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彼の置土産は猫  作者: 知香
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1.彼の置土産は猫

朝、寝ているところに容赦なく踏みつけてくるヤツ。生意気な同居人、もとい、同居猫。


「ニャー」


可愛い声で甘えるように鳴くけれど、ふみふみと喉元を踏まれ苦しくて全然可愛いと思えない。目覚まし時計よりしっかりと起こしてくれるのは嬉しいけれど。但し平日限定で。

仕方なく体を起こして念の為セットしておいたスマホのアラームを消す。予定より十五分も早い起床だった。


朝起きて一番にすることは何ですか?


カーテンを開けますか?

トイレに行きますか?

水を飲みますか?


私は猫に餌をあげます。

キャットフードの袋を保存している棚の前に立つと、猫が足元に来てサバ柄の体をスリスリと擦り付け甘えてくる。餌皿にキャットフードのカリカリを入れると待ってましたとばかりにガリガリ、カリカリと音を立てて食べ始める。


私に甘えてくるのはこんな時だけである。食べ終わると前脚に唾液を付けて丁寧に顔を洗い、定位置のソファに置かれた座布団の上で丸くなって寝る。こうなると私が何を言っても無視だ。


なんてマイペースなんだ。

なんて身勝手なのだ。


髪をシュシュで一つに纏める。そしてお弁当と朝食の準備をしてそれを食べてから顔を洗って化粧をして身支度が整うと仕事へ行く。玄関からソファに向かって「行ってきます」なんて言ってもこの猫は完全無視。猫なんだから人間よろしく「いってらっしゃい」なんて言う筈無いけれど、顔を上げることも耳をぴくりと動かすことすらもしてくれない。今日も冷たい。



マンションのエントランスを出ると、冷たい風に思わず肩を窄める。家の猫だけでなく外も冷たいらしい。駅までの道を足早に歩いて行く。駅に着くとホッとするけれど、ホームは足元を容赦なく冷やしてくる。電車よ早く来い、なんて思っていると勢いよく電車がホームに滑り込んでくる。今日も相変わらずの満員電車。寒いホームに置き去りにされるのはかなわないと満員電車の中に無理矢理体をねじ込む。さらに人がぎゅうぎゅうと押し込まれながら入ってきて電車が発車する。電車に揺られながら体を動かせなくなった私は何となく上の方を見上げると、中吊り広告も揺れていた。週刊誌の広告や美術展の広告、それに百貨店のバレンタインデーの広告。


バレンタインデーなんて行事に縁があったのはいつだったか。広告に載っているチョコレートの写真はどれもが美味しそう。でも広告全体がピンクや赤やハートがふんだんに使用され、それが可愛過ぎて独り身の私には嫌みにしか見えない。


本当だったら、私も縁があったかもしれない。

そうしたらこの可愛い広告にも胸をときめかせたかもしれない。


電車が駅に着いて多くの人が電車から降りていく波に流されながら、私も降りてホームを歩き改札を通った。




「バレンタインデーかぁ……面倒だなぁ」


昼休憩はいつも仲の良い同期と食べていた。


「営業部はチョコを配るんだっけ」


「そうなの!部長が楽しみにしちゃってて。神田のとこは無いんでしょ?羨ましい〜」


「管理部は無しにしましょうって御触れが数年前にあったからね」


管理部は女性が多い。男性はその分沢山貰えるのだがお返しが大変でかなり費用が嵩む。それに女性はなかなかシビアだ。誰それのお返しはどうだった等と裏で批評されたりする。下手に安い物や適当な物でお返しが出来ないし、自信満々であげたものが低評価になってしまうこともあり、お返し選びはかなりのプレッシャーなのだとか。妻や家族に助けて貰って選んでもそれが成功するとも限らない。


それに引き換え営業部は女性が少なく、準備は大変だがそれだけ沢山のお返しがあり、誰からどれを貰ったかなんて良い物かもしくは奇をてらった物位しか覚えてはいない。それにお返しの量も少ないので一つにかける金額も高くなりやすい。この同期も普段のお礼と言ってかなり良い物を毎年お返しで貰っている。


まあ、管理部も賄賂として営業の方からついでに貰うこともあるのだけれど。管理部の女性のご機嫌取ってまた無茶なお願いをしてくるのだ。特にこれから年度末の締めの頃は管理部に上司を引き連れて頭を下げに来る営業をよく見掛ける。


