺だって傷ついたんだよ、痛い目に遭ったんだよ、と。向こうの職員の方から、とりあえず子供たちを迎えに来てほしい、と告げられる。
俺は急いでそのとき仕事中だった愛美をつかまえてそのことを伝える。上司の許可を得て、俺たち二人は学童保育の施設に急いで向かった。初夏の午後の眩しい日差しの中、少し焦りつつ車を走らせる。
好天の空の下、どうも休日でいつもより少し閑散としていたはずの学童保育もある意味「修羅場」となっていたようだ。子供たち二人が居る学童保育に着くや否や、俺は悠のほうへ、愛美は葵のほうへと、自然に分かれて向かっていた。俺は知らず知らずのうちに悠を思いっきりハグしてあげていた。もう心配することないんだぞ、と。
そんな俺たちの後ろで愛美の怒りの声が聞こえる。葵と喧嘩した五年生の男の子の両親も来ていたのだ。五年生の男の子とその両親に対して、年下の女の子を虐めるなんてどういう神経しているの、と怒り散らしている。
「じゃあ、私、夕方の仕事に行くから。二人をお願いね」
子供たちへの仲裁がある程度なんとか済んでから、愛美は俺にそう言い残して「副業」へと出勤して行った。
今日の騒動を起こした張本人であるという葵は強情にも「私はひとりで帰るから」と言ってきかず、自分の足で俺たちの住む団地へと帰っていった。他の子供たちも親に連れられて帰る子もいれば、自分の足で帰る子もいればで、みんなは散り散りになっていく。そんな中で、まだぐすんぐすん言っている悠、そして俺。そのふたりが取り残されつつある。
初夏の陽はもうすっかり傾いている。あたりが茜色に染まりつつある中、俺は泣きべそをかいていた悠を再びハグしてあげた。そしてできるだけ優しく声を掛ける。父さんと一緒に帰ろうか、と。悠は首を縦に振った。
悠を車の助手席に乗せる。気がつくと昨年から比べてもずいぶん背丈が伸びている。
「悠。お前もずいぶん背丈が伸びたな」
「百五十八センチ……」
悠がそう呟いた。彼自身の身長が、だろうか。
「えっ? もう、そんなにあるのか?」
「今年の発育測定で。百五十八センチで、四十二キロだった……」
「おいおい、ずいぶんもやしっ子だな……」
俺は思わず率直な感想を口にしてしまった。
「体重もつけないと、喧嘩に勝てない……」
また泣きそうになる表情に変わった悠に対し、俺は宥めるように言う。
「悠。お前はお前らしく、悠々と育ってくれ。喧嘩なんてするな。どうか心の優しい子でいてくれ」
「うん、僕、優しい子でいる」
悠の表情がまた少しにこやかになった。
そのとき、車のラジオからこんな声が聞こえてきた。
「さて、今日はこどもの日ですね。というわけで、まず皆さんご存知のこの童謡をお聴きください」
「柱の傷は一昨年の……」の歌詞で知られる「背くらべ」だ。
しかし、なぜ「昨年」ではなく「一昨年」か。曲の演奏後、番組のパーソナリティが諸説あるというその理由を解説していた。
ラジオでのその話の途中に車はもう俺たちの住んでいる団地の棟の前に着いた。決められた駐車スペースに車を停めて、車から降りる俺たち二人。日没がいよいよ迫り、さっきよりも更に傾いている太陽は、俺たち「親子」それぞれの長い長い影を作っている。背丈の伸びの早い悠。来年、再来年には俺の影より、悠の影のほうが長くなっているのかもしれない。