大晦日の夜
大晦日の夜、母親に茹でてもらった東京土産の深大寺そばやオードブルなどが振る舞われた今年最後の夕食の席。今年一年の労をねぎらう意味合いで、親子三人ビールで乾杯をする。
父親が切り出す。
「今年一年、母さんも透もご苦労さま」
母親が答える。
「お父さんもお疲れ様でした。来年はお父さんもいよいよ定年ね」
「うむ、ようやくだよ。もうしばらくは嘱託で働くつもりだけどな……」
そうか、父さんもう定年だったか。両親が交わしたその言葉で父親の年齢というものをようやく思い出した俺だった。
「透。お前も都会で仕事をしてきて、もう七年目か」
「うん、七年目。でも、今年の東日本大震災。あのときは東京にいた俺ももうダメかと思った」
「そうか……。ここ富山ではそう生活に異変があったわけではないが、テレビなどを見ている限りでも、東日本の人たちの苦労が伝わってきた」
父親とそう会話を交わしている中に母親が少し顔を曇らせつつ言う。
「あのとき、透と連絡が取れなかったからすごくすごく心配したのよ。電話しても通じないし、メールしても返ってこないし……」
普段からそう家族と頻繁に連絡をしなかった俺。実家からの電話やメールも無視してしまうことが学生時代から多かった。
しかし、あれだけの災害があったのなら、いの一番に家族に安否を伝えるべきであろう。ただ、そういうときであるだけに回線はフル稼働状態ですぐには連絡が取れなかった。大地震発生時、そのとき会社に居た俺。少し落ち着く頃には携帯電話のバッテリーも落ちてしまい、家族からのメールの確認もできなかった。何せ、そのとき居た東京で、俺は自分の身の回りのことや、業務再開に向けた仕事の中で、混乱状態にあった。震災発生からそれ以降初めて家族と通話することが出来るまで一週間は経っていた。
「まぁ、まぁ、母さん。透も被災して大変だったのだろう。私もあのときは心配であったが……」
父親が発したその言葉を最後にしばらく沈黙の食卓が続く。
夕食が終わって、すっかり年末年始の特別編成になっているテレビなどを見ながら、午前〇時の年明けを待っていた。公共放送での紅白歌合戦や、民放での裏番組の数々。どれも大味といった感を受ける。業を煮やした俺は、家族団欒の席を離れ、テレビのない二階の自室で「第九」で知られるベートーヴェンの交響曲第九番のCDを掛けながら、寝床の上にごろんと横になる。大晦日に「第九」を聴くなんていうのこそ、まさに大味といったものであろうが。
時計を見ると既に十一時を回っている。年明けまであと一時間の時すら残していない。今年もいろいろあった。震災では一応は被災者という立場になって、六年半続けたブラックな職場を退職して……。両親にはまだ話していないけれど、俺はもう無職となってしまっている。そう、俺は会社を辞めて、無職となったこと。そして、もう東京の地から去るつもりで帰省していたこと。それらを正月明けまで家族に内緒にしておくつもりでいたのだ。折角の正月を家庭内が不穏な空気の状態で迎えたくはなかったから、である。
それにしても、来年はどうやって過ごすべきか。手に職をつけることが最優先であろうけれど。三十となる来年こそは人生の伴侶をも見つけたい。
自室内に「第九」の流れる中、そっと窓の外に耳を澄ますと少し遠くから除夜の鐘が聞こえてくる。そんなうちに、俺はいつの間にか眠りに入ってしまっていたようだ。翌日は正月元旦、まだ外が明るくなる前に目が覚めた。生憎年明けの瞬間は入眠している状態で迎えたようだ。部屋の明かりはついたままではあったが。このまま起きていれば、初日の出の時刻になる。しかし、ここは冬の天気が悪い雪国北陸であるが故に今年も初日の出を拝むのは無理だろう。部屋の明かりを改めて消して、また寝入ってしまうことにした。
さよなら二〇一一年、そして、ようこそ二〇一二年。