いざ、介護業界へ
介護業界に飛び込んだ俺。大手福祉関係ホールディングスの傘下にある企業が運営するデイケアセンターに配属になる。そこは実家から車で十分も掛からないわりと近場である。
しかし、介護の現場は予想以上にハードである。決してナメてかかってはいけない職種である。それでも世間からの評価は低い。
介護士としてはまだ若葉マークの俺。上司から、先輩から、そして利用者である認知症の年寄りから、怒号やら文句やらが日に何度も何十度も叩きつけられる。なんといっても力仕事でもある介護職。華奢な体つき、要は体力のないひ弱な俺はその点でも苦労していた。
田舎に戻ればのんびりした生活ができる、なんて幻想を抱いてしまった故の自分の選択を後悔していた。自分も田舎出身なのになぜまたそんな幻想を抱いたのかと思う。まだ都会でシステムエンジニアをやっていた頃のほうがはっきりいってマシだった。でも、もう戻ることはできない。認知症の年寄りを扱うより、主にコンピュータ相手のほうがやっぱり俺に向いていたのだ、と今になって思いはする。
帰り際には、今日でこの仕事は終わり、もう明日からバックレて出勤しないでおこう、そう日常的に思ってさえいた。しかし、仕事を辞めようものなら実家にさえももう入れてもらえないだろう。宿無しになりかねないと思うと日々働くしかない。
もちろん、お節介おばちゃんなんてのは周りにはいない。そもそも、いい歳して介護士一年生という立場の俺なんてそういう世話を焼いてもらえる者の対象外なんだろうか。故郷に出会いを求めた俺が馬鹿だった。しばしの仕事の休憩時間、休憩室で缶コーヒーを飲みながらそういうことを思い巡らす俺。
そのとき、休憩室に入ってきた女性の先輩に声をかけられる。
「あっ、月岡君、お疲れさまー」
「日野さん、お疲れさまです」
彼女は日野さんという。多少化粧などが派手でピアスやネイルなどを付けていることから一見介護士らしくは見えないが、かなりの年数を介護業界でやってきていることが日頃に共に仕事をしていく中で感じられる。力仕事などにおいても、男のくせにひ弱な介護士一年生の俺を、向こうからさりげなく手伝ってくれることもしばしばだ。介護業界の右も左もまだよく分かっていない俺にとって信頼できる先輩のひとりである。
その日野さんが俺に話しかけてくる。
「あのさ、月岡君って、もしかしてS中学だった?」
「ええ、S中学でしたよ」
S中学。俺の出身中学校である、ごく普通の公立中学校である。このデイケアセンターもS中学校の校区内にあるので、S中の卒業生が居ても珍しいことでもないとは思うが。
「私もS中でさ、今年三十なんだけど。もしかして中学で同じ学年だった月岡君かな、と思って」
「僕も今年三十歳ですけど……。え? 日野さんって中学の同学年の?」
まさかの同級生との再会、なのだろうか。そもそも中学時代に日野さんという女子がいたことはよく覚えていないけれど、一応そう返してはおいた。
「うん、夕べ急に思い出したんだよね。職場の後輩の月岡君って、S中では秀才だった月岡透君だ、って。月岡君って若く見えるし、ここでは新人さんだから、年下だとずっと思ってたけどね」
確かに俺は中学の頃はお勉強こそ出来たが、そう目立つ生徒ではなかったはず。それに一学年に約三百人もいたマンモス校のS中学。俺のほうから日野さんという女子がいたことは生憎思い出せないのだ。今年三十なのだから、卒業してもう十五年も経つのだし。
日野さんのフルネーム、日野愛美という。本当に日野愛美という同学年の生徒がいたのか、帰ってから「卒アル確認」でもしてみたいが、中学校の卒業アルバムもどこにいってしまったか所在不明になっているかもしれない、なんて思っている俺。そこで日野さんがまた話し始める。
「私、中学んときから突っ張ってたからねぇ。十九でデキ婚したけど、旦那はDVしてくるような最低の男だったから、別れた。今は私ひとりで二人の子を育ててる」
「そうですか……、苦労されてきたんですね」
「ううん、確かにここでは先輩後輩だけど、同中のタメ年だもん。普通にタメ口でいいよ。敬語使われると逆にこっちが窮屈」
日野さんはそう言った。俺の中ではまだ同級生だったことも思い出せていないというのに。
旦那から酷いDVを受け続けてきた日野さん。家庭裁判所での調停の末離婚するということになった。二人の子供は日野さんが引き取った。今、小学五年の男の子、小学二年の女の子。時々、別れたはずの旦那から子供にたまには会わせろなどと脅迫に近い電話が掛かってくるともいう。いわゆるシングルマザーの日野さんは女手ひとつで、二人の子供を育てていかなければならない。ここでの介護の仕事に加えて副業を持っているという。
「でもさ、月岡君はなんでまたこの歳で介護の業界に新人さんとして入ってきたの?」
日野さんの質問に少しぼかしながらも、かくかくしかじかとこれまでの経緯を簡単に説明する俺。
「そうなんだ。そういう人って最近少なくないみたいなのよねぇ」
日野さんはそういう感想を呟いた。
とりあえずは、日野さんという知り合いというか友だちというか、少し親しい存在が職場内にできた。中学時代の名物先生だとか学校行事での珍事などの話題を共有したときには、ああ確かに同級生だったんだと確信することが出来たのだ。今までは怒号を飛ばしてくるだけのような上司や先輩しか居なかったけれど。職場においては先輩としてサポートしてくれる、そして休憩時間などには話し相手にもなってくれる日野さんの存在が心の支えともいえるようになり、毎日の出勤の辛さは心なしか減少した。少し、いやかなりケバくもある日野さんは女性としては俺の好みからはずれてはいたけれど。