【星宿(ほしやどり)の子シリーズ】 番外編 壱 シリウス
龍王国 32代王帝 シリウス
これは、シリウスがまだ若かった頃の話。
あと半年で成人の儀を迎えると言う頃、シリウスは瑠璃色の青玉の指輪を持ってリアンの家を訪れた。
シリウスは随分と幼い頃から、乳母の娘であるリアンと結婚すると決めていた。だから、結婚の契りを結ぶため、リアンの元を訪れたのだ。
『約束する、成人する時、私の左隣にいるのはリアンだ』
『シリウス。それならば、私も約束するわ。私は貴方との結婚式でレースのドレスを着るわ。貴方を思って一針、一針、編んでいくわ』
子供の頃、そんな約束をした。
それが遂に叶うのだ。
シリウスはリアンの家の前で何度も深呼吸をして、高鳴る鼓動を落ち着かせる。
リアンはシリウスより、3ヶ月早く生まれ、二人は幼馴染であり、姉弟のような関係であった。
シリウスはリアン以外の女性を深くは知らなかったが、この気持ちは特別なものである、と知っていた。
リアンの豊かな金色の髪に瑠璃色の瞳が大好きで、見つめられるだけで胸が高鳴る。
だから、これは恋なのだと思っていたし、リアンとならば末永く仲良く暮らせると思った。
そしてこの気持ちはおそらく、自分だけの独りよがりではなく、きっとリアンも同じ気持ちだと思っていた。
(よし、大丈夫)
シリウスがリアンの名を呼ぼうとした時、戸の内側からその声は聞こえてきた。
「では、日取りが決まったら、連絡する」
「はい……」
リアンの父ではない男の声だった。リアンが男に小さな声でそう頷くのも聞こえた。
(この声は、聞いたことがある……)
「王帝も楽しみにされている」
この言葉が何を指しているのか、シリウスは察知した。そして、この声の主の正体も。
シリウスが怒りに任せて扉を開けた瞬間、声の主である弟のカイルが飛び込んできた。
「カイル!」
「これは、兄上、乳母様に会いに来られたのですか?」
「リアンに会いにきた」
カイルは可笑そうに、嘲笑う。
「そうですか、王の妾となる女に会いにきた、と。王に輿入れをするのですから、よもや手をつけますまい」
ひらりと衣の袖を宙で遊ばせているカイルをシリウスは力の限り、殴った。
「お前、リアンを愚弄したこと、後悔させてやる」
カイルに馬乗りになり、何度もその頬を殴った。殴る度に拳から血は噴き出し、カイルの口や鼻からも血が出た。
そして綺麗に結い上げた髪が何度も揺れ、余計に腹が立った。
(あと数時間、いや、いや、もっと早くきていたら、もっと前に妻になってほしいと告げていたら)
考えても詮無いことなのに。
(龍王国一の宝玉を探すより、彼女に愛を誓えば良かった。きっと、こいつは宝石ができるタイミングを見計らって、態と)
リアンはシリウスの血だらけの手を掴み、ニコリと笑った。
「もうやめて」
リアンの瞳は涙が溜まって、いつも以上にキラキラとしていた。
リアンの輿入れの日、王宮は華やかに飾り付けられていたが、それでもリアンの美しさが際立ち、人々は彼女から目が離せなかった。
皇后である母はリアンを見て、そして、腑抜けとなったシリウスを見て「心配ないわ。あの子は私が守るから」と言った。
皇后にとっても娘のように可愛がっていた子が、突然王帝の妾となったことは、受け入れがたかったのだろう。
王帝の節操がないところも、息子が放心状態になるのも耐えられなかったのだ。
だから、そう言ったのだと思った。とは言え、何もできないだろう、そう思っていた。
結婚式が終わり、初夜の前に、皇后は自ら毒を飲んだ。
その日、初夜どころではなくなり、王帝はリアンの元に通うことはなかった。
母が毒を食らったと聞いて、シリウスは急ぎ母の寝所に馳せ参じ、その手をしっかりと握る。
ぐったりとしていたが、脈拍はあり、温もりも感じた。
シリウスはこの時、初めて、己の力を他者に使った。
自分に解毒の異能があったことを知ったのは、遥か昔、幼い頃だ。誰かに毒を盛られ、のたうち回っているうちに解毒したのが最初だ。
「貴方が助けてくれると知っていました」
弱々しい顔で、シリウスを見つめる母は、それから幾度となく毒を喰らう女と化した。
リアン以外の女を娶るなど考えられず、母は毒を喰らい、正常に頭が働いていることが少なくなり、リアン以外の女性など誰でも良い、と思っていたシリウスは臣下達が薦めるまま、凰国の姫と婚姻を結んだ。
「貴方がお望みの姫君のように金色の髪も瑠璃色の瞳もないけれど、私は貴方の妻であり、この国を良き方に発展するために参りました」
頬を叩かれたような衝撃だった。
凰国の姫はとても人間ができていて、徳が高い人だった。
彼女が素晴らしいが故、シリウスは他の女と枕を共にすることはなかったし、彼女が妻であり、皇后となることに不服もなかった。
ただ一度だけを除いて。
