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彼の置土産は猫  作者: 知香
4/15

4.三百円を見るのは猫だけ

その日、月初の慌ただしさも落ち着いていた頃で、残業無しで帰宅した。残業をしなければならない人の横を「お先に失礼します」と言って先に帰るのは多少気まずさはあるものの、会社的には残業を減らしたい筈だからコソコソせずに寧ろ胸を張って笑顔で挨拶をして帰った。

録画したドラマを見ながらお酒を飲もうかな、何を飲もうかな、たまには瓶カクテルでも買って帰ろうか、それなら酒のつまみは何が良いかな、なんてことを考えながらスーパーに寄って買い物をしてから家に帰った。


玄関の扉を開けるといつも通りに猫が足元にすり寄ってきた。「はいはい、ご飯ね」なんて言いながら部屋に上がってやっと異変に気付く。


「わー……まじか」


残業無しで気分良く帰って来たのに部屋の惨状を見て呟いてしまった。その後放心するように立ち尽くしてしまった。


久々にやられた。猫が暴れ回ったらしい。物が散乱していた。泥棒が部屋を荒らしたというよりかは、室内で竜巻が起きて物が落ちたという感じだろうか。テーブルやチェストの上に置いていた物が倒れたり落ちていたり、紙類が散らばっていたり、猫が敵と見なして闘ったかの様にくたりと床に放置された猫用のぬいぐるみがいたりした。ゴミ箱もただ倒しただけでは無く恐らく猫自身も入り込んだのか、中身のゴミが掻き出されている。


犯人である猫は自分がしたことを全く悪く思っていない様で、早く飯よこせとばかりに甘えてくる。

これ、怒った方がいいの?


溜め息を大袈裟にしてから鞄を置くと、一先ず猫に「ご飯は部屋を片付けてからね!」と厳しい声で伝えた。私の怒りは伝わったのか、甘えるのをやめ、立ったまま尻尾をだらりと下ろして動かなくなった。


私は部屋の片付けをしようと先ずシュシュを探した。いつも朝にヘアセットをするまで髪を纏めているやつだ。テーブルの上に置いていた筈なのにそこには見当たらない。テーブルの周りに落ちているのかと探すが無い。

シュシュは諦めて取り敢えず片付けに手をつけなければと、ゴミ箱を起こしてゴミを捨てていく。落ちた物や倒れた物も直していく。こうしてチェストの上に何かを飾るのは止めた方が良いのかもしれない。きっとまたこんなことは起こるだろう。この猫はまだ幼いから。比較的大人しい子だけれど、歯が痒いのかよく物を噛むし、好奇心やストレスで暴れ回ったりすることもある。以前飼っていた猫は老猫だったので本当に大人しかったから、あまり気にせずチェストに物を飾っていた。でもこの子は違う。この子にあわせた部屋仕様にしなければならないかもしれない。


まあ、その辺の仕様変更はまた休みの日にでも考えるとして、今は元通りにしていくことを優先しようと片付けていった。最後に掃除機をかけた。掃除機の音が嫌いな猫は、部屋の隅で身を縮めて丸まっている。

ベッドの下にも掃除機をかけたら、何かを吸い込んで詰まった音がした。掃除機を止めてヘッドをベッドから出して確認すると、シュシュがちょっと吸い込まれていた。


「こんなところに」


掃除機のヘッドブラシを回転させてシュシュを引き抜いた。見事に埃で汚れていた。よく見れば破れてもいた。糸がだらりと垂れ下がっている。


「…………」


この破れは、私が掃除機で吸い込んでしまったからか、もしくは猫が闘ったからか……。

真実は分からない。猫が喋ろう筈は無いから、な。


少しシュシュとにらめっこした。ゴミ箱の上に持ってきて、またにらめっこした。


手を離すことが出来なかった私は溜め息をついてシュシュを握り締めて掃除機を片付けた。そして洗面台でシュシュを手洗いして水を切ってから洗濯ピンチハンガーに吊るして干した。


そしてやっと猫に餌をやり、私も買って来たお酒とつまみで夕飯にした。


猫がカリカリと音を立てて食べているのを遮るようにテレビの電源を入れた。残業無しで帰って来ただけあり、どの局もまだ夕方のニュースが流れていた。今日あった政治ニュースや事件事故、海外の情報等、流れるように報道されていく。そして卒業式が行われました、とか、河津さくらと菜の花の見頃は今週まで、とか、天気予報で花粉情報なんかもやっている。それらをぼーっと見た。


スーパーで買って来た瓶カクテルを飲んでいるのに酔えそうもない。いつもの缶チューハイより度数は高い筈なのに。


いつの間にかテレビは夕方のニュースが終わり、バラエティー番組が流れていた。でも流れているだけでテレビの中でタレントが話していることや、ナレーターの言葉を頭が理解しようとせずに通り過ぎていく。


せめて笑うことが出来れば酔えるかもしれないのに。


録画したドラマを見ようと思っていたのに、見たい気分にならない。


つまみはまだ残っている。でもカクテルの瓶は空になった。最後の一滴まで飲もうと瓶を逆さにするけれど、唇に瓶のひんやりとした感触があるだけで口の中には何も流れてこなかった。諦めて瓶から唇を離すと、瓶を持つ手も冷たかった。