「神田、チョコ買いに行くの付き合ってよ」


「いいよ」


近頃は自分用のチョコレートを買うのも当たり前なのだから、特にあげる予定なんて無くても見に行くのが楽しかったりする。あげる物より自分用の方が値段が高いなんてことも珍しくない。良いのがあれば買いたい。




仕事が終わって同期と一緒に百貨店に行った。朝、電車の中吊り広告で見た百貨店だ。その時はあまり良い気分で広告を見られなかったけれど、結局楽しみな気持ちを抱えつつ来ているのだから、何とも不思議な気分だ。


百貨店の地下の菓子売り場はバレンタインデーが近いこともあり、多くの女性で賑わっていた。各店舗の周辺には待機列用のベルトパーテーションが設置してあり、そこには何処の店舗も並んでいる人がいる。ベルトパーテーションの長さが足りない程並んでいる所もあれば、店員が“最後尾”の札を持って大きな声で案内をしている所もある。そんな待機列と待機列の間の狭くなった通路を、これまたショッピングバッグを持った人と鞄やら衣服やらが当たったり擦ったりしながら歩いた。お陰で静電気が発生した様で髪の毛がぼわっとした。


同期は混雑も何のその、混雑した中でも上手く人の波に乗りキョロキョロとしながら一通りぐるっと見て回り、購入するものを決めた。決断力が凄い。もしかしたらある程度は下調べ済みで目星を付けていたのかもしれない。

私は軽やかに人混みをすり抜けて行く同期に置いていかれない様にとついていくのに必死であまり見られなかった。

同期はそこそこに待機列が長い店舗に並ぶので好きに見て来て良いよと言った。見終わったら入り口で待ち合わせしようと約束をして、私は再び人の波へと向かって行った。


人と人の間からショーケースの中を覗くと、右も左もその隣も美味しそうな商品ばかり。電車の中吊り広告で見たチョコレートもあった。そういった物や有名店なんかは行列が凄かった。この行列に加わったら同期を待たせてしまうことになりかねない。


何にしようか、なんて考えながら、別に誰かにあげる訳じゃないから無理に買わなくても良いのだけれど、せっかく来たし、それに体がチョコレートを欲してしまっている。疲れているのかもしれない。


ふと、猫のチョコレートのお店が目に入った。お客さんが比較的少ないからショーケースを覗きやすかったというのもあるけれど。

可愛らしい猫のイラストの缶や紙箱に数個のチョコレートが入っている。猫の形のチョコレートや猫のイラストがプリントされたチョコレート、それに肉球の形のチョコレートも。それに混じってハート形や花の形のチョコレートも入っている。とても可愛らしい。猫好きにはたまらない。そして男性にあげるというよりかは女性が喜びそうな感じだ。勿論喜んでくれる男性もいるだろうけれど。

ブラックチョコレートの黒猫、ミルクチョコレートなのか茶色の猫、それにホワイトチョコレートの白猫。プリントされたチョコレートはぶちとかトラとかもいる。

けれどうちの猫はグレーのサバ柄。チョコレートになかなか同じ猫はいない。強いて言うならトラだろうか。でも色がグレーでは無く茶色だ。まあ、グレーってお菓子にはあまり使わない色だから仕方がない。そもそもグレーの食べ物なんて、こんにゃくと蕎麦とつみれしか思いつかない。もっと真剣に探せばまだあるとは思うけれど。チョコレートがこんにゃく色をしていたら……やだな。


これを買うことにした。可愛いし、何よりあまり並ばなくて済む。


店員さんはとても可愛い猫のイラストの紙袋に入れてくれた。この紙袋は取っておこうと、少しウキウキした気持ちで同期との待ち合わせの場所へと向かった。


さほど待たずに同期もやってきた。大きな紙袋を持って。これを持って帰るのも、またバレンタインデー当日の朝にこれを持って満員電車に乗らなければならないのも大変そうだなと少し同情してしまう。


