9.丸くなるのは子猫だけじゃない
春の休日、朝からハチを猫用キャリーに押し込むのに奮闘していた。ドタバタと部屋中を追い掛け回して捕まえて、でも暴れて逃げられてを繰り返した後、引っ掻き傷を幾つか作ってやっとキャリーに入れることに成功した。入ってしまえば大人しくなる。時間に間に合って良かった。
部屋を出ると暖かい風が吹き、空はとても良い天気だった。春の日差しがアパートの植栽の葉や花弁をキラキラと照らしている。春は特に花がカラフルで花だんが華やかになる。
「あら、司ちゃんおはよう。お出掛け?」
アパートの前の道路に箒を持った家主さんが立っていた。足元には葉や花弁が集められている。掃き掃除をしていたらしい。
桜はすっかり散ってしまったけれど、桜の公園には散った桜の花弁が落ちている。そこやどこかに植えられている桜の木から風に乗って花弁が飛んで来たのだろう。薄ピンク色や茶色になった花弁が集められた葉に混ざっていた。
「おはようございます。そろそろ猫の避妊手術をしようかと思って、今日はその前に検査をするので動物病院に連れて行くところなんです」
「そう、気をつけてね。いってらっしゃい」
「休日なのにお掃除お疲れ様です」
「昨日の夜、風が強かったからね。掃き掃除だけ」
そんな簡単な挨拶と会話を交わして私は動物病院に向かう為にアパートを出た。
家主さんは自分で週三日だけアパートの掃除をすると決めているらしい。でも今日みたいに掃除が必要な時だけは関係無く掃除してくれている。お陰でアパートはとても清潔に保たれている。植栽にも季節や天気にあわせて水遣りをしてくれているので、いつでも綺麗な花だんだ。
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『いってらっしゃい』
風の強い晩秋の日、箒を持って、次から次へと風で運ばれてくる落ち葉をせっせと掃き掃除していた彼。私にそう言って手を振っているうちに風が吹いてちり取りの中の集めた落ち葉が舞っていた。
『げっ』とか言ってまたせっせと掃き掃除をしていた。そんな様子に何かのコントかと思って、気の毒だけれど笑ってしまった。
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そんなことを思い出したけれど、家主さんは慣れた様子でごみ袋の中に集めた葉や花弁を入れていくのを、振り返って見た。家主さんに彼の様なコントは起きないらしい。そして私は動物病院に行く為に猫用キャリーを持ち直してまた歩き出した。
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彼を拾った台風の日の夜、私は寝室のベッドで、彼はダイニングキッチンに客用の布団を敷いて別々の部屋で寝た。ダイニングキッチンと言ってもそんなに広くはないけれど、ぎりぎり布団を敷くことが出来た。彼は屋根があって、しかも温かい布団に加え洗濯された服を着て寝られることに、しきりに感謝してきた。布団の上で土下座までされたくらいだ。彼氏でも無い男の人を泊めるなんて危ないかなとも思ったけれど、彼にはそんな心配は無用だった。私に色気が無いからかもしれない。私に恩義を感じているからだと思いたい。
ハチはいつものソファの上で寝ていたと思ったのに、夜中にカリカリと音がするので目を覚ましたら、寝室とダイニングキッチンの間の扉を引っ掻いていた。彼のところに行きたくなったのかと思って扉を少し開けてあげたら、するりと隙間を通って彼の周りをチョロチョロした後に掛け布団の上に丸くなって眠り始めた。どんだけ好きなんだよ。
彼はそんなハチに気がつく様子は無く、ぐっすり眠っている。ハチに負けず劣らず体を丸めて。公園でそうして眠っていたのだろうか。寒さを凌ぐ為か、不安な気持ちを覆い隠す為にか。
扉をそっと閉じて、私もベッドに戻って再び眠りについた。台風の雨風は次第に静かになっていった。台風は無事に通り過ぎて行った様だ。