三月、初春。それでも夜は寒い。体が冷えてしまったようだ。お風呂に入ることにした。


浴槽にお湯をためてざぶりと浸かる。温かい。冷たくなっていた手の指先まで温まっていく。

体が温かくなるにつれ、頭がぼーっとしてくる。お酒を飲んでいた時もぼーっとしていたけれど、湯気で視界もボヤけるから、現実から離れ思考に支配されていく様だった。



***


『あまり高い物じゃ無いんですけど』


照れ臭そうに私に差し出してくれたシュシュ。


***



彼が居なくなってから二ヶ月経つのに、未だに彼のことを思い出してばかりだ。


思い出したく無いのなら捨てればいい。

なのにゴミ箱の上で手を離せなかった。汚れて破れてほつれてしまっていたのだから、丁度良い機会と思って捨ててしまえばよかったのに。彼が言うには勿体無いと思える程高い物では無い。確か三百円だ。長く使っていた愛用の物という訳でも無い。二ヶ月半前のクリスマスに貰ったばかりだ。


お金が無かった彼が、クリスマスプレゼントに買ってくれた物だった。中学生でももっと良い物をプレゼントするだろうに、三百円のシュシュ。

それでも嬉しかった。二ヶ月程一緒に暮らしながらもお互いに踏み込まなかった。あのクリスマスの日、私達は気持ちが同じなのだということを知った。そして翌日に初めて寄り添って眠った心地良さが、三百円のシュシュの価値を上げてしまった様に思う。


それから二週間もしないで彼は居なくなった。たった数日間の恋人。


私はお湯に深く浸かった。肩がすっぽり入り、口まで浸かった。顔を全てお湯につけて沈み込んでしまいたいくらいな気分だった。

たった数日間の恋人が忘れられないのだ。その彼がくれたたった三百円のシュシュが捨てられないのだ。なんと未練がましいことだ。

まるでワニの様に静かに浸かっていたけれど、次第に熱くなりお風呂から出た。


髪を乾かすついでにシュシュもドライヤーで乾かした。そして裁縫道具をチェストの引き出しから取り出して、破れた所を裏からかがり縫いで直し、ほつれた所はコの字縫いで直した。仕上がりを見ると縫った糸は見えないけれど布がよれてしまっていた。

学生の頃家庭科の成績は悪くは無かったけれど、普段は必要に迫られた時にしか裁縫なんてしない。ボタンが取れた時とか。だから得意ではない。布はよれてしまったけれど私にしては良く出来た方ではないだろうか。それに家の中で使う物だ。誰かに見られるものでも無い。見るのは言葉を話せない猫くらいだ。


「…………」


今、“家の中で使う物”だと考えていた?


私はこれからも使うつもりでいたようだ。


裁縫道具を片付けてチェストの引き出しに入れた。そして直したシュシュもその引き出しに入れた。未練を断ち切るように引き出しをパタンと少し強めに閉めた。


捨てられない私は、捨てられる日が来るまで距離を置くことにした。滅多に使わない裁縫道具が仕舞ってある引き出しならシュシュが目に留まることも無いだろう。存在自体忘れて、いつか久し振りに見た時、捨てられる自分であって欲しいと思う。


チェストの前でへたりと座り込んで引き出しを暫く見つめていた。前に進みたくて選んだことの筈なのに、寂しくて仕方が無いのはどうしてなのだろう。こういうのって、もっとスッキリした気分になるのだと思っていた。それだけ私が未練がましい女なのだろうか。



突然、電話の着信音が鳴った。吃驚した。


吃驚し過ぎて振り返って私を驚かせた犯人であるスマホを見つめてしまう。いや、スマホのせいではないか。犯人は電話を掛けてきた人だ。


電話は鳴り続けている。私が出るまで鳴り続けるだろうか。いつまでもそんなところで座り込んでいるなと言われ続けているかのように着信音が鳴り続けるので、四つん這いになってスマホが置かれたテーブルまで行った。


スマホの画面を見ると“公衆電話”と表示されていた。


公衆電話からの着信なんて初めてで吃驚してしまう。災害時なんかだと公衆電話を使うこともあるだろうけれど、今の時代どこに公衆電話があるのかすらちゃんと把握出来ていない。私、使った事も無い。


悪戯電話?

それとも電波障害で仕方無く公衆電話を使ったとか?

もしくは地元で災害でも起きた?


少し怖い気持ちもあったけれど、思い切ってスマホの通話ボタンをスライドした。


「……もしもし?」


『あっ……!繋がった!?司さん?』


全然聞き覚えの無い声に、体が硬直して呼吸を忘れた。


『あの……ずっと、連絡しなくてごめんなさい』


彼と電話で会話をしたことは無かった。電話越しではどんな声なのか知らない。けれど、この電話の向こうに居るのは彼だと分かった。私のことを“司さん”と呼ぶのは彼位しか居ないからだ。


「竜泉くん……」


『あの、さ……、えっと……、ハチは、元気?』


電話を掛けてきたのは彼なのに、言葉に迷う様に場つなぎの言葉が続いたかと思えば、まさかの猫の心配だった。


「……元気だよ」


その時電話の向こうからブーっと音がした。


『うわっ!ヤバイ!えっと……』


そのブーという音が何なのか私には分からないけれど、その音に彼は慌て出して更に言葉に迷ってしまった様だった。


『あのっ……、まだ帰れそうに無くて、まだやらなきゃいけないことがあって……だけど、また、またきっと連絡す───』


そこまでで通話が切れた。


私はスマホを耳に当てたまま動けずに、ただツーツーと鳴る機械音を聞いていた。




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