「何買ったの?猫の袋可愛いね」


「袋で察することが出来るだろうけど、猫のチョコレートだよ」


袋を持った腕を軽くあげて、戦利品の袋を見せた。


「猫好きだねー。家の猫と似てるの?」


「うちの猫、グレーのサバ柄だよ?全く似てない」


「グレー?ねずみ色?」


「ねずみ色って言うとちょっとややこしくなるから」


「ねずみ色のサバ柄の猫?」


「ほら。生き物が三匹も出てくるとややこしいでしょ。ついでに言うとサバトラ猫だから、ねずみ色のサバトラ猫で生き物が四匹も出てくることになる」


ブハッと同期が吹き出した。ツボだったらしい。


「もう早口言葉みたいじゃん」


「ねずみ色のサバトラ猫?早口言葉にしては結構簡単かも」


「何でだろ。何故かその猫親近感が湧く」


小者感があるからかしら。ねずみは小さいしサバは比較的低価格な魚だから。


「マイペースで生意気で冷たいけどね」


「猫って大体がそうなんじゃないの?」


いやいや、以前飼っていた猫はあそこまででは無かった。擦り寄って来て膝の上に乗ったり、寝ていると布団の上に乗って来たりしていた。でも今の猫は全く無い。布団には朝ご飯の催促にやって来るだけだ。寝床はいつも決まってソファの座布団の上。


(ああ、でも……彼に対しては違ったか)


彼が家で寛いでいると、甘えるように膝の上に乗っていた。



『あったかいな』


甘えられて嬉しそうにしながらそう言って猫を撫でていた。猫も嫌がることは無く、彼の撫でる手が止まるともっと撫でろと言わんばかりに彼を見上げて目で訴えていた。

私にはそんなこと一度もしてこないのに。私が撫でようとすると頭を下げて逃げようとしてしまう。仕方ないから顎を撫でると少しだけ気持ち良さそうにするけれど、直ぐにプイッとされてしまう。


猫にも好みがあるからなのか。メス猫だから男の人の方が良いからなのか。




バレンタインデーはあっという間に来た。

特に誰かにあげる予定も無く、誰かから貰うことも無く、いつもと変わらない日として日中を過ごした。


仕事が終わり帰宅してからいつもの様にシュシュで髪を纏め、夕食の準備を簡単にして猫にも餌をやり終わると、冷蔵庫から缶チューハイを一本出して晩酌をした。

猫がカリカリと音を立てて食べているのに合わせて、私も母が送ってくれた大根の漬物をポリポリと食べた。


適当につけたテレビの宣伝で製菓会社のバレンタインデー用のものが流れていた。この宣伝も明日になったら放送されなくなる。


夕食を食べ終わり、キッチンの棚に仕舞っておいたチョコレートを取り出した。先日同期と一緒に買いに行った猫のチョコレートだ。買って包も開けずに紙袋から出すことも無くそのまま棚に仕舞っていた。


可愛い猫のイラストの紙袋から中身を取り出し、包装紙を開けさらに紙箱の蓋を開けた。可愛いチョコレートが並んでいた。その中から花の形をしたチョコレートを摘んで食べた。とっても甘い。ストロベリー味だろう。


缶チューハイを手にしたら軽かった。残り少しだ。全部をグイッと喉に流し込んだけれど、口の中にチョコレートの甘みが残った。


チョコレートの蓋を再び閉めてごちそうさまをした。


猫はいつものソファの上で寝ている。せっかく寝ているので撫でるのは止めておいた。怒られそうな気がする。


溜め息が出た。

お酒を飲んだからか、猫が冷たいからか。

どちらでも無い。結局チョコレートを自分で食べたからだ。


自分用に買ったつもりだった。けれど、猫のチョコレートを見て彼なら「可愛い」と言って喜んでくれるんじゃないかと思ったんだ。


彼は先月、お正月に一人出掛けてから戻って来ない。



***


『もう、いい加減ちゃんとしないと』


目を合わせずに俯きがちに言っていた。


『少し行ってくる』


玄関の扉をいつもの様に優しく閉めて出掛けて行った。


***



何処に行くとか何も言っていなかったし、私も聞かなかった。こうして帰って来ないなんて思いもしなかったから。


彼の言う『少し』とは、一体どのくらいなのだろうか。もう一ヶ月以上過ぎた。


ひょっこり帰ってくるんじゃないかと思ってチョコレートを今日まで食べられなかった。一緒に包みを開けてどの猫が可愛いか言い合いっこしたかったんだ。どこかでまだ帰って来てくれる様な気がして、今日になっても猫の形のチョコレートは食べずに花の形のチョコレートを選んで食べてしまった自分を笑いたくなった。


私よりも彼に懐いている猫を置いて、彼は何処に行ってしまったのだろう。




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