翌朝、よく眠っている彼には申し訳無いが、私は仕事があるので彼を起こしてキッチンを使わせてもらった。彼に気を遣う余裕も無く朝の準備をして慌てて家を出ようとした。彼を追い出す気になれずに、『仕事から帰ったらまた話しましょう』とだけ言って出掛けた。彼は戸惑っていた様だけれど、完全に上下関係が出来てしまっている為、『はい』とだけ言うのが聞こえた。
台風で前日午後休だったので仕事が少し溜まっていた。でも彼が部屋にいるのでなるべく残業をしたくなくて、稀に見る集中力を見せて終わらせた。人間やれば出来ることもあるらしい。
そして残業無しで帰宅すると、彼はちゃんと部屋に居た。ハチとお留守番をしてくれていた。それから夕飯の準備をして二人で食べた。そしてパソコンで仕事探しをした。
そんな感じで二日を過ごし、休日になるとずっと部屋に籠もっていた彼を外に連れ出した。簡単に言うと買い物の荷物持ちだ。
買い物から帰ると家主さんがアパートの前で掃き掃除をしていた。
『こんにちは』
『あら司ちゃん、彼氏?』
ぎょっとしてしまった。いや、まあ、そう見えても仕方無いけれど。買い物袋を下げて一緒にアパートに帰ってきたのだから。
『えっと……』
何と答えたものか。
『もしかして、この間の、子猫を拾ったお兄さん?』
『ええ、そうです』
彼がペコリと少し頭を下げた。
『お金が無いって言ってたお兄さん?』
……よく覚えていらっしゃいますね。
『司ちゃん、子猫だけじゃなくお兄さんも拾っちゃったの?』
その通り過ぎて何も言えない。苦笑いしていたら家主さんは『あらー』と言って肯定だと捉えたようだった。
『彼、仕事を探しているんですけど、この近くで何かないですかね』
何となく話題を変えたくて聞いてみた。
彼の職探しはなかなか進まなかった。『これは出来ないかも』という仕事が多く、意外にも選り好みしていた。何故かは分からない。もっと何でも良いから出来ることをしたいのかと思ったけれど、そうでも無いらしい。
派遣に登録しようとしても、身分証が無かったり銀行口座が無かったりして無理だった。じゃあ日払いの仕事をと探しても、現場が遠かったりして難しかった。何しろお金が無いので近場でなくては行けない。やっと良さそうなのがあっても人気で募集を締め切られたりしてしまった。
『仕事かぁ……。このアパートの掃除でもしてみる?』
『『え』』
思い掛けない話に、彼と二人ハモってしまった。
『月水金の週三日、一日一時間アパートの清掃。時給千百円。日払いで』
『良いんですか!?』
『これから落ち葉が凄い季節になるから、臨時で掃き掃除もお願いしちゃうかも』
『全然構いません!』
彼が食い気味で言う。驚きながらも嬉しそうだ。
『じゃあ、お願いしちゃおうかな』
『ほんとに、良いんですか?』
私が言うのも何だけれど、素性もハッキリしない人を雇って良いのだろうかと心配になる。
『社会福祉活動ってことで。あ、就業支援って言った方が良いかな』
家主さんの太っ腹具合に感服してしまった。
その後早速月曜日からやりましょうと言って、初日は家主さんと一緒に教えて貰いながら清掃をすることになったようだ。簡単な打ち合わせを終えて私達は部屋に戻った。
『司、さん』
『ん?』
そう言えば、始めて名前を呼ばれた……?
『ありがとうございます』
『アパートの清掃のこと?それは家主さんにお礼を言ってよ』
『いえ、色々とお世話になって。本当にありがとうございます』
『……頑張ってね』
『はい』
アパートの清掃は週三日、一日一時間。時給千百円。東京都の最低賃金ギリギリ。週に三千三百円。大して稼げない。お小遣い程度だ。暮らしていくには他の仕事も探さなくてはならないだろう。
それでも何かすること、出来ることがあるというのは、彼にとっては嬉しいことなのだろう。
今にも泣いてしまいそうな顔でお礼を言われてしまった。
『お兄さんの名前、まだ聞いてなかった』
『竜泉です。上野、竜泉』
『何その格好良い名前』
『名前負けしてますよね』
『ご利益ありそう』
『……名前負け、してますから』
部屋に入ると今日もハチは私よりも彼の足元に寄って行く。
自分でも何故こんなにも彼にお節介をしているのか分からない。でも、放っておけなくて力になってあげたくなる、そんな人なんだ。
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