平穏な1日だった。
そんな生活を5年ほど続けていたある日、母が主催の茶会が開かれたのだが、リアンの席がなかった。
この頃には母の意識は朦朧としていて、母が忘れていても、臣下がそれを指摘しないことも多く、またか、とシリウスは思っていた。
シリウスが臣下を呼び止めようとした時、妻に止められたので、何故だ? と尋ねると彼女はシリウスに手紙を渡したのだ。
シリウスは手紙を読み、複雑な心持ちとなり、思わず妻の顔色を見る。
妻はシリウスを見つめ、ただ、黙って頷いた。
シリウスは茶会を中座した。
平穏な生活の中で鎮火したはずのかつて大炎の焼け跡には、くすぶっていた炎が、妻によってくべられた薪に燃え広がり、シリウスの心が炎で包まれた。
どうか、リアン様とお会い下さい。
私は子供ができない身体なのだと、貴方に嫁ぐ前に医師に言われました。
今まで黙っていてごめんなさい。
子を宿せぬ皇后など、皇后ではないのです。貴方は一度も妾を置くことはなかった。
このままでは、貴方に子を抱かせてやることすら叶わないのです。ですから、どうか、どうか、リアン様とお会い下さいませ。
リアン様もご存知ですから。
(本当か? あの貞淑なリアンが不貞を容認するだろうか? あり得ない。だが、本当だったとしたら? 子を成せる可能性もあり、若いころに蓋をして鍵をかけた思いが、カチリと音を鳴らしてゆっくりと開いていくような感覚になった)
シリウスが妻からもらった手紙には、幾つもの水滴の痕があり、妻が涙しながらこの手紙を書いたのが手に取るように分かった。
不貞をしろと、そんなこと言いたくはないのだろう。
それでも、皇后としての責任を全うしようと、世継ぎを作る務めを果たせぬ自分を責めながら、国の行く末を考え、この方法を取ったのだろう。
本来ならば王の妾ではなく、他の誰かを入廷させれば良いのだが、気持ちがないものと閨を共にすることができない私を安じ、この方法を取ったのだろう。
そんなことが容易に想像できた。
シリウスは手紙を懐にしまい、中庭へと続く廊下を歩いていると、中庭の真っ赤な牡丹の花の中にリアンを見つけた。
5年ぶりに見た彼女をシリウスは思わず抱きしめた。
リアンは「殿下……」と言って、シリウスの腕の中で抵抗するが、シリウスはより強く抱きしめると、彼女の細い体が密着し、ふわりと椿の匂いが鼻を掠めた。
だが、なぜだろうか。
昔と異なり、あんなにも望んだことなのに、純粋に世界の全てが彼女と言うわけではなく、シリウスの中では確実に妻への気持ちも成長しており、リアンにも妻にも申し訳ないと思いながら、ただ、リアンを抱きしめていた。
リアンが懐妊した、と聞いたのはそれから、3ヶ月が経ったころだった。
朝議で報告された際、王は興味がなそうに「そうか」と一言だけ発した。
シリウスの父である王帝には妾がたくさんいたからか、リアンの顔など思い出せずにいるのだろう。
世継ぎも潤沢にいる。今更一人増えようが、自分の治世は盤石であることに変わりがない。
いや、それよりもむしろ、皇后の体調悪化の方が甚大だ。この国では皇后または王が崩御すると、夫婦の残された方も政治から退くからだ。
今は末席に座る妾の妊娠より、皇后の体調の方が彼の関心の全てだったのだろう。
だが、そんな王を横目にシリウスの心は満たされていた。そしてこの手引きをした皇太子妃も、安堵していた。
リアンも嬉しさの中に複雑な心持ちを隠しながら、膨らむ腹を見守り、子に会える日を待ち望んでいたのだ。
リアンが産気付き、いよいよ出産、という日、空から大量の流星が地上に降り注ぎ、後宮の屋根を突き破った。
リゲルが産まれた日、母である皇后が崩御した。流星に当たった家屋の下敷きになったと言われたが、過去にも何度も毒物を飲んでいたから、この日もわざと毒を喰らったのかもしれない。
夫である王が自分の親友の娘、息子の恋人を妾にしたことをずっと恨んでいたから、母の命をかけた長期的な計画なのではないか、とシリウスは思っていた。
母の遺体にシリウスが近づいた時、毒を飲んだ痕跡があったからだ。
「最後に身を結びましたね」
母ひ晩年は精神を安定するためか、夫への復讐からか、兎に角、依存するように毒を喰らっていた皇后を見ていた。
不貞をして授かった子が生まれるのを騒ぎにならないようにするため、己を人身御供にしたのかもしれない。
皇后である母を亡くしたこの日、シリウスに子供が産まれ、シリウスの頭上には王冠が輝いていた。
王であった父に、リアンとシリウスのことを知られたらリゲルは殺されてしまうだろう。
だから、今度は亡くなった母の代わりに父が毒を喰らう番だ。毎日毒を喰らい、その命の炎が消してもらう。
それが我が子リゲルに対する守り方だ。
皆が狂気となって欲した星宿の子リゲルは、こうして産まれ、育った。